葦は見ていた

2話 二

2,455字 約5分 2022年7月5日 公開

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 明くる朝の午前五時まえ、――

 観音寺の丘の上で、杉丸東次郎が藤吉計之介の来るのを待っていた。そこは寺のうしろにある平らな丘で、晴れていれば、前方には寺の大屋根や鐘楼を越して、城下町と城のある鶴ヶ岡の森が見えるのだが、濃い朝霧が視野を掩(おお)っているため、寺の屋根も鐘楼もおぼろにしか見えない。丘のうしろは雑木林の繁った斜面で、その下は熊井川の流れである。熊井川は観音寺の丘陵の北端をまわり、大きく迂曲(うきょく)して、そこにひろい淀(よど)みをつくっており(これも晴れていれば)その淀みや、対岸の街道や林野が眺められるのであるが、いまは川そのものさえ、灰白色の帷(とばり)に遮(さえぎ)られて見えなかった。

「いやだめだ、もうとうていむだだ」東次郎は首を振りながら呟いた、「思いきってやるほうがいい、さもなければ武士として破滅するばかりだ、思いきってやるほうが友情だろう」

 彼は丘の向うを見た。

 空が明るくなり、静かに風が出て、さっと霧が巻きあがった。東次郎は刀の下緒を外し、それを襷(たすき)にかけると、ふところからたたんだ晒(さら)し木綿を出して、しっかりと額に汗止めをした。そのとき観音寺の鐘が鳴りはじめた。

「時刻だな」と彼は呟いた、「いよいよそのときか、――」

 東次郎は袴(はかま)の股立(ももだち)をしぼった。

 鐘楼は丘のかげにあるので、それほど音は高くないが、鐘の響きは濃霧にこもって長く、一音、一音がおもおもしく、長く尾をひいて、城下町のほうへと鳴りわたっていった。

 東次郎はふと眼をそばめた。向うの、丘の登り口に人の姿が見えたのである。霧のためにはっきりしないが、藤吉計之介にまちがいはない。――彼は刀の目釘(めくぎ)をしめし、草履をぬいで足袋はだしになった。

 計之介は走って来た。

 東次郎は足もとを眺めやり、それから、刀の柄(つか)に手をかけて、走って来る計之介のほうを見た。計之介は三間ほど先で停った。

 計之介は蒼(あお)い顔をしていた。頬骨の出た、ひどく窶(やつ)れた顔が、走って来たあとなのに蒼白く、そうして激しく喘(あえ)いでいた。

「こっちはいいぞ」と東次郎が云った、「待っているから早く支度をしろ」

「それには及ばない」

 計之介は刀を抜いた。

「支度をしろ」と東次郎が云った、「そんな恰好で勝負ができるか」

「なに、――なに、きさまくらい」

 計之介は身構えをした。

「だめだ」東次郎は首を振った、「そんな恰好で勝負ができるものか、ちゃんと支度をしなければおれはやめる」

 そのとき鐘が鳴りやんだ。最後に撞(つ)かれた一音が、ゆっくりと、余韻を残して消えた。その消えかかる余韻のなかで、計之介が叫んだ。

「これでもか」

 そして彼は斬り込んだ。

 刀をふりかぶり、足場も計らずに、ただ真向から斬り込んだ。東次郎は左へ躱(かわ)しながら刀を抜いた。計之介は踏み止り、振返るとすぐに突を入れた。東次郎は右へ躱した。計之介はまた斬りつけた。こんどは上段から打ちおろし、それを返して横に払った。

「よせ、藤吉」と東次郎が叫んだ、「きさま気でも狂ったのか」

 計之介はまたとびかかった。東次郎は横へ身をひらきながら、すばやく計之介の足を(自分の足で)すくった。計之介はのめっていって転倒した。彼の手から刀が飛んだ、彼は倒れたまま起きようともせず、みじめな声で叫んだ。

「斬れ、杉丸、斬ってくれ」

 東次郎はこっちから眺めていた。

「斬ってくれ、斬らないのか」

 東次郎は刀を鞘(さや)におさめ、身支度を解いた。そして、濡れた足袋をぬいで草履をはき、足袋は懐紙に包んで袂(たもと)へ入れた。彼はそのあいだも計之介から眼をはなさず、やがて、草むらの中から計之介の刀を拾いあげると、静かに近よっていって呼びかけた。

「起きろ、人が来るとみっともない、起きてわけを話せ」と東次郎は云った、「いったい、どうしたんだ」

「おれは斬られたかった」

「起きて話せ」

「おれは斬られるつもりで来たんだ」

「さあ、起きて刀をしまえ」と東次郎は云った、「果し合をしずに済めばそれに越したことはない、さあ起きてちゃんとしてくれ」

 計之介は起きあがった。東次郎が刀を渡すと、立って、顔をそむけたまま鞘におさめた。

「おれは恥ずかしくって死にたいんだ」

「ひと言だけ云え」東次郎が云った、「なにがあったんだ」

「あいつが、――逃げた」

 東次郎は黙って次を待った。

「昨日の夜明けまえに」と計之介が云った、「おれが眼をさましたら、あいつはもういなかった」

「――慥(たし)かにか」

「有るだけの金と、あの漢鏡がない」と計之介は云った、「金のほうは僅かだが、漢鏡が家宝で、高価だということを知っていた、それが無いんだ、――おれは昨日、一日じゅう捜しまわった、だがあいつはどこにもいない、もう逃げたことは確実だ」

 東次郎は歩みよって、計之介の肩へ手を置いた。

「危ないところだった」東次郎は云った、「よかった、藤吉、よかったよ、天の助けだ」

「おれは恥ずかしい、ただもう恥ずかしい」

「うちへゆこう」と東次郎が云った、「うちへいって朝飯を食おう」

「ゆける筈はないじゃないか」

「ゆけなくってさ」と東次郎が云った、「いま藤吉は恥ずかしいと云った、しかしそれはちがう、恥ずかしいというのは昨日までの藤吉だ、いまの藤吉には恥ずかしいことなんかありゃあしない、いっしょにゆこう」

「有難いが、それだけはできない」

「おれはつれてゆくよ」

「それは残酷だ」と計之介は云った、「あれだけの醜態をさらして、ほかの人たちはともかく、深江さんの前へ出られる道理がない、それはあんまり残酷だ」

「いっしょにゆこう」東次郎は云った、「腫物(はれもの)を切開するときには、思いきって、一遍にやるものだ、なし崩しにやっても痛みが減りはしない、恥ずかしいおもいも一遍にしてしまえ、そうすればさっぱりするよ」

 計之介は不決断に頷(うなず)いた。

「さあゆこう」と東次郎が云った、「おれがうまくやるよ」

 二人は歩きだした。空はすっかり明るくなり、風のために、もう霧も殆んど吹きはらわれていた。丘の下り口までゆくと、朝の光りをあびた城下町の向うに、鶴ヶ岡の森と、城の天守閣が爽やかに眺められた。

 二人は坂をおりていった。

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