鳥影

19話 (四)の六

1,473字 約3分 2008年11月11日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 二度目の合戦が始つて間もなくであつた。静子の前の「ただ有明」の札に、対合(むかひあ)つた昌作の手と静子の手と、殆んど同時に落ちた。此方(こつち)が先だ、(いや)、此方が早いと、他の者まで面白づくで騒ぐ。

『敗けてお遣りよ。昌作さんが可哀想だから。』と、見物してゐたお柳が(くち)を容れた。

 不快な顔をして昌作は手を引いた。静子は気毒になつて、無言で昌作の札を一枚自分の方へ取つた。昌作はそれを邪慳に奪ひ返した。其合戦が済むと、昌作は無理に望んで読手になつた。そして到頭終末(しまひ)まで読手で通した。

 何と言つても信吾が一番上手であつた。上の句の頭字を五十音順に列べた其配列法(ならべかた)が、最初少からず富江の怨嗟(うらみ)を買つた。(しか)し富江も仲々信吾に劣らなかつた。そして組を分ける毎に、信吾と敵になるのを喜んだ。二人の戦ひは随分目覚ましかつた。

 信吾に限らず、男といふ男は、皆富江の敏捷(すばしこ)い攻撃を蒙つた。富江は一人で(はしや)ぎ切つて、遠慮もなく対手の札を抜く、其抜方が少し汚なくて、五回六回と続くうちに、指に紙片(かみきれ)で繃帯する者も出来た。

 そして富江は、一心になつて目前(めのまへ)の札を守つてゐる山内に、(すき)さへあれば遠くからでも襲撃を加へることを怠らなかつた。其度(そのたんび)、山内は上気した小い顔を挙げて、眼を三角にして怨むが如く富江の顔を見る。『ホホヽヽ。』と、富江は面白気に笑ふ。静子と智恵子は幾度(いくたび)か目を見合せた。

 一度、信吾は智恵子の札を抜いたが、汚なかつたと言つて遂に札を送らなかつた。次で智恵子が信吾のを抜いた。

『イヤ、参りました。』

と言つて、信吾は強ひて一枚貰つた。

 其合戦の終りに、信吾と智恵子の前に一枚宛残つた。昌作は立つて来て覗いてゐたが、気合を計つて、

『千早ふる――』

と叫んだ。それは智恵子の札で、信吾方の敗となつた。

『マア此人は?』

と、富江はシタタカ昌作の背を平手で(どや)しつけた。昌作は赤くなつた顔を(むつ)とした様に口を尖らした。

 可哀相なは慎次で、四五枚の札も守り切れず、イザとなると可笑(をかし)い身振をして狼狽(まごつ)く。それを面白がつたのは(あによめ)の清子と静子であるが、其狼狽方(まごつきかた)故意(わざ)とらしくも見えた。滑稽でもあり気毒でもあつたのは校長の進藤で、勝敗がつく(ごと)に、鯰髯(なまづひげ)を捻つては、

『年を()ると駄目です(なあ)。』

(こぼ)してゐた。一度昌作に代つて読手になつたが、間違つたり吃つたりするので、二十枚と読まぬうちに富江の抗議で()めて了つた。

 我を忘れる混戦の中でも、流石に心々の色は見える。静子の目には、兄と清子の間に遠慮が明瞭(ありあり)と見えた。清子は始終敬虔(つつまし)くしてゐたが、一度信吾と並んで坐つた時、いかにも極悪気(きまりわるげ)であつた。その清子の目からは(また)信吾の智恵子に対する挙動(しうち)が、全くの無意味には見えなかつた。そして富江の阿婆摺れた調子、殊にも信吾に対する忸々(なれなれ)しい態度は、日頃富江を心に(かろ)んじてゐる智恵子をして多少の不快を感ぜしめぬ訳にいかなかつた。

 九時過ぎて済んだ、茶が出、菓子が出る。残りなく白粉の塗られた顔を、一同(みんな)は互ひに笑つた。消さずに帰る事と、誰やらが言出したが、智恵子清子静子の三人は何時の間にか洗つて来た。富江が不平を言出して、三人に(あらた)めて付けようと騒いだが、それは信吾が(なだ)めた。そして富江は遂に消さなかつた。森川は上衣の鈕をかけて、乾いた(ハンケチ)で顔を拭いた。宛然(さながら)厚化粧した様になつて、黒い歯の間の一枚の入歯が、殊更らしく光つた。妖怪(おばけ)の様だと言つて一同(みんな)がまた笑つた。

 軈てドヤ/\と帰路(かへりぢ)についた。信吾兄妹も鶴飼橋まで送ると言つて一同と一緒に戸外(そと)に出た。雲一つなき(そら)片割月(かたわれづき)が傾いて、静かにシツトリとした夜気が、相応に疲れてゐる各々の頭脳(あたま)に、水の如く流れ込んだ。

目次に戻る

目次