58話 (十二)
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智恵子は、前夜腹の痛みに堪へかねて踊から帰つてから、夜一夜苦み明した。お利代が寝ずに看護してくれて、腹を擦つたり、温めたタヲルで罨法を施つたりした。トロ/\と交睫むと、すぐ烈しい便気の塞迫と腹痛に目が覚める。翌朝の四時までに、都合十三回も便所に立つた。が、別に通じがあるのではない。
夜が清々と明放れた頃には、智恵子はモウ一人で便所にも通へぬ程に衰弱した。便所は戸外にある。お利代が医師に駆付けた後、智恵子は怺へかねて一人で行つた。行くときは壁や障子を伝つて危気に下駄を穿かけたが、帰つて来てそれを脱ぐと、モウ立つてる勢がなかつた。で、台所の板敷を辛と這つて来たが、室に入ると、布団の裾に倒れて了つた。抉られる様に腹が痛む。小供等はまだ起きてない。家の中は森としてゐる。窓側の机の上にはまだ洋燈が朦然点つてゐた。
智恵子は堅く目を瞑つて、幽かに唸りながら、不図、今し方戸外へ出た時まだ日出前の水の様な朝光が、快く流れてゐた事を思出した。
『モウ夜が明けた。』
と覚束なく考へると、自分は何日からとも知れず、長い/\間恁うして苦んでゐた様な気がする。程経てから前夜の事が思出された。それも然し、ズツト/\以前の事の様だ。
「今日アノ方が来て下さるお約束だつた! 然うだ、今日だ、モウ夜が明けたのだもの!…………。スルト今日は盆の十五日だ。昨日は十四日……然うだ、今日は十五日だ!」
喧しく雀が鳴く。智恵子はそれを遙と遠いところの事の様に聞くともなく聞いた。
『先生! 先生!』と遠くで自分を呼ぶ。不図気がつくと、自分は其処で少し交睫みかけたらしい。お利代は加藤医師を伴れて来て、心配気な顔をして起してゐる。
『先生、まア恁所に寝て、お医師様が被来いましたよ。』
『マア済みません。』
然う言つてお利代に手伝はれ乍ら臥床の上に寝せられた。
室には夜ツぴて点けておいた洋燈の油煙やら病人の臭気やらがムツと籠つてゐた。お利代は洋燈を消し、窓を明けた。朝の光が涼しい風と共に流れ込んで、髪乱れ、眼凹み、皮膚の沢なく弛んだ智恵子の顔が、モウ一週間も其余も病んでゐたものの様に見えた。
加藤は先づ概略の病状を訊いた。智恵子は痛みを怺へて問ふがまゝに答る。
『不可ませんナア!』
と医師は言つた。そして診察した。
脈も体温も少し高かつた。舌は荒れて、眼瞼が充血してゐる。そして腹を見た。
『痛みますか?』と、少し脹つてゐる下腹の辺を押す。
『痛みます。』と苦気な声。
『此処は?』
『其処も。』
『フム。』と言つて、加藤は腹一帯を軽く擦りながら眉を顰めた。
それからお利代を案内に裏の便所へ行つて見た。
「赤痢だ!」と、智恵子は其時思つた。そして吉野に逢へなくなるといふ悲哀が湧いた。
智恵子の病気は赤痢――然も稍烈しい、チフス性らしい赤痢であつた。そして午前九時頃には担荷に乗せられて、隔離病舎に収容された。お利代の家の門口には「交通遮断」の札が貼られて、家の中は石炭酸の臭気に充ち、軒下には石灰が撒かれた。
丁度智恵子が隔離病舎に入つた頃、小川の家では、信吾が遅く起きて、そして、今日の中に東京に帰らして呉れと父に談判してゐた。父は叱る、信吾は激昂する。結局「勝手になれ」と言ふ事になつて、信吾は言ひがたき不愉快と憤怒を抱いてフイと発つた。それは午後の二時過。
吉野は加藤との約束があるので、留まる事になつた。そして直ぐにも加藤の家に移る積りだつたが、色々と小川家の人達に制められて、一日だけ延ばした。小川家には急に不愉快な、そして寂しい空気が籠つた。
日が暮れると、吉野は一人町へ出た。そして加藤から智恵子の事を訊かされた。
吉野は直ぐ智恵子の宿を訊ねた。町には矢張樺火が盛んに燃えてゐた。彼は裏口から廻つて霎時お利代と話した。そして石炭酸臭い一封の手紙を渡された。
それは智恵子が鉛筆の走り書。――恁う書いてあつた。
御心配下さいますな。決して御心配下さいますな。お目にかかれないのが何より――病の苦痛より辛う御座います。吉野様、何卒私がなほるまでこの村にゐて下さい。何卒、何卒。
屹度四五日で癒ります。あなたは必ず私のお願ひを聞いて下さる事と信じます。
ちゑ
よしの様まゐる