3話 三
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「今晩は、――」
こう云って、中年の女が顔をみせた。四十ばかりになる、肥えた、髪の赭い女だった。
「ああ、お梅どんか」与平が云った。
「お幸さんなら、そこにいるぜ」
「どうも済みません。さっきから捜してたんですけどね」女はこう云いながら入って来た。「此処で子守り唄が聞えたもんですから」
「寮のほうじゃなかったのかい」
「明日が亡くなった旦那の祥月命日なもんですからね、それで帰って来たんですけど」お梅という女はお幸のほうへゆき、竹造と勇吉に挨拶をした。「いつも御迷惑をかけて済みません。さあ、お幸さん帰りましょう。お店に高どんが来ていますよ。高どんが来て待ってますから帰りましょう」
「大きな声をしないでよ」お幸は云った。「いま、やっと坊やが寝たばかりなんだから、ほらね、よく眠ってるでしょ」
「ええ、よくおねんねしてますね。だから早く帰って寝かしてあげましょう。こんな処にいては坊やが風邪をひきますわ」
お梅という女はお幸の胸を隠し、衿をよく合わせてやって、援け起した。お幸は温和しくされるままになっていた。お梅は誰にともなく、おじぎをし、礼を述べて、お幸を抱えるようにしながら出ていった。――お幸のうたう子守り唄が、ものがなしく、訴えるように、ゆっくりと遠のいてゆき、やがて聞えなくなった。すっかり聞えなくなるまで、みんな黙って、しんと耳を澄ませていた。
「それで、どうなりました」と旅装の客が六兵衛に訊いた。「京伝というお店は潰れてしまったんですか」
「失礼ですが一つ」と六兵衛は自分の徳利を旅装の客に差した。「お返しってわけじゃあねえ、お近づきにどうか――さようです、潰れかかりました」と六兵衛は云った。「けれどもそんなわけで災難がひど過ぎる。他人だって見殺しにはできませんや。債権者のほうでも気の毒がるし、親類も放ってはおけねえ。皆で力を貸して守立てようってことになり、おかみさんの甥に当るとかいう今の旦那を養子に入れて、店を続けることになったんです」
「ほんとのことを云っていいか」
また酔いつぶれた老人がどなった。
「云ってやろうか、おい」と老人は嗄れ声でどなった。「おれがほんとのことを云ってやろうか、いいか云っても」
その声に驚いたように、行燈にとまっていた蝶がぱっと舞いたち、囲いの中をくるくると飛んで、葭簀の上にとまった。
「その養子という人は……」と旅装の客が六兵衛に訊いた。「つまりお幸さんといっしょになったんですね」
「祝言もしたんですが、お幸さんは振って振って振りぬいたそうです」と六兵衛は云った。「側へもよせつけねえんだそうで、結局その養子には、よそから嫁を貰った。――持参金の付いた嫁さんだっていいましたが、ともかく、それからはふしぎに商売が順調で、いまでは先代より繁昌しているってことですよ」
「大凶は吉に返るっていうが」と与平が云った。「先代がいい人だったし、貰った養子が切れる旦那だし、あれだけの災難を乗り切ったのは、やっぱり運がよかったんだな」
「そして悪い運はお幸さんが背負っちまった」と、六兵衛が云った。「お幸さんが一人で災難を背負っちまったようなもんだ」
「おやじ」と向うで竹造が云った。「おれにも白馬を一杯くれ、そのあとでぶっかけだ」
「まだ飲むのか」と与平が云った。
「こっちにも一杯」と勇吉が云った。「おらあ飯は食わねえ、しぐれ煮を貰おうかな」
旅装の客は徳利を振った。もう酒はなかった。与平は心得ていたらしい。銅壺の中から徳利を出し、燗のぐあいをみて「ちょっと熱くなりました」と云いながら客の前へ置いた。旅装の客はそれを取って六兵衛に差しながら訊いた。
「あの娘は、そのじぶんから、あんなふうになったんですか」
「養子を取ってからでしたよ」と六兵衛は酒を受けながら云った。「よっぽど高次に惚れてたんでしょうな。初めは養子を振るための狂言だろうっていわれたもんです。気のふれるほど好きだったなんて、おふくろさんも知らなかったようですからね」そして盃の酒をひと口飲んで首を振った。「まったく可哀そうなもんです」
「それにつけても憎らしいのは野郎だ」与平はこう云って、注文の品をのせた盆を持ち、飯台のほうへゆきながら続けた。
「どこでどうしてやがるか、あんな罰当りなことをする野郎は、どうせ、まともな暮しはできゃあしねえ、悪銭身に付かず、遣いはたしたあとは泥棒かぺてん師にでもなって、臭い飯の二、三度も食ったあげく、ことによると、もうお仕置にでもなってるかしれねえ」
「云うぞ、ほんとのことを云うぞ」酔いつぶれている老人が、また(同じ言を)どなり、こんどはふらふらと顔をあげた。
「云っていいか、ほんとのことを云おうか」と老人はどなった。「おい、おやじ、おれが本当のことを聞かせてやろうか」
「わかってるよ、たくさんだ。それよりおめえ、もう帰らねえと迎えに来られるぜ」与平はこう云いながら、空いた盆を持って鍋の前へ戻った。老人は不安定に半身を起し、片方の手をふらふらと振って、みじめな、泣くような声をあげた。