5話 5
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何年かまた経ちました。
ある時あちらの新聞を広げて何気なく見て居りますと、重要会議で巴里へ行く一行の中に弟の名を発見しました。私は急に懐しくなり、何んとかして逢いたいと思い、いろいろと金の工面をして、シンガポールへ出て来て、日本人会の人を通し、弟に面会を求めたのでしたが、会う機会さえ与えられませんでした。それどころか、誰も私の申すことなど信じてくれずてんで相手にもならないのです、彼の実兄だと主張する私をただ蔑んだ眼で見て笑うばかりでした。その時始めて、弟と私との間の大きな隔りを知り、情けない思いに一夜船を見ながら泣き明しました。
半年後、帰朝の途にあった一行は、再びシンガポールに一泊することになりました。
こんどこそはと決心して、物売りに化け、彼の船室に入り込んだのです。
港へ船が着くと、よく土人や支那人が名産物を持って、ガヤガヤと入り込みます。私はその中に交って、弟の室に入り、中から自分で鍵をかけたのです。
弟は最初私を見て大層驚き、顔色を変えていきなり手近かのベルを押そうとしましたので、その手を押えますと、弟は蒼い顔をして睨みつけながら、
『無礼な真似をするな』
怒鳴りつけましたが、何を思ったのか急に低声になって、こんな事を云いました。
『彼女と一緒じゃないよ、誤解してくれちゃ困る』
と云って苦笑しました。弟の態度が和らいできたので、私も幾分軽い気持ちになり、
『何云っているんだよ、オイ、僕だ』
私は彼の肩へ手をかけますと、彼はまた二三歩後へ下って、
『君はあの女の亭主じゃないのか?』
と云って額の汗を拭い、夢からさめたようにほっと溜息を吐いて、云い訳でもするようにいうのでした。
『どうもいろんな奴がやって来るもんだからね、僕はまた暴力団かと思ったんだ。アハハハハハ。して君は一体どなたでしたっけ?』
漸く落付きを取り戻し平静にかえった弟は、静かに私を眺めて姓名を思い出そうとしていましたが、軈てはッとして息を吸い込み、穴の開くように私の顔を見詰めました。今度の驚愕は前の如きものではなく、その大きな眼を一杯に見開き、唇は痙攣して引きつり、低い呻吟くような声が咽喉から押し出されました。
『あッ兄さんだ! 兄さんだ!』
『ウン。僕だよ』
『兄さん!』
彼は危なく卒倒するところでした。それもその道理です。今まで死んだと思い込んでいた人が、突然目の前に現われたのですから、誰だって胆をつぶすのは当然です。
二人は長い間ソファーに倚りかかって話し合いました。たった一人しかない兄弟ですから、たとえ落魄しているとは云え、兄が生きていたということは、大変に弟を喜ばせたようでした。しかし表面は私はもうこの世にない人間になっているので、兄弟だと突然発表も出来ないから、今はこのままにしてそっと別れ、そして一足おくれて次の船でともかくも東京へ帰ったらよかろう。その上で後々の相談にも応じるからという彼の言葉に従って、私はひとまずひきあげました。弟は旅費は勿論当分の小遣まで渡してくれましたので、やはり何と云っても兄弟だなと染々思いました。
私は約束通り次の船で日本へ帰りました。横浜まで出迎えに来ていてくれた弟と連れ立って、懐しさと、云いようのない喜びに胸をおどらせながら、東京へ入りました。
ところがどうでしょう、彼は私を欺いたのです。自分の邸へ連れて行くのだと申して、市外のある私立精神病院へ連れ込んだではありませんか。
私はその時始めて弟の悪辣な計画を知って憤り、彼が時機を見て発表するからそれまでは秘密にしていろ、と堅く口留めしました自分の身分をすっかり院長に語ってしまいました。そして本当は私が伯爵家を相続すべき人である事まで委しく説明したのですが、院長はにこにこして私の話をただ聞いているだけで、一向取り上げてくれず、その日から私は伯爵様というニックネームで、狂人としての取り扱いを受けるようになりました。
厳重な監視のもとに幾月かを過しましたが、弟はそれきり一度も訪ねても来ませんでした。私は憤りに燃えました。そして毎日彼への復讐をのみ考え暮らすようになりました。後になって聞いたことですが、私の一生涯の入院料は、彼の手から院長へ前納してあったのだそうです。
私はある夜、看護人の隙を狙って病院を脱け出しました。
道案内も分らず、あてもなく歩いている中に、いつか夜が更けてしまいました。どこをどう歩き廻ったかよく記憶して居りませんが、ふと小屋掛の建物にまだ灯が見えているのを見て、疲労しきっている私は夢中でその中に飛び込んでしまいました。
それが今いるサーカスだったのです。人目を怖れ、弟の捜索の手を逃れるために大きな狒々の毛皮の中に姿をかくしているのです。南洋踊りだなどと出鱈目な踊りを踊る浅間しさも、その日を食べてゆくためには目を閉ぶって我慢しなければなりません。しかし鉄の処女だけは私から買って出た芸なのです。何も悪い事をしないのに、狂人として精神病院へたたき込まれるよりは、むしろ残忍極まる処刑でも、鉄の処女の方がまだしもだと思うので、弟に対する怨恨の薄らがないように、毎日あの恐しい鉄の扉の中に入るのです。彼は私の資産を横領したのみでなく、私の一生を葬り去ろうと企んだ、それだけだって許し難いのに、その上なお最愛の女をも奪ってしまっていたのです。
ふとしたことから、智恵子が弟の妻になっている事を知りました。私は一目でいいから彼女に会いたい、会ってこの顛末を物語り、智恵子の口から慰めてもらいたいと思いました。しかし彼女に会う機会はなかなかまいりませんでした。