3話 三
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二人は辻町にある杉丸の家へいった。
東次郎は百二十石の納戸役で、家族は母親と、娶ってまのない妻と、深江という妹の三人であった。
「休暇を三日もらってあるんだ」と東次郎は云った、「今日は特別だから、ひとつ酒をつけてゆっくりしよう」
東次郎がみみうちをしたとみえ、みんなの態度はごく自然で、他人行儀なようすは少しもみせなかった。妻女とは初めて会うのだが、その妻も旧知のようにふるまった。
酒はなごやかに進んだ。
深江が給仕に坐った。彼女は二十歳になる、躯の小柄な、まる顔の健康そうな娘、笑うとかなり大きな八重歯が見える。それが恥ずかしいのだろう、笑うときには必ず、手の甲を返して口を掩った。
――ばかだね、隠すことはないじゃないか。
東次郎はたびたび云った。
――八重歯は愛嬌があっていいものだ、おまえの顔は八重歯の見えてちょうどいいくらいなんだぜ。
――だって大きすぎるのよ。
と深江は(口を掩いながら)云うのであった。
――わたくしのは八重歯ではなくって、鬼歯みたようなんですもの、恥ずかしいわ。
計之介と深江とは、五年まえに婚約していた。計之介のほうに事情があり、このところ二年以上もこの家へはよりつかなかった。そのため深江は二十という年になってしまったのであるが、――彼女のようすには変ったところはなかった。計之介にはそれが、むしろ呵責であったが、しかしうれしさも大きかった。彼女に少しも変ったようすがなく、まえと同じように受け容れてくれるのをみて、彼は強い自責と深いよろこびとを、二重に感ずるのであった。
食事が終ると、計之介は別れを告げた。
「明後日ゆくよ」と東次郎が云った、「そのときすっかり話を聞こう」
計之介は頷いた。東次郎は玄関まで送って出た。
「松野老へはおれが知らせよう」東次郎は云った、「召使などもおれがなんとかするから、まず藤吉はゆっくり寝ることだ」
計之介は眼をそむけながら頷いた。
「松野老がどんなに喜ぶことか」
東次郎は呟くように云った。殆んど独り言のようであった。計之介は東次郎の顔を振返って見て、それから玄関を出ていった。
藤吉の家は竹屋敷という処にあった。
計之介が帰って一刻ばかりすると、家扶の松野伊太夫が、二人の下僕をつれて来た。松野は父の代からの家扶であるが、半年まえに自分から暇を取り、親類の家に寄食していたものであった。――計之介の居間へ、戻った挨拶に来たとき、松野は泣いた。
「杉丸さまからうかがいました」と松野伊太夫は云った、「あのときは無礼なことを申上げましたが、どうぞお赦し下さいますよう」
計之介は頭を垂れた。そして低い声で云った。
「勘弁しておくれ、私はやり直すからね」
松野は「はい」といった。
「私は立ち直ってみせる」と計之介は云った、「きっと立ち直ってみせるよ、きっとだ」
計之介の眼からも涙がこぼれ落ちた。
臨時に雇った二人の下僕をさしずして、松野が家の中をきれいに片づけた。家財道具も殆んどなく、家じゅうが荒れ放題になっていた。それをきれいにし、さしあたり入用な物を買いいれた。金は杉丸が都合してくれたらしい、あとで「残ったから」といって、二両ほどの金を計之介に渡した。
中一日おいて東次郎が訪ねて来た。
そのときはもう、松野の老妻も戻っていたので、つつましく酒肴の膳を拵え、昼食を共にしながら話した。
計之介はすっかり話した。話す必要もなくまた話せないことはべつにして、できるだけありのままに告白した。
藤吉の家は五百三十石の中老で、父の舎人は側御用を勤めたこともあり、酒も煙草も口にしたことのない、謹直な人であった。計之介は一人息子だったが、決してあまやかされるようなことはなかったし、生れつき温和しく、頭のいい子で、藩校ではよく褒賞を与えられた。――杉丸東次郎とは精心館で知りあった。東次郎は計之介より一つ年長で、精心館道場では俊秀といわれていた。計之介はついに彼に及ばなかったが、それでも上位の中軸くらいまでは使ったし、ときには東次郎と三本に一本くらいの勝負をすることもあった。
二十歳前後から、彼にはふしぎに人望が集まって、「やがて国老になるだろう」などという評が広まった。父が側御用を勤めたし、国老三席のうち、一つは中老から選出される定めなので、無根の評ではないが、そんな年ごろでそういう人望の集まることは、彼自身にはかなり重荷に感じられた。
――そんなことを気にするな。
東次郎は、しばしば彼を励ました。
――世評なんて勝手なものだし、国老になったっていいじゃないか、国老になったって悪くはないぜ。
――よしてくれ、おれは静かに暮したいんだ。
計之介は学問が好きだった。できることなら一生、静かに学問をして暮したかった。
二十三歳のとき、彼は深江を妻に欲しいと申し込んだ。東次郎は妹の気持をきいてから承知し、婚約がまとまった。深江は十五歳だったが、彼女はおくてらしく、躯つきも気持もまだ子供のようであった。
――二年ばかり待ってやってくれ。
と東次郎が云い、計之介は承知した。
彼が二十五になった年、母が死に、続いて父が江戸で死んだ。計之介は父の葬儀のために江戸へゆき、そこで女と知りあった。
女は柳橋の芸妓で、名をおひさといい、もう二十二歳であった。計之介は亡父の友人の催してくれた宴席で彼女に逢い、そのあと、彼女に求められて、一人で隠れて逢いにいった。
――もう一度だけいらしって。
と、おひさはせがんだ。
――お国へお帰りになれば、もう一生おめにかかれないんですもの、ね、もう一度だけ。
それがたび重なった。江戸という都会が珍しく、芸妓あそびというものが珍しく、そして初めて知った女であった。計之介は女のつよい情に惹かれた。決して嫌いではなかったし、はなれ難い気持もあったが、結局はあそびであり、江戸にいるあいだのことだと思っていた。
彼は七十日を済ませて帰国した。別れに逢ったとき、おひさは泣きとおした。
――どうしてもあなたが忘れられない、いっそ死んでしまいたい。
女は声をあげて泣き、幾たびも彼の腕を噛んで、その自分の歯の痕へ狂ったように頬ずりをした。
帰国してからまもなく、彼は無名の手紙で料亭へ呼びだされた。新京橋に近い、「源宗」という料理茶屋で、いってみるとおひさであった。彼女はすっかり窶れて、病人のようにみえた。彼女は計之介を見ると哀れに笑い、肩をちぢめながら云った。
――どうぞ叱らないで下さい。
――どうしたんだ。
彼にはわけがわからなかった。
――お願いですから叱らないで。
おひさは彼にしがみつき、そして激しく泣きだした。