57話 (十一)の八
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家に入つた信吾の心は、妙に臆んでゐた。彼は富江と別れて十幾町の帰路を、言ふべからざる不愉快な思ひに追はれて来た。強烈い肉の快楽を貪つた後の浅猿しい疲労が、今日一日の苛立つた彼の心を愈更に苛立たせた。『浅猿しい、浅猿しい!』と、彼は幾度か口に出して自分を罵つた。彼はモウ此儘人知れず何処かへ行つて了ひたい様な気がした。飽くを知らざる富江の餓ゑた顔を思出すと、言ふべからざる厭悪の念が起る。そして又、段々家へ近付くにつれて、恋仇の吉野に対する自暴腹な怒りが強く発した。其怒りが又彼を嘲る。信吾は人に顔を見られたくなかつた。
で、可成音立てぬ様に縁側伝ひに自分の室に行く。家中モウ寝て了つたと見えて、森としてゐた。
と、離室に続く縁側に軽い足音がして、静子が出て来た。四辺は薄暗い。
『アラ兄様、遅かつたわねえ。何処に居たんですか、今迄?』
『何処でも可いぢやないか!』と、声は低く、然し慳貪だ。
『マア!』
信吾は、わが仇の吉野の室に妹が行つてゐたと思ふと、抑へきれぬ不快な憤怒が洪水の様に脳に溢れた。
『貴様こそ何処に行つてるんだ? 夜夜中人が寝て了つてから!』
静子は驚いて目を丸くして立つてゐる。それが、何か厳しく詰責でもされる様で、信吾の憤怒は更に燃える。
『莫迦野郎! 何処に行つてるんだ?』と言ふより早く一つ静子を擲つた。
静子は矢庭に袂を顔にあてた。
『兄様……其様……。』
『此方へ来い。』と、信吾は荒々しく妹の手を引張つて、自分の室に入るとドツと突倒した。
『此畜生! 親や兄の眼を晦まして、…………』
『ワツ。』と静子は倒れた儘で声をあげた。先刻町から帰つてから、待てども/\兄が帰らぬ。母も叔母も何とも言つてくれぬだけ媒介者との話の発落が気にかかつた。自分から聞かれる事でもなく、頼るは兄の信吾、その信吾が今日媒介者が来たも知らずにゐると思ふと、モウ心配で心配で怺らなくなつて、今も密と吉野の室に行つて、その帰りの遅きを何の為かと話してゐた所。
静子は故なき兄の疑ひと怒が、悔しい、恨めしい、弁解をしようにも喉が塞つて、たゞ堅く/\袖を噛んだが、それでも泣声が洩れる。
『莫迦野郎!』と、信吾は再しても唸る様に言つて、下唇を喰絞り、堅めた両の拳をブル/\顫はせて、恐しい顔をして突立つてゐる。
静子は死んだ様に動かない。
『よし。』と信吾はまた唸つた。『貴様はモウ松原に遣る。貴様みたいなものを家に置くと、何をするか知れない。』
『マ。』と言つて、静子はガバと起きた。『兄様……その松原から今日人が来て……それで……』
手荒く襖が開いて、次の間に寝てゐる志郎と昌作が入つて来た。
『怎うしたんだい兄様?』
『黙れ!』と信吾は怒鳴つた。『黙れ! 貴様らの知つた事か。』
そして、乱暴に静子を蹴る、静子は又ドタリと倒れて、先よりも高くワツと泣く。
『何だ?』と言ひ乍ら父の信之も入つて来た。『何だ? 夜更まで歩いて来て信吾は又何を其に騒ぐのだ?』
『糞ツ。』と云ひさま、信吾は再静子を蹴る。
『何をするツ、此莫迦!』と、昌作は信吾に飛びつく。志郎も兄の胸を抑へる。
『何をするツ、貴様らこそ。』と、信吾はモウ夢中に咆り立つて、突然志郎と昌作を薙倒す。
『コラツ。』と父も声を励して、信吾の肩を攫んだ。『何莫迦をするのだ! 静は那方へ行け!』
『糞ツ。』と許り、信吾は其手を払つて手負猪の様な勢ひで昌作に組みつく。
『貴様、何故俺を抑へた』
『兄様!』
『信吾ツ!』
ドタバタと騒ぐ其音を聞いて、別室の媒介者も離室の吉野も馳けつけた。帯せぬ寝巻の前を押へて母のお柳も来る。
『畜生! 畜生!』と、信吾は無暗矢鱈に昌作を擲つた。