鳥影

57話 (十一)の八

1,496字 約3分 2008年11月11日 公開

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 (うち)に入つた信吾の心は、妙に(ひる)んでゐた。彼は富江と別れて十幾町の帰路を、言ふべからざる不愉快な思ひに追はれて来た。強烈(はげし)い肉の快楽(たのしみ)を貪つた後の浅猿(あさま)しい疲労(つかれ)が、今日一日の苛立つた彼の心を愈更(いやさら)に苛立たせた。『浅猿しい、浅猿しい!』と、彼は幾度か口に出して自分を罵つた。彼はモウ此儘人知れず何処かへ行つて了ひたい様な気がした。飽くを知らざる富江の餓ゑた顔を思出すと、言ふべからざる厭悪の念が起る。そして又、段々家へ近付くにつれて、恋仇の吉野に対する自暴腹(やけツぱら)な怒りが強く発した。其怒りが又彼を嘲る。信吾は人に顔を見られたくなかつた。

 で、可成(なるべく)音立てぬ様に縁側伝ひに自分の室に行く。家中モウ寝て了つたと見えて、森としてゐた。

 と、離室(はなれ)に続く縁側に軽い足音がして、静子が出て来た。四辺(あたり)は薄暗い。

『アラ兄様(にいさん)、遅かつたわねえ。何処に居たんですか、今迄?』

『何処でも()いぢやないか!』と、声は低く、然し慳貪(けんどん)だ。

『マア!』

 信吾は、わが(かたき)の吉野の(へや)に妹が行つてゐたと思ふと、抑へきれぬ不快な憤怒(いかり)が洪水の様に脳に溢れた。

『貴様こそ何処に行つてるんだ? (よる)夜中人が寝て了つてから!』

 静子は驚いて目を丸くして立つてゐる。それが、何か厳しく詰責でもされる様で、信吾の憤怒(いかり)は更に燃える。

『莫迦野郎! 何処に行つてるんだ?』と言ふより早く一つ静子を(なぐ)つた。

 静子は矢庭に袂を顔にあてた。

『兄様……其様(そんな)……。』

『此方へ来い。』と、信吾は荒々しく妹の手を引張つて、自分の室に入るとドツと突倒した。

此畜生(こんちくしやう)! 親や兄の眼を(くら)まして、…………』

『ワツ。』と静子は倒れた儘で声をあげた。先刻(さつき)町から帰つてから、待てども/\兄が帰らぬ。母も叔母も何とも言つてくれぬだけ媒介者(なかうど)との話の発落(なりゆき)が気にかかつた。自分から聞かれる事でもなく、頼るは兄の信吾、その信吾が今日媒介者が来たも知らずにゐると思ふと、モウ心配で心配で(たま)らなくなつて、今も(そつ)と吉野の室に行つて、その帰りの遅きを何の為かと話してゐた所。

 静子は故なき兄の疑ひと怒が、(くや)しい、恨めしい、弁解をしようにも喉が(つま)つて、たゞ堅く/\袖を噛んだが、それでも泣声が洩れる。

『莫迦野郎!』と、信吾は(また)しても唸る様に言つて、下唇(くちびる)を喰絞り、堅めた両の拳をブル/\顫はせて、恐しい顔をして突立つてゐる。

 静子は死んだ様に動かない。

『よし。』と信吾はまた唸つた。『貴様はモウ松原に遣る。貴様みたいなものを(うち)に置くと、何をするか知れない。』

『マ。』と言つて、静子はガバと起きた。『兄様……その松原から今日人が来て……それで……』

 手荒く襖が()いて、次の間に寝てゐる志郎と昌作が入つて来た。

()うしたんだい兄様(にいさん)?』

『黙れ!』と信吾は怒鳴つた。『黙れ! 貴様らの知つた事か。』

 そして、乱暴に静子を蹴る、静子は又ドタリと倒れて、先よりも高くワツと泣く。

『何だ?』と言ひ乍ら父の信之も入つて来た。『何だ? 夜更(よふけ)まで歩いて来て信吾は又何を(そんな)に騒ぐのだ?』

『糞ツ。』と云ひさま、信吾は再静子を蹴る。

『何をするツ、此莫迦!』と、昌作は信吾に飛びつく。志郎も兄の胸を抑へる。

『何をするツ、貴様らこそ。』と、信吾はモウ夢中に(たけ)り立つて、突然(いきなり)志郎と昌作を薙倒(なぎたふ)す。

『コラツ。』と父も声を励して、信吾の肩を(つか)んだ。『何莫迦をするのだ! 静は那方(あつち)へ行け!』

『糞ツ。』と許り、信吾は其手を払つて手負猪(ておひじし)の様な勢ひで昌作に組みつく。

『貴様、何故俺を抑へた』

『兄様!』

『信吾ツ!』

 ドタバタと騒ぐ其音を聞いて、別室の媒介者(なかうど)離室(はなれ)の吉野も馳けつけた。帯せぬ寝巻の前を押へて母のお柳も来る。

『畜生! 畜生!』と、信吾は無暗矢鱈に昌作を擲つた。

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