10話 十
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「まったくです、眼の迷いですよ」と杢も声をひそめて四辺を見まわした、「それに、つまりは邪魔者がいなくなったわけですからな、姑の留守の若夫婦ですよ」
「またくだ、おかめなしにやれるか、さやろ、もへなにちげね」中将はこう云って、しかし不安そうに小判へそっと手をやった、が、とたんにあっちちちと手を振りながらとび上がった、「あちあちあち、また手をやいた、火だ」
権頭が肚を立て足袋草鞋の足で蹴散らかした。いな、力任せに蹴飛ばすがいなや権頭は「あ痛ててて」と爪先を持ち上げてちんちんをした、大磐石でも蹴ったように、骨のしびれるほど痛かったが小判はびくとも動かない、「ええ畜生」かっとなって刀の鐺で突っついたら、刀は鞘ごとぽきりと折れ、小判はやはり微動もしなかった。――三人は憤激してのぼせあがり嚇怒のあまり敦圉してあらゆる手段と方法をもって小判奪取の努力を続けた。かくて約半刻……この黄金色に光る無生物との格闘に、身も心もへとへとになったとき、杢の知恵によってからくも活路が発見されたのである。
「つまりこれは徒労ですな、ちょっと待ってください」彼はこう云って指を立てた、「あのぺてん師は五枚ずつ紙に包めと云いました、ということは、五枚ずつ紙に包むことならできる、という理屈ではないでしょうか」
「おめうめ」中将が叫んだ、「そのこた、またくだ、いちえだ、すぎやてみよ」
中将は直ちに紙を取った。そしておそるおそる五枚ずつ重ねてある小判へ手を出した、熱くない、紙へ載せて包む、ちゃんと包める、中将は盟友の顔を見た、「こんてだ、へへへ、ばんぜだ」権頭も杢も坐り込んだ、「もでじょぶだ、こやて、あとさらてけばい、へへへばんぜだばんぜだ」三人は勇気千倍して包み始めた。
彼らの純一熱心な作業はまる三日続いた。この七十二時間は他の場所においても貴重な意味ふかい七十二時間であった。すなわち奉行役所の筆頭与力である蓑賀参蔵殿は、例の「誰が袖」のひと間でしばしば商談をした、相手は大阪のさる富商の手代で、両者の取引には虚々実々の応酬があり、お互いにお互いを「はめてくれた」と思うところで手がうたれた。手代は内金として壱万両の為替を切り、蓑賀殿は引き渡すべき物資の品数と倉出し証明書を呈出したうえ、商談成立を祝って盛大な酒宴を張った。
持木屋成助が蓑賀殿の私宅へとび込んだのは、実にその盛大な酒宴の翌々日のことである。彼は死人のように蒼白め、狂人のように眼を血走らせ、奔馬のように鼻嵐を吹いていた、「先手を打たれました、すっからかんです」彼は苦しそうにあえいで水をくださいと悲鳴をあげた。――蓑賀殿は水をおやりなされたが、成助の話を聞くなりふるえだし、眼をつり上げ歯をくいしばってうめかれたうえ、あわてて御自分もその水をお飲みなされた。
「そ、それは本当か、いや、いや馬鹿な、……そんな、はははは、そんな馬鹿な事が」
「調べてごらんなさいまし」成助はもうひとくち飲む、「田丸屋の米倉、折屋の土蔵、水尾の酒庫、美那屋……どれもこれもすっからかんです、なんにもありません、からっけつのすかんぴんのがらんどうです」
「だがそんなはずはない、そんなべらぼうな」参蔵殿は憤然とひざを叩かれた、「わしは信じない、だって彼らにそんな事が出来る道理がない、なぜなら」
「彼らは感づいたのです、あなたと私どもとの密約を内偵したのです。それで先手を打ってやった仕事に違いありません」
「もしそれが事実とすれば」蓑賀殿は思いだされた、大阪のさる富商との取引を、その取引がまとまったことを、まとまった代償として内金を受け取ったことを、しこうしてその壱万両の内金をすでにしかるべく割り振ってしまったことをこれらの個条は明々白々であって、いささかも否定しがたくかつ一条として取り返しのつかぬ事実である。「あの、あの豚ども、わしは破滅だあの虫けらの泥棒のいかさま師のごろつきの破廉恥漢めら、ああわしは破滅だ」蓑賀殿は双手で空をたたきめされる、「――今日まで奴らを儲けさせてやったのは誰だ、この蓑賀参蔵さまではないか、無慈悲な統制を設け、市民を飢え凍えさせたのはなんのためだ、物価のつり上げと裏口営業、公然たる密売によって彼らに不当な利得を与えるためだったじゃないか、それはおれも眼くそほどの賄賂を取ったさ、だが彼らはどうだ、奴らは、……あああのこそ泥めら、詐欺師の卑劣漢の裏切り者の磔刑やろうの獄門ども、日ごろの恩を仇にしてこのどたん場におれの首を絞めるとはうぬどうしてくれよう」
「どうぞ落ち着いてくださいまし」成助は逆に気の毒にさえなった、「そんなにおっしゃることはございますまい、蓑賀さまはただ御計劃がはずれたというだけで、破滅とか首などという――」
「いやだめだ、おれは取引をしてしまった。倉出し証書をみんな渡し、壱万両という内金を取ってつかってしまった」
「なんとおっしゃいます」成助は眼をむいた、
「もう取引をなすった、あの、あなたが――」