4話 四
読み方を変える
「どういう人だ」と旅装の客が訊いた。
「もと京伝の店にいたんだそうです」と六兵衛が答えた。「古くから荷方をしていたそうですが、酒癖が悪いため追出されて、いまは娘の嫁入り先の世話になってるんですが」
「あれが」と旅装の客が云った。「あれが荷方の源さん」
「知っておいでですか」
「いや」旅装の客はどきっとし、苦笑しながら盃を取った。「いや、とんでもない。いまこの親方が向うで、源さんとか云ってたもんだから」
「おらあ云ってやる、ほんとのことを云ってやる」と老人が向うでどなった。「高次てえ人はなんにも盗りゃあしねえ。みんな知らねえんだ。高次てえ人は金なんか盗りゃあしなかった。あのときお店には、盗るような金なんてなかったんだ」
「あれが口癖でしてね」と与平が云った。「酔っぱらうと、いつもあれを云うんですよ」
旅装の客は老人のほうを見た。
「金なんかありゃあしなかった」と老人は続けた。「旦那は相場に手を出してた。お定りの苦しまぎれ、すってんてんに剥がれて、仕切りが眼の前だというのに、金箱には十両と纒まった金もなかった。これがほんとのこった。そのとき金箱には十両の金もなかったんだ。それを知ってるのは、おれがそいつを知ってるのは、旦那がおれに、――これこれだから荷をはたきたいがどうだ、てめえだけに話すんだがと相談して来た。庫の荷をはたいて急場を凌ごう、さもなければ暖簾をおろすよりしようがねえ、こう、うちあけてお云いなすった。恥ずかしくって誰にも云えねえが源太、店にはいま十両と纒まった金もねえんだ……これがほんとのこった、おめえたちは知らねえが、本当のところはそうだったんだ」
老人は泣きだした。
葭簀にとまっていた蝶がはたはたと飛びたち、老人の頭の上をまわってこっちへ来た。そうして旅装の客の肩のあたりで迷っていたが、やがて行燈へいってとまった。老人はふらふらする手で、涙と涎で濡れた口のまわりを拭き、だらしなく咽びあげた。
「その相談のすぐあとで旦那は倒れた。さあどうする。二日めには亡くなった、十五年めえの、――明日がその祥月命日だ」と老人は咽びあげながら云った。「仕切りは迫ってる、旦那は亡くなった、金はねえ、さあ、どうする……おらあ知ってるからはらはらしていた。すると、高次てえ人が姿を消した。旦那の亡くなった晩のこった。子飼いから育てられて、お幸さんの婿になると定ってた人が、――お幸さんと祝言して京伝の旦那になるのを眼の前に、ふいっと姿を消しちまった」
「八百何十両という金を掠ってだ」と六兵衛が云った。「やつには金のほうが欲しかったんだ」
「八百何十両掠って逃げた、そう聞いたときに、おらあすっかりわけがわかった」と老人は云った。「高次てえ人は旦那に死恥をかかせたくなかった。自分が盗んで逃げたことにすれば、旦那は恥をかかずに済む。旦那の不始末は明るみに出ねえで済む、こう思ってやったことだ」
「わかった、わかった」と六兵衛が云った。「おめえの云うことはよくわかってるよ、源さん」
「おめえたちにはわからねえ」と老人は云った。「おめえたちにわかる道理がねえ。現に育ての親も同様なおかみさんでさえ、わからねえんだ。旦那は仏さまになったから知ってるだろう。おれにもわかる。仏さまになった旦那とおれにはわかるが、ほかの者にゃあ、わかりゃあしねえ。わかりゃしねえとも、わかってたまるもんか」
旅装の客は両肱をついて頬を支え、老人の言葉を聞きながら眼をつむった。
「人間なんて悲しくって、ばかで、わけの知れねえもんだ」老人はこう云って泣きだした。「人間なんてものは、みんな聾で盲目で、おっちょこちょいなもんだ。ざまあみやがれ」それから泣き声をふり絞るようにどなった。「おめえたちにゃあ、ほんとのこたあ、わからねえ。おめえたちにも誰にも、わかりゃしねえ。高次ってえ人がなにをしたか、どんな気持で京伝から消えていったか、誰にもわかりゃしねえんだ。わかりっこはねえんだ。ざまあみろ」
老人の手放しで泣く声が、やや暫く囲いの中へ波紋のように揺れひろがっていた。旅装の客は顔をあげ「勘定」と云って、ふところから財布を出した。竹造と勇吉の二人は何か笑いながら話し興じている。六兵衛はみれんな眼つきで、「もうお帰りですかい」と旅装の客を見た。
「取った宿が遠いもんですから」その客はこう云って、勘定を済ませて立ちあがった。それまで躯の蔭に隠れて見えなかった両掛(昔の旅行用の行李)を取り、飯台の端の老人のそばへいった。老人はまた飯台に俯伏していた。俯伏したままうっうっと、だらしなく泣いていた。
「爺さん」と旅装の客が云った。「いい話を聞かせてもらって嬉しかった。いい話しだった。礼を云うよ」
老人は泣くばかりだった。
「だが、もうその話はしなさんな」とその客は云った。「その話が本当だったとすれば、高次という人は主人の恥を背負ったんだろう。自分が盗みの汚名を衣てまで主人の恥を背負ったんだ――そうだとすれば黙っててやるのが本当じゃないか、そうじゃないだろうか爺さん」
「おめえなんぞに、なにがわかる」老人は俯伏したまま云った。「おらあ口惜しいんだ。ほんとのことも知らねえで、世間のやつらは、いまでも高次の悪口を云いやあがる。なんにも知らねえくせ、しやがって、おらあ、がまんがならねえんだ」
「それでいいんだ、それでいいんだと思う」と旅装の客は云った。「高次という人は、そんなことは承知のうえだったろう。いつか本当のことがわかるとか、わかって褒められたいなどとは、これっぽっちも考えてはいなかった筈だ。そう思わないか爺さん」
「それがどうしたってんだ」
「黙っててやることだ」と旅装の客はいった。「爺さんが本当のことを知ってると聞いたら、高次という人はよろこぶだろう。一人でも知っていてくれると聞けば、その人はきっと本望だと思うに違いない。それでいいんだ、それでいいんだよ爺さん。もうその話はしなさんな」
「いってえ、おめえは誰だ」と老人は顔をあげた。「おめえは、いってえ、なに者だ」
老人は相手を見た。涙で濡れ、脂の溜った眼でじっと見あげた。旅装の客も、その眼を見返した。それからやさしく頷いた。
「――旅の者だよ」そして静かに出ていった。
行燈にとまっていた蝶が飛びたち、はたはたと舞って、まるでなにかを追うように、出入り口から外へ飛び去った。
「おやじ」と六兵衛が云った。「済まねえがもう一本」
向うの老人は気のぬけたように、茫然と宙を眺めていた。