鳥影

58話 (十二)

1,717字 約3分 2008年11月11日 公開

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 智恵子は、前夜腹の痛みに堪へかねて踊から帰つてから、夜一夜苦み明した。お利代が寝ずに看護してくれて、腹を(さす)つたり、温めたタヲルで罨法(あんぱふ)()つたりした。トロ/\と交睫(まどろ)むと、すぐ烈しい便気の塞迫と腹痛に目が覚める。翌朝(あくるあさ)の四時までに、都合十三回も便所(はばかり)に立つた。が、別に通じがあるのではない。

 夜が清々(すがすが)と明放れた頃には、智恵子はモウ一人で便所にも通へぬ程に衰弱した。便所は戸外(そと)にある。お利代が医師(いしや)駆付(かけつ)けた後、智恵子は(こら)へかねて一人で行つた。行くときは壁や障子を伝つて危気(あぶなげ)に下駄を穿(つつ)かけたが、帰つて来てそれを脱ぐと、モウ立つてる(せい)がなかつた。で、台所の板敷を(やつ)と這つて来たが、室に入ると、布団の裾に倒れて了つた。(ゑぐ)られる様に腹が痛む。小供等はまだ起きてない。家の中は森としてゐる。窓側の机の上にはまだ洋燈が朦然(ぼんやり)(とも)つてゐた。

 智恵子は堅く目を(つぶ)つて、幽かに唸りながら、不図、今し方戸外(そと)へ出た時まだ日出前の水の様な朝光(あさかげ)が、快く流れてゐた事を思出した。

『モウ夜が明けた。』

覚束(おぼつか)なく考へると、自分は何日(いつ)からとも知れず、長い/\間()うして苦んでゐた様な気がする。程経てから前夜の事が思出された。それも然し、ズツト/\以前(まへ)の事の様だ。

「今日アノ方が来て下さるお約束だつた! 然うだ、今日だ、モウ夜が明けたのだもの!…………。スルト今日は盆の十五日だ。昨日は十四日……然うだ、今日は十五日だ!」

 (かしま)しく雀が鳴く。智恵子はそれを(ずつ)と遠いところの事の様に聞くともなく聞いた。

『先生! 先生!』と遠くで自分を呼ぶ。不図気がつくと、自分は其処で少し交睫(まどろ)みかけたらしい。お利代は加藤医師を伴れて来て、心配気な顔をして起してゐる。

『先生、まア(こんな)所に寝て、お医師様(いしやさん)被来(いらつしや)いましたよ。』

『マア済みません。』

 然う言つてお利代に手伝はれ乍ら臥床(とこ)の上に寝せられた。

 室には夜ツぴて点けておいた洋燈の油煙やら病人の臭気(にほひ)やらがムツと籠つてゐた。お利代は洋燈を消し、窓を明けた。朝の光が涼しい風と共に流れ込んで、髪乱れ、眼(くぼ)み、皮膚(はだ)(つや)なく(たる)んだ智恵子の顔が、モウ一週間も其余も病んでゐたものの様に見えた。

 加藤は先づ概略(あらまし)の病状を訊いた。智恵子は痛みを怺へて問ふがまゝに(こたへ)る。

不可(いけ)ませんナア!』

と医師は言つた。そして診察した。

 脈も体温も少し高かつた。舌は荒れて、眼瞼(がんけん)が充血してゐる。そして腹を見た。

『痛みますか?』と、少し脹つてゐる下腹の辺を押す。

『痛みます。』と苦気(くるしげ)な声。

『此処は?』

『其処も。』

『フム。』と言つて、加藤は腹一帯を軽く(さす)りながら眉を顰めた。

 それからお利代を案内に裏の便所へ行つて見た。

「赤痢だ!」と、智恵子は其時思つた。そして吉野に逢へなくなるといふ悲哀(かなしみ)が湧いた。

 智恵子の病気は赤痢――然も(やや)烈しい、チフス性らしい赤痢であつた。そして午前九時頃には担荷に乗せられて、隔離病舎に収容された。お利代の家の門口には「交通遮断」の札が貼られて、家の中は石炭酸の臭気(にほひ)に充ち、軒下には石灰が撒かれた。

 丁度智恵子が隔離病舎に入つた頃、小川の家では、信吾が遅く起きて、そして、今日の中に東京に帰らして呉れと父に談判してゐた。父は叱る、信吾は激昂する。結局「勝手になれ」と言ふ事になつて、信吾は言ひがたき不愉快と憤怒(いかり)を抱いてフイと発つた。それは午後の二時過。

 吉野は加藤との約束があるので、留まる事になつた。そして直ぐにも加藤の家に移る積りだつたが、色々と小川家の人達に()められて、一日だけ延ばした。小川家には急に不愉快な、そして寂しい空気が籠つた。

 日が暮れると、吉野は一人町へ出た。そして加藤から智恵子の事を訊かされた。

 吉野は直ぐ智恵子の宿を訊ねた。町には矢張(やはり)樺火(かばび)が盛んに燃えてゐた。彼は裏口から廻つて霎時(しばし)お利代と話した。そして石炭酸臭い一封の手紙を渡された。

 それは智恵子が鉛筆の走り書。――恁う()いてあつた。

御心配下さいますな。決して御心配下さいますな。お目にかかれないのが何より――病の苦痛(くるしみ)より(つら)う御座います。吉野(さん)何卒(どうか)私がなほるまでこの村にゐて下さい。何卒、何卒。

屹度四五日で癒ります。あなたは必ず私のお願ひを聞いて下さる事と信じます。

ちゑ

よしの様まゐる

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