鉄の処女

7話

2,387字 約5分 2013年2月11日 公開

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 その日きり私は智恵子を見ません。随分注意していたのですが、恐らく彼女はそれ以来外出もしなかったのだろうと思っていました。

 一ヶ月ほどたっても智恵子からは音信がないので、私は彼女の心を疑い始めました。私に会った時は何しろ突然の事ではあり、驚きの余り一時逃れにああは約束したものの、さて考えてみれば馬鹿々々しい、せっかく自分達のものになっているのに、むざむざと返してしまうなんて詰らない、という欲心が起ったかも知れない。事によると、弟と一緒になって自分を欺く気かも知れない。私はうかうかしてはいられません。ああいう人達の事ですから、どんな悪計をめぐらすかも分りませんからね。人知れず捜索の手を延し、いきなり掴えるのではないかと思うと心配になって、何となく身に危険の迫っているのを感じます。しかしまたこうも考えるのです。智恵子は病気じゃないか知ら、上野で会った時も顔色は余りよくなかった。そう思うとこんどはまた違った意味で心配になり出します。

 ある夜、私は思案にあまって遂々伯爵の邸内に忍び込みました。

 来客があったと見えて、方々の部屋には灯がついていましたが、夜が更けていたので中は(しん)としていました。私は家の中の案内はよく知りぬいているので、こんもりとした植込みを通りぬけ、泉水をまわって智恵子の居間の方へ行きました。

 幸いそこの一つの窓のブラインドの下の方が二寸ばかり開いていましたので、私はじっと室内を覗き込みました。

 客の帰った後で夫婦は暖炉にあたりながら、頻りに話し合っていました。が、二人の顔には云いようのない当惑の色がただよって見え、何となく憂鬱な空気にとざされていました。殊に智恵子は一ヶ月余り見ない間にすっかり(やつ)れ果てて、物凄いように青ざめていました。私は中の話を聞こうとして硝子(ガラス)に耳をぴたりとつけて、きき耳を立てていました。

『私はどうしてもこの儘ではいられません、何もかも分った今、貴方のお心が翻えらなければ、私には私の決心がございます』

 智恵子の声は悲痛を帯びていました、弟は吸いかけの葉巻をポンと暖炉の中へ投げて、眉を深く寄せながら云いました。

『今更そんな馬鹿なことが信じられるか。兄はあの時死んだんだ、遺骨まで届いて、立派に葬式もすませている、兄は確かに死んだんだ。この世にいないんだ、いいか。分ったか。もう二度とその話はするな』

『でも生きていらっしゃるんですもの。私はすっかりお話を聞いてしまったんですから、貴方がどうしても私の言葉をお信じ下さらないなら、お兄様をお連れしてまいりましょう』

『今頃兄だなんて、突然現われて来たって誰が信じる。そんなくだらない事に取り合っちゃいられない、もうお前もそんな馬鹿げた事を真面目になって、心配するのは止しなさい。兄は本当に生きているはずはないんだからな』

『だって確にこの眼で見て、この耳でお声を聞いたんですもの』

『空耳ってこともある、幻想を見ることもある。この世に生存していない人間が見えたりするようじゃ、よほどお前も気を落ち付けないといけないぞ』

『狂人だと仰しゃるの? ついでに私も精神病院へ入れておしまいになるといいわ、一生涯の扶持をつけて――』

 智恵子の声は剣のように鋭く、伯爵の胸を刺したらしかったんです。

 弟はすっくと立ち上って、智恵子の方へ一歩進みました。彼の顔に怖しい表情を見た私は思わずアッと小さい叫び声を出しました。弟は気が付かなかったようでしたが、智恵子は窓の方を振り向いて、そこに私の顔を見たのでしょう、よろよろと立ち上りましたが、直ぐまた椅子の中に倒れてしまいました。

 気絶したのでしょう。弟がベルを鳴らしたり、女中を呼ぶ声がしたりして、俄かに家の中が騒々しくなりました。

 私は裏口からこっそり逃げ出しました。

 それきり伯爵邸へは行きませんでした。それから十日ばかり過ぎましたら、智恵子が死んだということが新聞に出ていましたので、非常に愕きました。他殺か、自殺か、とありましたので、思わずはっと胸を打たれました、他殺なら別問題ですが、もし自殺だったとしたら、彼女を死に導いたものは私なんです、智恵子は私との約束を果し得ず、責任を感じて、死んで謝罪する積りだったとしか思われないんです。そう考えると(たと)え直接手を下さないといっても、私が殺したも同様ではありませんか。あれ以来日夜良心にせめられて、苦しくて、苦しくて堪らないんです。私が智恵子に会いさえしなければ、何事もなかったんです、イヤ智恵子ばかりじゃない。弟にも会わなければよかったのです。私の生涯はもうとうの昔に終ってしまっていたはずなのですから、未練にも生きているばかりに飛んだ罪をつくってしまいました。ジョホールの土になる気でさえあったら、智恵子を死ぬほど苦しめるような事もなかったでしょうし、弟をあんな悪者につくり上げずともすんだのでしょう。一旦死んだ人間が生きているという事が(そもそ)も間違いの原因だったのです」

 男は語り終ると悄然として首を垂れた。その顔には苦悶の表情がありありとあらわれていた。

 S夫人はいつの間に取ってあったものか、ハンド・バックから戸籍謄本を出して、彼に見せながら云った。

「では、この死亡となっているのが貴方なのですか?」

「はい。明治十七年生で、明治四十一年に死亡したことになっているはずです」

 それだけ聞くと私達は彼に別れた。

 ともかく一応事務所へ帰ろうと思って、二人は足早やに電車道まで出て来ると、そこに一人の運転手風の男が、待ち受けてでもいたように、つかつかと前に来て帽子を脱いで頭を下げた。私はその男の顔に見覚えはなかったが、夫人とは知り合いだと見えて、

「直き後から帰りますから、あなたは一足お先に事務所に帰っていて下さい」

 そういうなり夫人はその男と一緒に夕方の賑やかな町の中に姿を消してしまった。

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