4話 五月三日
読み方を変える
“伊豆の地平線はちょうど私のお乳のさきにさわるくらいの高さに見えた”
一番初めにお目にかかったときにも、耳にしたこの御言葉。そして、その後幾度でも耳にする御言葉。かの子の「つれづれと女なる身のはずかしさ、悲しさ覚ゆ乳房いだけば」を思い起こす。
先生は詩人だと思う。先生の作品から私は詩を感じて仕方がない。当の先生は、お逢いすると十字架を背負っている人のようにみえるのに。人生のピエロ。一番むずかしい役割である。
言葉は表現できない真実なもの、真実な悩みを体当りさせられているようで、もし私に先生の抱く苦しみの一つでも理解することができ、語られたらと思わずにはいられない。
先生は、ずるい
接吻はつよい花の香りのよう
唇は唇を求め
呼吸は呼吸を吸う
蜂は蜜を求めて花を射す
つよい抱擁のあとに残る、涙
女だけしか、知らない
おどろきと、歓びと
愛しさと、恥ずかしさ
先生はずるい
先生はずるい
忘れられない五月三日
*
*
*
“死ぬ気で! 死ぬ気で恋愛してみないか”
“死ぬ気で、恋愛? 本当は、こうしているのもいけないの……”
“有るんだろう? 旦那さん、別れちまえよォ、君は、僕を好きだよ”
“うん、好き。でも、私が先生の奥さんの立場だったら、悩む。でももし、恋愛するなら、死ぬ気でしたい……”
“そうでしょう!”
“奥さんや、お子さんに対して、責任を持たなくては、いけませんわ”
“それは持つよ、大丈夫だよ。うちのなんか、とてもしっかりしているんだから”
“先生、ま、ゆ、つ、ば……”
I love you with all in my heart but I can't do it.
何処にもおビールがなく、私の缶ビールを籠に入れて、思想犯の独房にのこのこ上がり、御一緒に飲む。
五月三日、新憲法発布の日、ほのぼのとした月の感覚だった。そして先生の背はいつものようにまるい。雨あがりの道は足を吸いこんで放さない。唸りたいような声を押えて堤を折れる。
テッサの心以外、何ものもない今の私。
“困ったなあー”
“涙は出ないけれども泣いたよ”
“死なない?”
“一生こうしていよう”
“困ったなあー”
先生の腕に抱かれながら、心よ、先生の胸を貫けと射る――どうにもならないのに。いつまでもお幸せで、いつまでもお幸せでと。
忘れられない――振り返って、もう一度とび込んできて下さった心。心……ああ、人の子の父である人なのに、人の妻である人なのに――“君を好き!”先生、ごめんなさい。