4話 〔大詰〕 第一場 柳橋水熊横丁
読み方を変える
嘉永二年の秋やや深き頃――前の幕の翌年。柳橋の料理茶屋水熊の横手。
黒板塀(板割、丈が並より高い)右手寄りに水熊の台所の出入口、左手寄りに白壁の土蔵、柳の木がどこかに植わっていて前の場との相違を明快にする。
おとら(五十余歳)夜鷹が出来なくなって困窮している水熊の女主人の元の知人。破れた番傘を担ぎ、うしろ向きに水熊の台所口に立ち、裾の方だけ見える。
お詣りに行く芸者三吉、およつ、相合傘で通る。
三吉 (口三味線で何かおよつに移している)
およつ (首を振って節を繰り返している)
三吉 (気がついて傘の外に手を出し)あら、やんでるわ。(傘をつぼめる)
およつ ああら、お天道様が顔を見せてるじゃないの。(続けて唄を繰り返す)
三吉 (傘を指で弾き拍子をとり、口三味線をつづけ、およつと共に去る)
魚屋熊、同じく北、めいめい天秤で荷を担ぎ、三吉、およつと摺れ違う。
魚北 (後から振り返って、拳固で鼻を鳴らす)ちえッ、業平様のお通りに気が付きゃがらねえ。
魚熊 (先に立っている。魚北を振り返り)そんな面の業平は当節はやらねえ。(と云いかけて素盲の金五郎を見かけ、厭な顔で頭を下げる)
魚北 (金五郎に心づき、厭な顔になり頭だけ下げて、熊と共に急ぎ去る)
無頼漢、素盲の金五郎。少し酔っている。水熊の板前善三郎が、迷惑そうに蹤いている。
金五郎 (八ツ当りをして)ボテ振り待て。
善三郎 よしてくんな。罪もねえ者の商売を妨げしちゃいけねえよ。
金五郎 癪に障る奴等だ。善公。
善三郎 え。(厭な顔を隠す)
金五郎 本当におかみさん、居ねえのか。
善三郎 居ねえよ、俺が嘘をつくものかな。だが金五郎さん。今のような話はやめてくれねえと俺が困る。
金五郎 心配するな、俺が水熊の婿になったら、お前にや給金の外にたンまり賦をやるから。
善三郎 それがいけねえんだ。第一、いくら何でも、そんな話がおかみさんに出来るものかな。
金五郎 後家を立ててる女のところへ、俺が婿にはいろうというのに不思議はねえ。
善三郎 考えても見ねえな、金五郎さんはまだ三十を幾つも出やしねえ、家のおかみさんは年よりも十も十五も若く見えたところで五十を越しているんだ。
金五郎 年なんざどうでもいい。俺あここの家が――色恋に年があるもんか。
善三郎 この話はまたとして、今日はこれで左様ならだ。(早く別れたがる)
金五郎 うむまた後でくらあ。
おとら (番傘がその以前から動いている、突き飛ばされて傘を手放し、倒れ伏す)
水熊の洗い方藤八、腹を立てて内から出る。
藤八 やいやい、しつッこ過ぎるから突き出したんだ、さっさと失せろ。
善三郎 (藤八に「どうしたんだ」と聞く)
藤八 (善三郎に「おかみさんに会うといって利かねえから留守だと云って追っ払う処です」と告げる)
おとら (這い起き)何をしやがるんだ。何だ失せろだと、失せてやるから失せるようにしろ。
藤八 まだそんなことを吐かしやがるか、おかみさんは留守だというのが判らねえか、よしんば居た処で、乞食婆に会う用はねえ、帰れ。
善三郎 藤の字。そんな者に構わず、内へ入っちまえよ。(内へ入る)
金五郎 おい藤公。おかみさんは。
藤八 (厭な顔を隠して)お留守です。
金五郎 そうか。じゃ本当に留守なんだ。(八ツ当りになって帰りかける)
おとら そっちに無くても此方に用があるんだ。
金五郎 何をいやがる。おかみさんは留守だい。(おとらを衝き倒して去る)
藤八 それ見ろ、帰らねえから、痛い目をみるんだ。
番場の忠太郎、新しい番傘を手に新しい下駄を穿き、通りかかって土蔵の前に佇み見ていて、金五郎の行為に義憤を感じ後姿を睨む。
おとら 殴つ気か。この年寄りを往来中へ突ッ転ばした上に倅みたいな年頃のくせをして、まだ殴つ気なのか。
藤八 よしッ、殴ってやらあ。
出前持ち孫助、出入口から窺き身をして見ている。
忠太郎 (おとらを庇う)
藤八 おや。手前はその婆の倅か。
孫助 (天秤棒を持ち出す)
忠太郎 何で年寄りをいじめるんでござんす。厭な真似はしねえもんだ。お婆さんどこも痛めはしねえかね。
おとら 体の節々が痛くなって困ってしまう。
孫助 藤さん、あの婆は東両国で、いつも売れ残りの夜鷹の婆だよ。
藤八 ほう。あの年で夜鷹か。へええ。
忠太郎 (夜鷹と聞いて厭になる)
おとら ああ夜鷹だ。それを知っているところをみると、お前はあたしの客だったと見えるね。
孫助 冗談いうな。俺はいつでもお福かお竹にきまって。(気まり悪気に内へ引っこむ)
忠太郎 (思い直して、おとらに)お前、年はいくつだね。
おとら 年? 兄さんや年を聞いてどうするんだね。
忠太郎 五十一か、それとも二、三か。
おとら そんなところかも知れないさ。年の次は名を聞くか。大抵おきまりだ。
忠太郎 (藤八を険しく見る)
藤八 (気味悪く思い、内へ引込む)
忠太郎 手を出しな。(おとらに銭をやる)
おとら 兄さん、お前さん――。
忠太郎 (厭味な言葉を聞くまいと押えて)おッと、俺の尋ねに返事をしてくれ、少しばかりだが口のきき賃だ。
おとら ああ左様か。そんなら何でも聞くがいい、損が行かなきゃ大抵話すよ。
忠太郎 お前、大きな子がありゃしねえか。
おとら 子かい。(黯然として、俯向く)
忠太郎 (もしやと思わず焦慮り)あるのか――お前に。(暗い気になる)
おとら (シクシク泣く)
忠太郎 思い出させて泣かせてしまった。――婆さん、(もしこの人が母だったらと思う苦しみを抱き)その子はどうしているね。
おとら 生きていると三十一だ。死んでしまった。
忠太郎 (ほっと息をつき)そうか。飛んだ事を聞いて悪かったな。堪忍しとくれあやまるぜ。(行きかける)
おとら 兄さんちょっと待っておくれ。お前さんは嬉しい人だ。夜鷹婆だ何だ彼だと、立番の野郎までが嗤うあたしに、よく今みたいな事を聞いておくれだった。何年振りかで人間扱いをして貰った気がするんだ。(頭を下げて)どうも兄さん、有難う、忘れないよ。
忠太郎 そんな話を聞くのは、俺には毒だ。(行きかける)
おとら 何だか訳がありそうだ。だれを探しているのだね。もしあたしが知っていたら、教えてあげたい気がするんだけれど。
忠太郎 老いすがれた女の人を見れば、だれでも探している俺の――かと思うばかりで去年から、もう直き丸一年になろうというのに、縁がねえのかまだ会えねえ。
おとら そりゃだれに。
忠太郎 お前ぐらいの年の人さあ。
おとら お袋さんだね。
忠太郎 そうかも知れねえ。(行きかける)
おとら ここの家のかみさんも、あたしが知っている頃は、残して来た子供のことを三日にあげず泣いて話したが。
忠太郎 ええ。(引返しておとらに近づく)
おとら けれ共それは、十年十五年じゃない、もっと昔の話なんだ。
忠太郎 ここは確か料理茶屋で、水熊とかいう家だろう。して、ここのかみさんが子供を置いて来たというのは何処だ。知っているなら聞きてえなあ。
おとら 古いことでうろ憶えだけれども、確か江州だったと思うのさ、兄さんは江戸ッ子らしいから江州では人違いだねえ。
忠太郎 俺あ十三から江戸で育ったが、生れは草深い処なんだ。ここの家のおかみさんは、そんなに子供を思っていたのか。
おとら 今もいった通り、そりゃ大昔の話だから、昨今はどうだか判りゃしない。あたしの推量では、もう子供のことなんか忘れてしまい、思い出しもしないだろうねえ。
忠太郎 (確信を持って)女親というものは、そういうものじゃねえ。
おとら 昔は随分仲好しで、世話になったり世話したり、姉妹同然にしていたんだが、この何年というものは、途中で会えば顔をそむけ、よんど困って尋ねてくれば、今のように叩き出させる。人間という奴は月日が経っては駄目なものさ。
忠太郎 それはそうだか知らねえが、母子はまた別なもの、たとい何十年経ったとて生みの親だあ、子じゃあねえか、体中に一杯ある血は、双方ともにおんなじなんだ。そんなことがあるものか。
おとら それじゃ一ツ、行ってみるがいいかも知れない。
忠太郎 え? まさか。ただ江州と聞いただけでは、いくら何でも、行けるものかな。
おとら それも左様だ。あたしも倅が恋しくなった。久しい間無沙汰をしてる、今から行って参ってこよう。
忠太郎 お墓参りか。待ちな。お線香とお華をこれで(金を握らせる)遠慮なく取ってくれろ。
おとら こ、こりゃあ小判だ。
忠太郎 一両出したとて怪しむな、俺あ盗ッ人じゃねえ、見る通りのヤクザなんだ。汗をかいて稼いだ金じゃなし、多寡が出たとこ勝負、賭博場の賽の目次第で転げ込んだ泡沫銭だ。成ろう事ならお婆さん、糊売りでもして暮してくれろ。死んだ息子が安心するぜ。
おとら はい。
忠太郎 あばよ。(行きかける)
おとら はい。(振り返って頭を下げて去る)
忠太郎 (おとらを見送り、水熊を振り向く。会ってみようか、いや止めておけ、まだ不確かだと思い、知らず知らず歩く)
藤八 (孫助と出入口を開けて、窺く。共に忠太郎に好意を持っていない)
忠太郎 (もしや、母の家かと思い、振り返り、偶然二人を見る)
藤八等 (舌打ちなどして引込む)
忠太郎 (それをケントクなりとして、尋ねてみる気で引返す)
三吉 (およつと話しながら、参詣から帰ってくる)
忠太郎 (芸者二人に振り返ってみられ、出鼻を挫かれ、立去りかける)