5話 五
読み方を変える
「お立ちですよ、姐さん、御前のお立ちですよ」
こういう声が聞こえて、お杉の姐さんは恍惚と身を起こした、
「うるさいのねえ、端下役人のくせに御前もないもんだ、――若旦那、ちょっとごめんなさいましよ」
こう云って抱いていた者に頬ずりをしたが、とたんに、
「きゃっ」
と恐ろしい悲鳴をあげてとび退いた。お杉の腕からごろりと転げ落ちたのは諸君御存じの木彫り人形である。若旦那でもなんでもない。正真正銘の木彫り人形だとわかったとき、姐さんは屈辱の余り歯がみをして、下賤きわまる言を口走られた、それはとうていここに紹介しがたき語彙に属する。そこへ女中の一人が走って来た、
「お杉姐さんどうなすって、御前の御帰りですよ」
「わかったようるさいね」
姐さんは落ちていた釵を拾って、やけに髪の根を突つきながら立ち上がった。
「若旦那はどうしたか知らないかい」
「あら御存じなかったんですか、もうさっきお帰りになりましたわ」
お杉は店へ出ていった。
蓑賀の御前を送り出したお杉の姐さんは、その足で小走りに表の土間へかけつけた。そこでは権頭に中将に杢の三人が飲んでいる、だいぶいい機嫌とみえて鼻唄などを唄っていたが、姐さんの顔を見ると盃をおいた。
「いま脇の木戸から奉行所の役人が出ていった、蓑賀参蔵という肥った侍だよ、木挽町の与力屋敷へ帰るんだからね、三人でいってしめておいで、今夜はたっぷり持っているはずだ、ぬかるんじゃないよ」
「合点です」
三人はこう云うなり立ち上がり、互いにうなずき合って出ていった。
市町から大通りへ出て北へ、かなり更けた街を蓑賀殿がひとり歩いてゆかれる、材木町、神明町、九間町、柳町、……燈火はないがよい月夜だ、蓑賀殿にはなにか気がかりなことがあるとみえ、首をかしげたりひとり言を云ったりしながら、錦町の角を右へ曲がられた。その時である、後ろからつけて来た三人のうち、杢がすっと蓑賀殿を追い越して、
「つかぬことを伺いますが」
と慇懃に声をかけた。相手は反射的に刀へ手をやり、躰をひらいて、
「なに者だ」とわめかれる、その頭を中将が後ろから棍棒で殴った。ごつんというみごとな音がして、蓑賀殿は優しくうめき、前へつんのめって倒れると、さも安堵したような深い溜息をもらして気をうしなわれた。
「今夜の酒は悪くなかった」
権頭と中将が被害者の袴の紐を解きながら云う、
「そだ、あならいっしゃちゃのこだ」
「ほい財布だ、かんかんはずっしりだぜ、嘘あねえ」「きもなよすか」
「いやそれはいけません」
と杢が女のような声を出す、
「やっぱり剥いでゆくほうがいいでしょう、ばか息子の放蕩ですよ」
「ほら始まった、どういうおちなんだそれは」
「つまりですね、裸になれば早く眼が覚める」
「違えねえ、そいつも食いつけらあ」
こうして三人は蓑賀殿を裸に剥き、着物はひと丸めにして、さあずらかれと立ち上がった。が、同時に権頭がおい待てと二人を呼び止めた。
「この財布には百両ちかい金がへえってる、いいか、中将、杢も聞いてくれ、おれ達あなげえことお杉の姐さんの下で稼いだが、もうそろそろ一本立ちになってもいいころだ、大の男が三人で危ねえ橋を渡り、姐さん一人に八割も頭をはねられるんでは埋らねえ、どうだ、このへんで姐さんと手を切ろうじゃねえか」
「それがいな、もたくさだ、おれもめもおとこだ、てきろ、そのこた」
「私も賛成ですよ」
杢もこう云って指をひらひらさせた、
「やりましょう、それはですね、つまり」
「まあ象徴派は取っとけ、それより相談が定ったら宵の口の話をやっつけよう」
権頭は歩きだした、
「例のつんぼ井戸の向こうの家よ、きっとまとまった金が握れるに違えねえ、そうしたらこの土地を売ろうじゃねえか」
「いかんげだ、すぎこすぎこ」
「杢もいいな、じゃ急ごうぜ、濠を越すんだ」
三人は道を西へ急いだ。
材木内久町の濠には夜になると小舟が待っている。これは市民たちが夜にまぎれて食糧物資を買い出しに出るのを、番所の小役人が内職稼ぎに渡してやるもので、取締りのある時など事前に教えてくれるから、この三人なども便利に使っているわけである。――彼らはこの舟で濠を渡った、そこから外はまったくの田園風景だった、青い月光を浴びて田と畑と森と、遠く近く農家がおぼろに霞んでみえる。濠に沿って五六丁ゆくと、北の庄村の地端れに近く、首切地蔵というきみの悪い地蔵尊へゆく道があり、その脇に野井戸が一つある、どういうわけか「つんぼ井戸」と呼ばれているが、その井戸の向こうを右へだらだらと下り、松林の中へはいるとすぐに一軒の家がみえる。
「あれだよ」
権頭が中将にこうささやいた、
「静かにいってみよう、またきっと金勘定をしているにちげえねえ、杢、この着物を持ってくれ」
三人は大根畑のほうから足音を忍ばせて近寄った。――家はまだ建てたばかりで新しいが、二十坪余りの隠居所といった感じのものだ、権頭は先に立って、かすかに燈明かりの漏れている部屋の外へ近寄った。中将に「聞いてみろ」という手まねをする、中将は耳を傾げた。なるほど聞こえる、ちん、ちん……紛れもなく小判の音である、中将はごくりと唾をのんだ、そして蔀戸へすり寄って中をのぞいた。家の中には短檠をかかげて、一人の若者がいま金を数えている。権頭のいわゆるずぶ若え銀流しなる者だろう、すばらしい美男だし、身装も贅を尽くしている、ああ顔をあげましたぞ諸君、御覧あれわれらの主人公、かの玉造八百助でござる。