59話 (十三)の一
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智恵子の容体は、最初随分危険であつた。隔離病舎に収容された晩などは知覚が朦朧になり、妄言まで言つた位。適切チフス性の赤痢と思つて加藤も弱つたのであるが、三日許りで危険は去つた。そして二十日過になると、赤痢の方はモウ殆んど癒つたが、体が極度に衰弱してるところへ、肺炎が兆した。そして加藤の勧めで、盛岡の病院に入ることになつた。
吉野は病める智恵子と共に渋民を去つた。彼は有らゆるものを犠牲に払つても、必ず智恵子を助けねばならぬと決心してゐた。
信吾去り、志郎去り、智恵子去り、吉野去つて、夏二月の間に起つた種々の事件が、一先づ結末を告げた。
八月も末になつた。そして、静子は新しく病を得た。
静子の縁談は本人の希望通りに破れて了つた。この事で最も詰らぬ役を引受けたのは例の叔母で、月の初めに来た時、お柳からの密かの依頼で、それとなく松原家を動かし、媒介者を同伴して来るまでに運んだのであるが、来て見るとお柳の態度は思ひの外、対手の松原中尉の不品行(志郎から聞いた)を楯に、到頭破談にして了つた。
静子は、何処といふことなく体が良くなかつた。加藤は神経衰弱と診察した。そして、毎日散歩ながら自分で薬取に行く様に勧めた。で、日毎に午前九時頃になると、何がなしに打沈んだ顔をした静子が、白ハンケチに包んだ薬瓶を下げて町にゆく姿が、鶴飼橋の上に見られた。
そして静子は、一時間か二時間、屹度清子と睦しく話をして帰る。
或日の事であつた。二人は医院の裏二階の瀟洒した室で、何日もの様に吉野の噂をしてゐた。
静子は、怎うした機会からか、吉野と初めて逢つた時からの事を話し出して、そして、かの写生帖の事までも仄めかした。
清子は熱心にそれを聞いてゐた。
『静子さん。』と清子は、眤と友の俯向いた顔を見ながら、しんみりした声で言つた。『私よく知つてるわ、貴女の心を!』
『アラ!』と言つて静子は少し顔を赤めた。『何? 清子さん、私の心ツて?』
『隠さなくても可かなくつて、静子さん?』
『………………』
黙つて俯向いた静子の耳が燃える様だ。清子は、少し悪い事を言つたと気がついて、接穂なくこれも黙つた。
『清子さん。』と、稍あつてから静子は言つた。其眼は湿んでゐた。『私……莫迦だわねえ!』
『アラ其! 私悪い事言つて……。』
『ぢやなくつてよ。私却つて嬉しいわ……。』
『………………』
清子の眼にも涙が湧いた。
『ねえ、清子さん!』と又静子は鼻白んで言つた。『詰らないわねえ、女なんて!』
『真箇よ、静子さん。』と、清子は全く同感したといふ様に言つて、友の手を取つて。
『然う思つて、貴女も?』と、清子の顔を見るその静子の眼から、美しい涙が一雫二雫頬に伝つた。
『静子さん!』と、清子は言つた。『貴女…………私の事は誤解してらつしやるわね!』
然う言つて、突然静子の膝に突伏した。
『アラ、貴女の事ツて何に?』