2話 二
読み方を変える
「大変です来てください」
娘は狂気のように叫ぶ、
「いま押込がはいって家じゅうの物を持っていこうとしています。どうか早く、早く来てください」
番所の中には三人の番士がいた。土間の炉に火を焚いて、干魚を焼きながら、ちょうど煮燗で酒を始めたところである。「押込だって」と、番士の一人が云った、彼はむっとしたように面をふくらませた。
「それはここじゃない、係りが違う、ここへそんな事を訴訟して来たって、――まるで係りが違う、冗談じゃない、押込だなんて」
「ではどこへ、どこへお願いしたらいいんでしょう」
娘は半ば狂乱して叫ぶ、
「もうこれで三度めなんです、みんな持っていかれてしまいます、どこへいったら助けてくださるでしょうか、お係りはどこでしょうか」
「そうさ、たしか、――広小路の札場だったかな」
「札場のお番所へはもうゆきました」
「それじゃ西浜かも知れない」
番士はこう云いながら焼けた干魚を皿へ取った、
「このごろはよく係りが変わるから、そうさ、たぶん西浜だろう」
娘は西浜のほうへかけだしていった、「間に合うかしら、間に合うかしら」と呟やきながら、こんどこそ狂人そのままの勢いで、――三人の悪漢は「へえお疲れさま」と、番所へ声をかけながら右へ曲がる、権頭が胴震いをして水洟をひっこする。湯屋町を少しいったとき、左側の家で女と子供の悲しげに泣く声がした。立ちどまるとそれを圧して威猛高にわめくのが聞こえる。三人は思わず首を縮めた。なぜなら奉行所の役人の声だから、――それはこうわめいている。
「米は一人につき一日一合という御禁令だ、ええか。五人家族なら五合だろう、さすれば一回量は一合六勺六分六厘六毛となる、ええか、しかるにこの釜の中らをみろ、この中らには三合以上あるぞ」
「なんとも申しわけございません」
女房の哀訴する声だ、
「やどは大浜へ荷揚げに出ますし、十五に十三の食べ盛りを抱えて、一日五合では生きてゆくこともできませんので、ない中から物を売っては」
「黙れこやつ、きさま下民の分際で御政治を誹謗するか」
役人は絶叫する、
「法というものは至上尊厳、いやしくも犯すべからざるものだ、第一、ええか、法はもとお上の御都合によって定るもので、なにも貴様ら下民どものためにあるんじゃない、貴様らはただ守ればよい、一日一合、法がそう命じたら一日一合、それで生きられるかどうかなんてことは、まったく問題が別じゃ、ええか、法は守れと命ずる、生きろなどとは命じやせん、――この飯は釜ごと没収だ、米もあれば残らず出せ、うろんなまねをいたすとひっくくるぞ」ところがその隣りの家でもやっている、こちらは役人が三人だ。そしてそのまた隣りでも。――三軒めの役人は酔っているとみえて呂律が怪しい、「おれをよく眺めろ」
こう云っている、
「どうだ、おれが死んでるか、ひっく、死人が歩いたり口をきいたり、ひっく、するかあー、おれは佐貝政所奉行役所の御役人だ、けれどもが、不正はしない、一日一合といえば、ありがたい、一日一合ですませる、嘘も隠しもない、神仏は、ひっく、すべて、へっく、これ見のがしだ、いや見透しだ。しかも生きてる、現の証拠だ、にもかかわらず下賤なうぬらが生きてるというのは怪しい、これはありえねえ、稀有だ、今そこにあるのは、ひっく、それあ水のような粥だろうさ、だが朝か、昼には、不正があるに違いねえ、佐貝政所奉行役所の御役人たるおれが、一日一合で生きてるのに、下賤なうぬらが一日一合で生きられる道理がねえ、神仏は、なにもかも、見透しだ、そんな、ひっく、理屈は通らねえ、米を出せ家捜しだぞ」
「うーん」
権頭が感じ入ってうなる、
「役人なんてものは学があるもんだ、ちゃんと理の立ったことを云うぜ、ああ理詰めでこられちゃあぐうの音も出やしねえ、――うう寒い、つっ走ろう」
市町の中ほどに「御休処」と軒行燈の出た家がある、権頭の二人の盟友はそこへ入っていった。燈火禁制に軒行燈の出ているのもふしぎだが、中へ入るとそれどころではない、大きな八間の吊り燈が幾つもあり、行燈、燭台で、家じゅうがまぶしいほど照り輝いている、土間の床几は片付いているが、大小十幾つの部屋はいっぱいの客で、贅を凝らした魚鳥珍菜に、酒徳利を並べる者、精げた飯を食いちらす者、唄う声はやす音、禁令法度などはどこ吹く風かという景色である。権頭が板場へ顔を出すと、二十七八になる女が現われた。眼と唇つきのみだらがましい、しかしずばぬけた縹緻である、――彼女は土間へやって来て婉然と三人にうなずいた。
「寒かったろう御苦労だね、いま一杯つけさせるから飲んでておくれ、権、おまえその床几を下ろして、そう、隅のほうがいいね、――断わっておくがつぶれちゃあいけないよ、今夜は大事な頼みなんだから、いいかい」
「わかったよお杉の姐さん、だがいいのかい」
権頭がまた胴震いをしながら座敷のほうを見た、
「あっちにだいぶ役人がいるようだぜ」
「役人だから安心じゃないか、例によって旦那衆の御招待さ、驚くにゃあ当たらないよ」
ここだけはうす暗い土間の隅で、三人はつつましく酒を飲み始めた。ではこの暇にちょっと奥の座敷を拝見しよう、いちばん奥の最も上等な座敷を。