美妙斎美妙

3話 三 得意の絶頂

2,630字 約5分 2014年8月3日 公開

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 その頃徳富蘇峰(とくとみそほう)朝比奈碌堂(あさひなろくどう)森田思軒(もりたしけん)の三人が新らしい文人の会合を思立(おもいた)って文学会を組織した。蘇峰と碌堂とは新進第一の論客として勢望既に論壇を圧していた。思軒の名声はマダ両者に及ばなかったが、造詣(ぞうけい)文章は(つと)に文壇の第一人者と推されていた。この三人が幹事となって文壇各方面の第一流と目される名士を毎月案内して会合した。この文学会は後には次第に有象無象(うぞうむぞう)を狩集めて結局文人特有の放肆(ほうし)乱脈に堕して二、三年後に自然的に解体したが、初めは最も選ばれたる少数者の集団であって、当時の私設翰林院(かんりんいん)(もっ)て目されていた。美妙は実に純文学を代表して耆宿(きしゅく)依田百川(よだひゃくせん)と共に最始の少数集団に(くわわ)っていたので、白面の書生が白髯の翁と並び推された当時の美妙の人気を知るべきである。

 当時徳富蘇峰の『国民之友』は政治を中心としてあまねく各方面の名士を寄書家に網羅(もうら)し、鬱然(うつぜん)として思想壇に重きをなした雑誌界の覇王(はおう)であった。この『国民之友』が特別附録として小説を載せ初めたのは従来この種の評論雑誌が漢詩文あるいは国風の外は小説その他の純粋美文を決して載せなかった習慣を破った破天荒の新例であった。随って『国民之友』の附録は著るしく読書界の興味を()き、尋常小説読者以外の知識階級者の注目をも集めて世評の焼点となった。かつこれに加えて広告に巧みな民友社が商略上大袈裟(おおげさ)吹聴(ふいちょう)したから、自然この附録に載ったものは大家を公認される形があって、読書界が毎年二季のこの附録を迎うるやあたかも回向院(えこういん)の番附を見ると同一の感があった。その文壇に重きをなしたは今の『改造』や『中央公論』の附録のようなものでなくて、皮肉な正太夫はこれを称して民友社の大家製造といった。(もっと)もこの大家製造は年々次第に粗製濫造(らんぞう)となって、終には民友社の折紙(おりがみ)が余りに権威を持たなくなってしまったが、その初めはこの附録が文人の進士登第と認められていた。

 この新例を創めたのは二十二年の春であって、美妙の新作は春廼舎朧(はるのやおぼろ)の短篇と相並んで第一回の選に入った。当時春廼舎は既に文壇の第一人者として仰がれていたから選に入るのは少しも不思議はないが、新進年少の美妙が春廼舎と並んで推されたのは異数であった。シカモ、美妙は特にその作「蝴蝶(こちょう)」のための挿画(さしえ)を註文し、普通の画をだも評論雑誌に挿入(そうにゅう)するは異例であるのを、()りに択ってその頃まだ看慣(みな)れない女の裸体画を註文して容易に()れしめたのは、蘇峰に作家の意思を尊重する理解があったからだが、また以て美妙の人気が先例のない無理な註文をすらも容れしめたほど高かったのを証する事が出来る。

 が、この挿画の策略が見事に(あた)って作その物よりは美くしい女の裸体画が公衆の非常なる好奇心を喚起した。この画は平家の若い美くしい上臈(じょうろう)(だん)(うら)から(のが)れて、岸へ上ったばかりの一糸をも掛けない裸体姿で源氏の若武者と向い合ってる処で、ツイこの頃も明治の裸体画の初めとして或る雑誌に写真が載せられた。今見れば何でもない(まず)い画であるが、好奇心から評判になると同時に道学先生の物議を(かも)し、一時論壇は裸体画論を盛んに戦わして甲論乙駁(こうろんおつばく)(しば)らくは止まなかった。美妙自身もまた幼稚な裸体画論を主張して、議論が盛んになればなるほど「蝴蝶」の挿画が益々(ますます)評判となって、知るも知らざるも皆裸蝴蝶を喧伝した。この評判に蹴落(けおと)されて春廼舎の洗練された新作を口にするものは(ほと)んどなく、『国民之友』附録に対する人気を美妙が一人で背負(せお)ってしまった。が、実をいうとこの評判は美妙の作よりは省亭(しょうてい)の拙い裸体画の成功であったのだ。今なら当然発売禁止となるべきこういう下劣な裸体画を寛仮した当時の内務省の役人の頭は今の官憲よりも美妙斎よりも進歩していた。S・S・S即ち鴎外(おうがい)の新声社派の「おも影」が『国民之友』に載って読書界を騒がしたのはこの年の夏の第二回の特別附録の時であって、美妙は文壇的には鴎外よりも早く、春廼舎に次いでのエポック・メーカーであった。

 一方、美妙斎が経営していた『以良都女』は、婦人雑誌としての思想上の位置こそ巌本善治(いわもとよしはる)の『女学雑誌』に及ばなかったが、美妙の編輯だけに頗る文学的色彩に富み、()てて加えて美妙の人気が手伝ってかなりに多数の読者を吸収していた。質も量も今の雑誌と比べては話にならぬが、丁度一と頃売れた『女子文壇』に若干の芸術趣味を加味したような相当な雑誌であった。厳本の『女学雑誌』の素朴に引換えて極めて花やかな色彩を帯び、その寄書欄から多くの若い女の秀才を輩出した。後に美妙と結婚して蜜月の甘い陶酔が()めない中に果敢(はか)ない悲劇の犠牲となった田沢稲舟(たざわいなふね)もまたこの寄書欄から出身した女秀才であった。

 美妙は美男であった。ドチラかというと為永(ためなが)の人情本にありそうなニヤケ男であった。言語が物柔らかで応対も巧みであった。女の好きな国文の素養があって、歌や韻文も上手(じょうず)なら芝居や音楽をも(かじ)っていて、初対面のものを煙に巻く博覧の才弁を持っていた。その上に天下の人気を背負って立って、一世を(むなしゅ)うする大文豪であるかのように歌いはやされていたから、当時の文学少女の愛慕の中心となっていた。『我楽多文庫』に載った「情詩人」というは多分自分自身を主人公としたのであろうが、如何にも多恨多感な詩人らしい生活を描いたものだ。男の我々が見ると(たま)らなくキザで鼻持がならないもんだが、当時の若い女をゾクゾクさした作で、キザな厭味(いやみ)な文句を文学少女は皆暗誦(あんしょう)していたもんだ。

 が、美妙斎の全盛は裸蝴蝶時代が絶頂で、それから以後は次第に下り坂となった。『都之花』に載った「花車」は人気のお(かげ)で多少読まれたが、具眼者の間には愚作と認められていた。最も苦辛(くしん)した労作と自からも称していた「いちご姫」は昔しの物語の焼直し()みて根ッから面白くなかった。一時は好奇心を牽いた「おじゃる」(ことば)徐々(そろそろ)鼻に附いて飽かれ出した。これに反して一方妙なイキサツから美妙と(にら)み合いになった紅葉はメキメキ売出して硯友社の勢力が漸次に文壇を席巻(せっけん)し、何時(いつ)とはなしに美妙に取って代って人気を蚕食してしまった。文壇の寿命が如何に短かいにしても美妙の人気は余りに飽気(あっけ)なくて線香花火のようであった。だが、その短かい間の人気は後の紅葉よりも樗牛(ちょぎゅう)よりも独歩(どっぽ)よりも漱石(そうせき)よりも、あるいは今の倉田(くらた)よりも武者(むしゃ)よりも花々しかった。美妙がもし裸蝴蝶時代に早世したなら必ず一代の大天才なるかのように天下を挙げて痛惜哀悼を惜まなかったろう。(なま)じい生延(いきの)び過ぎて最も気の毒な末路に終った。

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