3話 三
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十日ばかり何の音沙汰もない。
蒸暑い晩だ。例のやうに眠る前に縁先で涼んでゐた。線香も絶え、軒先の蚊ばしらにまた勢もついて来たので、蚊帳のなかに入らうとしてゐると、不意に玄関の戸がそつと開くのだ。婆やは風呂へ入つてゐる。「誰方ですか」と声をかけて見た。返事がない。わたしは胸さわぎした。立つて行つて障子を開けて見ると、黄ろい電燈の下に、秋子が包みを持つて悄然立つてゐる。
わたしは度を失ひながら、兎に角茶の間に上げた。「どうしてこんなに遅く来た? 何かあつたのか?」かう訊ねても、無感覚に黙つてゐる。わたしの癇癖の突発を恐れてゐる事が感ぜられた。今度はわたしが手を替へて、優しく下手に出た。すると娘はシク/\泣きだして半巾で顔を覆つてばかりゐる。わたしは情けなくなつた。声を焦立たせようとすると、吾ながらそれが感傷的に震へるのだ。
婆やも吃驚して風呂から出て来た。二人掛りでなだめたり、すかしたりして白状させた。――やはり辛くて戻つて来たのだ。
「やはりさうだつたか!」わたしは大声に嘆息した。娘の物悲しさうなのが物悲しかつた。嘗てこの縁談がまとまつた時、わたしは娘を呼んで、「これで二度とは帰つて来るな。この上はわたしを頼るな」さう云つて聞かせた。それが兎に角こんなに早く反古になつた。その娘の不幸を不幸に感じた。
だがそれとは別に、わたしの心に明確にわき起る感情があつた。それは娘がわたしの言葉をその儘守らずに、辛らければ他所なぞはうろつかず、叱られるのを覚悟でわたしの許に戻つて来る、その心事に対する云ひ知れぬ満足だつた。云ひ知れぬ安堵だつた。――それから――あのわたしにとつて明確に不適当である若者が、娘にとつてはどうやら不適当に見えた事に就ての、本能的な喜びだつた。彼に対する一種すが/\しい、痛快味のこもつた心持だつた。そしてわたしは平常の感情の吐け口を得たやうに、口をきはめてあの若者を罵倒して聞かせた。
婆やと交る/\訊いて見ると、鷹雄といふ男は、これは又、実に気六つかしいらしい。気が向くと、朝から晩まで論文の原稿を書く、それがうまく行かぬと不機嫌になる。その飛沫が秋子に向けられる。秋子はオド/\して、鷹雄の時偶話しかける言葉にも返事がしつくりと行かぬやうになる。するとヂリ/\と不機嫌が更に昂じるのだ。両親は側にゐても、万事御無理御尤にしてゐる。鷹雄はそれをいゝ事にして、両親の前でもわざと秋子に口を利かずにゐるやうな事をする。娘にとつてこれが何よりも辛い。さうだらう! だがさういふ事も結局は、秋子が世馴れぬのだといふ風な、無言の批評眼を両親から向けられる事で落ちになるらしい。娘はだん/\臆病になる。そして多少ひがむ。さうなると、口にこそ出さぬが批難は娘に集まる……。
わしはカツとした。わたしはお世辞者の娘は作らなかつた。未だ十八九の初心なあれに男の心を始終反らさぬ手管が出来るものか。わたしはこんなことを聞いては、娘の純潔を侮辱されたやうに思つて、凝つとして居られなかつた。「よし。そんな奴は訴へても争つてやる!」こんな事までわたしは口走つた。何か云はねば苦しかつたのだ。処が娘はそれを聞くと、いかにも苦しさうに、悶えるやうな表情をして泣き続けるのだ。その取乱した姿勢を見ると、「なぜあんな男に」かう焦々と責めたくなる。……娘が何かのわたしの暴言を、さも聞きづらいといふ風に咎め立てした時、わたしは娘を荒々しく突き飛ばした。そして婆やに止められたりした。
やがて婆やがいゝ加減にわたしをなだめ、まめ/\しく風呂の湯を取りかへたりして、娘にひと浴びすゝめてゐた。娘が疲れて茫んやりした顔付きで次の間で帯を解いてゐると、弟共が物音で寝床から起きて来た。寝ぼけ眼で姉を取囲みながら、何か尋ねてゐる。それを襖のこちらから見て、わたしは不思議な悲しみを覚えた。同じ屋根の下で、幸も一緒、不幸も一緒といふやうな、血を分けた者の感情にわたしは圧しつけられた。
娘が弟共の隣に眠てから、わたしはいつまでも起きてゐた。わたしは自分の感情を持てあました。わたしは月のさす机に向つて卓燈を点け、青木家に長い激烈な手紙を書いた。時計が二時を打つた。疲れ切つたので、文句も読み返さずにその儘封をした。冷静な時に今一度読み直して、わたしの心の内の常識家が激しい文句を少しづゝ訂正するやうな事を恐れたわけでもある。だが、わしは子を持つた父親として正直に書いた。娘の為にもわたしの為にもそれでいゝ。このありの儘がいゝのだ。