4話 四
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「なにもあなたのお嫁さんにしてくれなんて云やあしませんわ」
お杉のまどんなはこう続ける、
「あたし結婚なんてもの軽蔑していますの、妻なんて名からして侮辱ですもの、だって刺身のつまという意味と同じことですからね、それよりあたし堕村胎次郎先生のお説の賛成者ですわ、好きになってなにしたくなったらどこで誰となにしたっていい、それが人間性の解放だって、ずいぶんお新しい立派な理論じゃありませんか、このお説が出た以上はもうけものみたいだとか婬奔だなんて云われる心配はありませんわねえ、若旦那、あたしたちも堕村式でいきましょうよう」
木像はなんとも答えない。お杉の姐さんはもうぼっとしてしまって、木像の躯へ手をまわし、抱きしめるといっしょに顔を重ねた。――どうもうす気味の悪いことに相成った、姐さんは堕村理論に傾倒するの余り気が狂ったのだろうか、それともなにかに化かされでもしたのだろうか、ともかく気味が悪いから、ちょっと失礼して元の部屋をのぞいてみよう。……幹部役人と旦那衆の懇談は終わった、すなわち、主食副食をはじめ日用雑貨の割当を削減し、価格を倍に値上げする、そしてぬけ買いを厳重に取り締まる、犯した者は逆さ磔刑にする。これ一に「貧しき者、正直者の生活を保証するための至上法であって、これにより庶民の社会的連帯観念と、自粛精神ならびに道徳的良心の自覚を促進するであろう」という結論である。その公明にして理路整然たること、かの権頭にでも聞かせたら狂喜したに違いない。――やがて飲むだけ飲み食うだけ食った役人たちは、旦那衆からの贈り物をふところにねじ込んで、たいそう機嫌よく席を立った。招宴は終わったのである。
みんなそろって出ていったが、間もなく三人だけ引き返して来た。筆頭与力の蓑賀参蔵に持木成助と来六屋出平である。戻って来た彼らは襖障子を閉め、互いの膝を突き合わせるように坐った。蓑賀殿の肥えた円い顔が、こんどはきんと引きしまっているし、声も低く真虔な響きをもっている。
「江戸から御使者があった」参蔵殿はこう申される、「来月初めに監察使が来る、それまでに仕事をしなければならない、来六屋の倉は大丈夫として、持木屋、金のほうはいいか」
「三千や五千くらいはすぐに出せます」
成助はにこりと笑う、
「もし足りなければ集めることにいたしますが」
「少なくとも二十箱は必要だ、あと二十四五日あるから、食糧物資の統制をぐっと締めれば、法定備蓄量はそれでうくだろう、十日すれば肥後と庄内から米がつく、それとこれまでの蔵匿物をまとめてはたくんだ」
「田丸屋と折屋、この二人が難物ですな」
成助が分別ありげに云った、「彼らは自分たちで品を動かそうとしております、もし監察使の来ることがわかったら梃でも動かなくなるでしょう」
「もちろんすべて極秘だ、二人が品を出ししぶったら禁令品蔵匿で縛る手もある、とにかく金の手配を急いでもらおう」
そのとき突然「聞いたぞ聞いたぞ」という声がした。三人は仰天の余りほとんどとび上がりそうになった、蓑賀殿は刀をつかんで、「なに奴だ」と云いながら見まわしたが、部屋の中には彼らのほかになに者もいない、「はてふしぎ――」三人が思わず眼を見交わしたとき、
「おいここだここだ、眼の前だよ」
という声がした。
「ほら私だよ、見えないのかい」
こう云って食膳の上の燗徳利がぐらぐらと左右へ揺れた。三人はもういちど仰天し愕然としたうえ身震いをした。燗徳利はひとりでひょいと畳の上へとびだし、嘲弄するように左右へ揺れながら、恐るべきことをしゃべりだした。
「おまえたちのする事はわかった、官と商人と結託して消費禁令を出し、領民の生活を拘束してあらゆる物資を退蔵し、裏口商売による暴利をむさぼるのみか、退蔵物資を横に流して巨額の利を得てきた、今また幕府の監察使が来ると聞いて、その前に大量の蔵匿物を処理して大儲けをやろうとしている、だがそれは不可能だ、隠匿されている物資はすべて領民に所有権がある、なぜならそれは領民の極端な耐乏生活と、支払わされた不当価格によって生じた余剰だからだ、返さなければならない、領民にすべてを返さなければならない、わかったかね諸君」
えいという絶叫と共に蓑賀殿が燗徳利に抜打ちをくれた。燗徳利はひょいと宙に浮き、蓑賀さんの上へ来て横にかしいだ、蓑賀氏は頭から酒を浴び、怒って刀を振り廻した。
「あははははまた会うよ」
徳利はこう嘲笑したと思うと、来六屋出平の上へ落ちて来て、その頭に当たってがちゃんと三つに割れた。三人は夢中になって徳利のかけらにとびかかり、一つ一つ手に取って念入りに調べた、だがそれらはいささかの瞞着も機関もない単なる徳利のかけらで、妖異を証明するなにものも存在しなかった。――三人は茫然と顔を見合わせ、それから突然けらけらと笑いだした。激烈な精神感動は人間に笑いの衝動を与えるという、三人は蒼白い顔で、額に膏汗を流しながら、けらけらと笑いに笑った。
「ばかばかしいこんな事はありえない」蓑賀殿は笑いながら断言した、「ありえない事は存在する道理がない。わる洒落だ、なにを怖れるか、子供だましだ、われわれは絶対に安泰だ」