6話 6
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やっと私の願いが叶う日が来ました。上野の寛永寺にお茶の会がありまして、智恵子がそこへ行くということを、新聞で知ったのです。早速上野へ参り、寛永寺の附近をうろついていて、永い間あこがれていた彼女の姿を見ました。この機会を外してはもう永久に会うことは出来まいと思い、見えがくれに従いてゆきました。智恵子は運転手に何か云っていましたが、軈てたった一人で寛永寺の門を出て、静かに帝展へ入りました。
三十年も過ぎると流行というものは再び戻って来るものでしょう。私の目に残っている智恵子はよく藤色矢絣のお召の着物を着ていました。それがまたよく似合いました。前髪を眉の上まで切り下げて、細面を幾分か丸く見せて居りました。
処がどうでしょう。今日の智恵子はやはり藤色矢餅の着物を着ているではありませんか。そして前髪も縮らせて下げています。三十年前の懐しい姿そのままの智恵子は、いま十歩を隔てぬ処にいるのです。私はなつかしさに思わず震えました。余り嬉しくってじっと黙って眺めているだけでは我慢が出来ませんでした。
夕方の人気が少なくなったのを見計らって、そっと後に従いて歩きました。
別館には殊に人が少のうございました。智恵子が選手の立像の前に立って、その男性的な筋肉に見入っている時、たまらなくなった私はふいに智恵子の前に姿をあらわして云いました。
『智恵子さん、私ですよ。お見忘れになりましたか? ジョホールで死んだことになっている私ですよ』
智恵子は少しの間棒立ちになったまま、身動きもしませんでした。
日にやけたこの顔も、この声も、彼女の記憶を喚び起すには充分であったほど、その瞬間の私は昔の私にかえっていたのでした。
智恵子の顔は見る見る蒼ざめ、しっかり握り合せている両手が、ぶるぶる震えているのがはっきりと分りました。
『お憶い出しになりましたか? 私はこうして生きていたんです。あなたの目の前にいる私はお化けでも何でもありませんよ』
彼女は額に手を当てていました。前髪の毛が微かにゆれていました。
『何だか私にはさっぱり分りません。どうぞ宅の方へ入らして下さいませ、こんな処ではお話も出来ませんから』
そう云うと智恵子は踵を返して、足早やに歩き出しました。ところでその邸へ行っては、またしても掴って精神病院へ打ち込まれるに決っている。私は慌てて云いました。
『弟にはまた改めて会います。今日はあなただけにお話がしたいんです。智恵子さん待って下さい。東伯爵夫人! 智恵子さん!』
私は故意と大きな声を出しました。彼女が四辺の人に聞えるのを怖れるだろうと思ったからです。果してどきりとしたと見えて、周囲を見廻しながら立ち止って、
『ではとにかく、外へ出ましょう。外へ出てお茶でも頂きましょう』
伯爵家の定紋のついた自動車は出口に横附にされていましたが、運転手の姿は見えませんでした。多分彼女の出て来ようが余り早かったからでしょう。
二人は連れ立って、人の余りいない精養軒のガーデンに入りました。
そこで智恵子に何もかも話してしまいました。彼女はただ驚いていました。勿論何も知らなかったのです。弟は私の事については一言も話してなかったと見えます。
『今更もう取り返しもつきません。弟の家内になって幸福に暮しているあなたをどうしようと云うのでもない。しかし弟は実に怪しからん非道い奴です。私の出現がどれほど彼を苦しめたか知れないが、私を生きながら葬ろうとした罪は宥せません。私を欺いて、東京へ呼び寄せ、いきなり精神病院へたたき込んで、永久封じ込めようなんて――』
『私はほんとに何も存じませんでしたの。お宥し下さいと申上げたって、お宥し下さるわけはありません、が、またお許し下さいなどと厚かましいお願いの出来る身ではございませんけれど――』
智恵子の声は打ち沈んで、苦悶の色がありありとその美しい顔に現われていました。
『許すもゆるさないもない、もう皆片づいている今日じゃありませんか、アハハハハハハ』
私の声はうつろのように響きました。
『では、どうしろと仰しゃいますの?』
『それは貴方がたのお考えに任せましょう』
智恵子は青褪めて、
『はい。よく分りました、改めて主人から貴方へお詫びを致させます。そして今の地位財産を貴方のお手にお返し申上げなければなりません。どうぞ、私をお信じ下すって暫時我慢遊ばして下さいませ』
『貴女のお心は昔に変らないが、弟は何というか分りませんよ。また私を掴まえようとするでしょう』
『もうそんな怖しい事は仰しゃって下さいますな、私が責任を負います。そして只今のお住居は?』
『お住居? アハハハハハ。それはちょっと申せませんな』
『ではどうしてお返事を申上げたらよろしゅうございましょう?』
『御用があったら新聞へ広告を出して下さい、暗号でもよろしい。しかしこのまま逃げてしまおうたって、逃がしやしませんよ。あなたの蔭には私がいつでもついていると思って下さい。どこからか、あなたを凝と見ていますから』
智恵子は夕闇の中で身慄いしました。