11話 二の六
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炭屋河岸の小助店という長屋から出て来ると、子供が駆けよって「おじちゃん」と呼びかけた。振向くと子供はにっと笑い、逃げ腰になりながら「おれ腹がへっちゃったんだよ」と云った。
「よう、どうした」と参太が云った、「おめえこんなところにいたのか」
塔の沢からさがった、三枚橋のところで会った子供である。あのときと同じぼろを着、繩の帯にはだしで、乞食というよりも、山から迷い出て来た熊の仔、といった感じだった。
「あの女の人いっしょじゃないね」
「腹がへってるって云ったな」
子供は首を振った、「そんなでもない」
「箱根でもそう云ってたぜ」
「誰にでもってわけじゃないさ」と云って子供は参太を見あげた、「おじちゃん、捜す人がいなかったらしいね」
「いなかった、――おめえ、おれが人を捜しに来たってことを知ってるのか」
「おじちゃんが訊いてるのを聞いちゃったんだ、これからまた大鋸町へ戻るのかい」
「きみの悪いやつだな、大鋸町のときから跟けていたのか」
「ずっとだよ、沼津からずっとさ、おじちゃん気がつかなかったのかい」
参太は子供の顔をみつめた、「大磯でも、藤沢でもか」
「神奈川じゃ柏屋で泊ったね」
「おどろいたな、どうして声をかけなかったんだ」
女の人がいたもの。女は嫌いか、と参太が訊いた。嫌いさ、女はみんながみがみ小言ばかり云うし、ひとを子供扱いにしやがる、女には近よらねえことにしているんだ、と子供は云った。
作次は長屋をひきはらった。今年の三月だという、おさんに男ができて、作次は酒びたりになり、おさんがいなくなった。作次は狂ったようにおさんを捜しまわったが、みつけだしたのかどうか、彼もまた長屋をとびだしてしまった。日本橋の魚河岸で軽子でもしているらしい、そのあたりで酔いつぶれているのをよく見かける。長屋の者はそう云っていた。――初めに大鋸町を訪ねたが、作次の女房はなにも云わなかった。そこも一と間きりの長屋で、これという家財道具はなく、がらんとした薄暗い部屋の中で、作次の女房は鼻緒作りをしていた。もとは縹緻よしだったろう、眼鼻や顔だちはととのっているが、哀れなほど窶れて、頸や手などは乾いた焚木のように細かった。作次は炭屋河岸の小助店にいる、そう云うだけで、あとはなにを訊いても返辞をしなかった。七つと五つくらいの女の子に、よちよち歩きの男の子がいた。三人きょうだいなのだろう、三寸ばかりの竹切を使って遊んでいたが、誰かにないしょでやっているように、動作も静かだし、なにか云うのもひそひそ声であった。女房も三人の子供たちも、しまいまで参太を見ようとはしなかった。
「東は、――東だろうな水戸は」と子供は歩きながら話していた、「江戸から見ると北かな、おじちゃん東かい北かい」
「なにが」参太はわれに返ったように振返った。「うん水戸か、そうさ、東北かな」
「そっちは水戸までしかいかなかった、西は須磨ってところまでいったけどさ、こんどはおれ仙台までいってみようと思うんだ」
「うちや親たちはどこなんだ」
「いま話したじゃねえか、聞いていなかったのかい」子供は舌打ちをした、「丑年の大水でみんな死んじゃっただろう、おれは七つでさ、町預けになったけれどつまんねえから、きっぺと二人で逃げだしたんだ」
「それからずっとそうやってるのか」
「結構おもしろいぜ」と子供は続けた、「寝たくなれば好きなところで寝るし、行きたいところがあればどこへでもゆけるしさ、小言を云われる心配はねえし、使いや用をさせられることもねえんだから」
「腹はいつもへってるんだろう」
「あれはたんかだよ、これと見当をつけた人があるとあれをやるんだ、腹なんかへっちゃあいねえ、銭が欲しいときだけさ」そこで子供は仔細らしく太息をついた、「――きっぺのやつはしっこしがねえのよ、三年めになったらくたびれちまったって、畳と蒲団が恋しくなったなんて、駿河の府中ってとこでふけちまやがった、ふん、いまごろはどこかで樽拾いか子守りでもやらかされてるんだろうさ、こっちは一人になって却ってさばさばしたけどね」
「そんなことをしていて、役人に捉まりゃあしないか」
「悪いこともしねえのにかい」子供は小さな肩を揺りあげ、ふんと鼻をならした、「たいてえの役人とはもう顔馴染なんだぜ、箱根の関所なんぞ役人のほうから挨拶してくれるよ」
「たいした御威勢だな」
「大名なみとはいかねえさ」子供は舌を出したが、急に立停った、「おじちゃん、飯田屋へ帰るのか」
「荷物が預けてあるんだ」
「女の人が待ってるんだね」
「いやあしない、あれとは今朝いっしょに出て別れたよ」
ほんとかい。本当だ。またいっしょになるんだろう。どうして、と参太が訊いた。だってそんな気がするもの、あの女はくっ付いてはなれねえと思うな、と子供は云った。
「そんなことが気になるのか」
「おれは女が嫌いだって云ったじゃねえか」
「だからどうだっていうんだ」
子供は暫く黙って歩いた。そして、よく考えていたというような口ぶりで、恥ずかしそうに云った。
「おれもね、もしなんだったら、ねえ」
だが参太はもう聞いていなかった。
作次のところから出ていったとすると、おさんを捜す手掛りはないと思った。しかしそうではない、作次はきちがいのようになって二人を捜しまわったという。それから仕事もせずに酒びたり、ついには長屋へも帰って来ず、魚河岸で軽子のようなことをしているということだ。ことによると、作次はおさんのいどころを知っているかもしれない。そうだ、捜し当てたとみるほうが筋がとおる、二人のいどころを突止めたが、おさんを伴れ戻す望みはなかった。それですっかりぐれだした。おそらくそんなところだろう、とにかく作次に当ってみることだ、と参太は思った。
「おまえなんていう名だ」
「おれのか」子供はさもうんざりと云いたげに首を振った、「おじちゃんはなんにも聞いてねえんだな、さっきそ云ったばかりじゃねえか、伊三だよ、伊三郎ってんだってば」
「悪かった、そうか伊三だったけな」
「もう一つのほうも忘れたんじゃねえのか」
「なんのことだ」
「あれだ、どうもおかしいとは思ったよ、あんまりよしよし云うもんだから、――子供だと思ってばかにしてたんだな」
「怒るなよ、考えごとをしていたんだ」と云って参太は立停った。「おめえおれに頼まれてくんねえか」
「自分のことで頭がいっぱいなんだな」
「そっちの話も聞くよ、もういちど云ってみてくれ」
「おれのほうはあとだ」と伊三は小なまいきに片手を振った、「おじちゃんのほうを先にするから用を云ってくんな」