葦は見ていた

3話 三

2,711字 約5分 2022年7月5日 公開

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 二人は辻町にある杉丸の家へいった。

 東次郎は百二十石の納戸役で、家族は母親と、娶(めと)ってまのない妻と、深江という妹の三人であった。

「休暇を三日もらってあるんだ」と東次郎は云った、「今日は特別だから、ひとつ酒をつけてゆっくりしよう」

 東次郎がみみうちをしたとみえ、みんなの態度はごく自然で、他人行儀なようすは少しもみせなかった。妻女とは初めて会うのだが、その妻も旧知のようにふるまった。

 酒はなごやかに進んだ。

 深江が給仕に坐った。彼女は二十歳になる、躯の小柄な、まる顔の健康そうな娘、笑うとかなり大きな八重歯が見える。それが恥ずかしいのだろう、笑うときには必ず、手の甲を返して口を掩った。

 ――ばかだね、隠すことはないじゃないか。

 東次郎はたびたび云った。

 ――八重歯は愛嬌(あいきょう)があっていいものだ、おまえの顔は八重歯の見えてちょうどいいくらいなんだぜ。

 ――だって大きすぎるのよ。

 と深江は(口を掩いながら)云うのであった。

 ――わたくしのは八重歯ではなくって、鬼歯みたようなんですもの、恥ずかしいわ。

 計之介と深江とは、五年まえに婚約していた。計之介のほうに事情があり、このところ二年以上もこの家へはよりつかなかった。そのため深江は二十という年になってしまったのであるが、――彼女のようすには変ったところはなかった。計之介にはそれが、むしろ呵責(かしゃく)であったが、しかしうれしさも大きかった。彼女に少しも変ったようすがなく、まえと同じように受け容(い)れてくれるのをみて、彼は強い自責と深いよろこびとを、二重に感ずるのであった。

 食事が終ると、計之介は別れを告げた。

「明後日ゆくよ」と東次郎が云った、「そのときすっかり話を聞こう」

 計之介は頷いた。東次郎は玄関まで送って出た。

「松野老へはおれが知らせよう」東次郎は云った、「召使などもおれがなんとかするから、まず藤吉はゆっくり寝ることだ」

 計之介は眼をそむけながら頷いた。

「松野老がどんなに喜ぶことか」

 東次郎は呟くように云った。殆んど独り言のようであった。計之介は東次郎の顔を振返って見て、それから玄関を出ていった。

 藤吉の家は竹屋敷という処にあった。

 計之介が帰って一刻ばかりすると、家扶(かふ)の松野伊太夫(いだゆう)が、二人の下僕をつれて来た。松野は父の代からの家扶であるが、半年まえに自分から暇を取り、親類の家に寄食していたものであった。――計之介の居間へ、戻った挨拶に来たとき、松野は泣いた。

「杉丸さまからうかがいました」と松野伊太夫は云った、「あのときは無礼なことを申上げましたが、どうぞお赦(ゆる)し下さいますよう」

 計之介は頭を垂れた。そして低い声で云った。

「勘弁しておくれ、私はやり直すからね」

 松野は「はい」といった。

「私は立ち直ってみせる」と計之介は云った、「きっと立ち直ってみせるよ、きっとだ」

 計之介の眼からも涙がこぼれ落ちた。

 臨時に雇った二人の下僕をさしずして、松野が家の中をきれいに片づけた。家財道具も殆んどなく、家じゅうが荒れ放題になっていた。それをきれいにし、さしあたり入用な物を買いいれた。金は杉丸が都合してくれたらしい、あとで「残ったから」といって、二両ほどの金を計之介に渡した。

 中一日おいて東次郎が訪ねて来た。

 そのときはもう、松野の老妻も戻っていたので、つつましく酒肴の膳(ぜん)を拵(こしら)え、昼食を共にしながら話した。

 計之介はすっかり話した。話す必要もなくまた話せないことはべつにして、できるだけありのままに告白した。

 藤吉の家は五百三十石の中老で、父の舎人(とねり)は側(そば)御用を勤めたこともあり、酒も煙草も口にしたことのない、謹直な人であった。計之介は一人息子だったが、決してあまやかされるようなことはなかったし、生れつき温和(おとな)しく、頭のいい子で、藩校ではよく褒賞を与えられた。――杉丸東次郎とは精心館で知りあった。東次郎は計之介より一つ年長で、精心館道場では俊秀といわれていた。計之介はついに彼に及ばなかったが、それでも上位の中軸くらいまでは使ったし、ときには東次郎と三本に一本くらいの勝負をすることもあった。

 二十歳前後から、彼にはふしぎに人望が集まって、「やがて国老になるだろう」などという評が広まった。父が側御用を勤めたし、国老三席のうち、一つは中老から選出される定めなので、無根の評ではないが、そんな年ごろでそういう人望の集まることは、彼自身にはかなり重荷に感じられた。

 ――そんなことを気にするな。

 東次郎は、しばしば彼を励ました。

 ――世評なんて勝手なものだし、国老になったっていいじゃないか、国老になったって悪くはないぜ。

 ――よしてくれ、おれは静かに暮したいんだ。

 計之介は学問が好きだった。できることなら一生、静かに学問をして暮したかった。

 二十三歳のとき、彼は深江を妻に欲しいと申し込んだ。東次郎は妹の気持をきいてから承知し、婚約がまとまった。深江は十五歳だったが、彼女はおくてらしく、躯つきも気持もまだ子供のようであった。

 ――二年ばかり待ってやってくれ。

 と東次郎が云い、計之介は承知した。

 彼が二十五になった年、母が死に、続いて父が江戸で死んだ。計之介は父の葬儀のために江戸へゆき、そこで女と知りあった。

 女は柳橋の芸妓で、名をおひさといい、もう二十二歳であった。計之介は亡父の友人の催してくれた宴席で彼女に逢い、そのあと、彼女に求められて、一人で隠れて逢いにいった。

 ――もう一度だけいらしって。

 と、おひさはせがんだ。

 ――お国へお帰りになれば、もう一生おめにかかれないんですもの、ね、もう一度だけ。

 それがたび重なった。江戸という都会が珍しく、芸妓あそびというものが珍しく、そして初めて知った女であった。計之介は女のつよい情に惹(ひ)かれた。決して嫌いではなかったし、はなれ難い気持もあったが、結局はあそびであり、江戸にいるあいだのことだと思っていた。

 彼は七十日を済ませて帰国した。別れに逢ったとき、おひさは泣きとおした。

 ――どうしてもあなたが忘れられない、いっそ死んでしまいたい。

 女は声をあげて泣き、幾たびも彼の腕を噛(か)んで、その自分の歯の痕(あと)へ狂ったように頬ずりをした。

 帰国してからまもなく、彼は無名の手紙で料亭へ呼びだされた。新京橋に近い、「源宗」という料理茶屋で、いってみるとおひさであった。彼女はすっかり窶れて、病人のようにみえた。彼女は計之介を見ると哀れに笑い、肩をちぢめながら云った。

 ――どうぞ叱らないで下さい。

 ――どうしたんだ。

 彼にはわけがわからなかった。

 ――お願いですから叱らないで。

 おひさは彼にしがみつき、そして激しく泣きだした。

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