鳥影

59話 (十三)の一

1,186字 約2分 2008年11月11日 公開

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 智恵子の容体は、最初随分危険であつた。隔離病舎に収容された晩などは知覚が朦朧になり、妄言(たはごと)まで言つた位。適切(てつきり)チフス性の赤痢と思つて加藤も弱つたのであるが、三日許りで危険は去つた。そして二十日過になると、赤痢の方はモウ殆んど癒つたが、体が極度に衰弱してるところへ、肺炎が(きざ)した。そして加藤の勧めで、盛岡の病院に入ることになつた。

 吉野は病める智恵子と共に渋民を去つた。彼は()らゆるものを犠牲に払つても、必ず智恵子を助けねばならぬと決心してゐた。

 信吾去り、志郎去り、智恵子去り、吉野去つて、夏二月の間に起つた種々(いろいろ)事件(ことがら)が、一先(ひとま)結末(をはり)を告げた。

 八月も末になつた。そして、静子は新しく病を得た。

 静子の縁談は本人の希望通りに破れて了つた。この事で最も詰らぬ役を引受けたのは例の叔母で、月の初めに来た時、お柳からの密かの依頼(たのみ)で、それとなく松原家を動かし、媒介者(なかうど)を同伴して来るまでに運んだのであるが、来て見るとお柳の態度は思ひの外、対手の松原中尉の不品行(志郎から聞いた)を楯に、到頭破談にして了つた。

 静子は、何処といふことなく体が良くなかつた。加藤は神経衰弱と診察した。そして、毎日散歩ながら自分で薬取に行く様に勧めた。で、日毎に午前九時頃になると、何がなしに打沈んだ顔をした静子が、白ハンケチに包んだ薬瓶を下げて町にゆく姿が、鶴飼橋の上に見られた。

 そして静子は、一時間か二時間、屹度(きつと)清子と睦しく話をして帰る。

 或日の事であつた。二人は医院の裏二階の瀟洒(さつぱり)した室で、何日(いつ)もの様に吉野の噂をしてゐた。

 静子は、()うした機会(はずみ)からか、吉野と初めて逢つた時からの事を話し出して、そして、かの写生帖の事までも仄めかした。

 清子は熱心にそれを聞いてゐた。

『静子さん。』と清子は、(じつ)と友の俯向いた顔を見ながら、しんみりした声で言つた。『私よく知つてるわ、貴女の心を!』

『アラ!』と言つて静子は少し顔を赤めた。『何? 清子さん、私の心ツて?』

『隠さなくても()かなくつて、静子さん?』

『………………』

 黙つて俯向いた静子の耳が燃える様だ。清子は、少し悪い事を言つたと気がついて、接穂(つぎほ)なくこれも黙つた。

『清子さん。』と、稍あつてから静子は言つた。其眼は湿(うる)んでゐた。『私……莫迦(ばか)だわねえ!』

『アラ(そんな)! 私悪い事言つて……。』

『ぢやなくつてよ。私却つて嬉しいわ……。』

『………………』

 清子の眼にも涙が湧いた。

『ねえ、清子さん!』と又静子は鼻白んで言つた。『詰らないわねえ、女なんて!』

真箇(ほんと)よ、静子さん。』と、清子は全く同感したといふ様に言つて、友の手を取つて。

()う思つて、貴女も?』と、清子の顔を見るその静子の眼から、美しい涙が一雫二雫頬に(つた)つた。

『静子さん!』と、清子は言つた。『貴女…………私の事は誤解してらつしやるわね!』

 然う言つて、突然(いきなり)静子の膝に突伏した。

『アラ、貴女の事ツて(なあ)に?』

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