おさん

11話 二の六

2,675字 約5分 2022年6月22日 公開

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 炭屋河岸の小助店(だな)という長屋から出て来ると、子供が駆けよって「おじちゃん」と呼びかけた。振向くと子供はにっと笑い、逃げ腰になりながら「おれ腹がへっちゃったんだよ」と云った。

「よう、どうした」と参太が云った、「おめえこんなところにいたのか」

 塔の沢からさがった、三枚橋のところで会った子供である。あのときと同じぼろを着、繩の帯にはだしで、乞食というよりも、山から迷い出て来た熊の仔(こ)、といった感じだった。

「あの女の人いっしょじゃないね」

「腹がへってるって云ったな」

 子供は首を振った、「そんなでもない」

「箱根でもそう云ってたぜ」

「誰にでもってわけじゃないさ」と云って子供は参太を見あげた、「おじちゃん、捜す人がいなかったらしいね」

「いなかった、――おめえ、おれが人を捜しに来たってことを知ってるのか」

「おじちゃんが訊いてるのを聞いちゃったんだ、これからまた大鋸町へ戻るのかい」

「きみの悪いやつだな、大鋸町のときから跟けていたのか」

「ずっとだよ、沼津からずっとさ、おじちゃん気がつかなかったのかい」

 参太は子供の顔をみつめた、「大磯でも、藤沢でもか」

「神奈川じゃ柏屋(かしわや)で泊ったね」

「おどろいたな、どうして声をかけなかったんだ」

 女の人がいたもの。女は嫌いか、と参太が訊いた。嫌いさ、女はみんながみがみ小言ばかり云うし、ひとを子供扱いにしやがる、女には近よらねえことにしているんだ、と子供は云った。

 作次は長屋をひきはらった。今年の三月だという、おさんに男ができて、作次は酒びたりになり、おさんがいなくなった。作次は狂ったようにおさんを捜しまわったが、みつけだしたのかどうか、彼もまた長屋をとびだしてしまった。日本橋の魚河岸で軽子(かるこ)でもしているらしい、そのあたりで酔いつぶれているのをよく見かける。長屋の者はそう云っていた。――初めに大鋸町を訪(たず)ねたが、作次の女房はなにも云わなかった。そこも一と間きりの長屋で、これという家財道具はなく、がらんとした薄暗い部屋の中で、作次の女房は鼻緒作りをしていた。もとは縹緻(きりょう)よしだったろう、眼鼻や顔だちはととのっているが、哀れなほど窶(やつ)れて、頸や手などは乾いた焚木(たきぎ)のように細かった。作次は炭屋河岸の小助店にいる、そう云うだけで、あとはなにを訊いても返辞をしなかった。七つと五つくらいの女の子に、よちよち歩きの男の子がいた。三人きょうだいなのだろう、三寸ばかりの竹切を使って遊んでいたが、誰かにないしょでやっているように、動作も静かだし、なにか云うのもひそひそ声であった。女房も三人の子供たちも、しまいまで参太を見ようとはしなかった。

「東は、――東だろうな水戸は」と子供は歩きながら話していた、「江戸から見ると北かな、おじちゃん東かい北かい」

「なにが」参太はわれに返ったように振返った。「うん水戸か、そうさ、東北かな」

「そっちは水戸までしかいかなかった、西は須磨(すま)ってところまでいったけどさ、こんどはおれ仙台(せんだい)までいってみようと思うんだ」

「うちや親たちはどこなんだ」

「いま話したじゃねえか、聞いていなかったのかい」子供は舌打ちをした、「丑年(うしどし)の大水でみんな死んじゃっただろう、おれは七つでさ、町預けになったけれどつまんねえから、きっぺと二人で逃げだしたんだ」

「それからずっとそうやってるのか」

「結構おもしろいぜ」と子供は続けた、「寝たくなれば好きなところで寝るし、行きたいところがあればどこへでもゆけるしさ、小言を云われる心配はねえし、使いや用をさせられることもねえんだから」

「腹はいつもへってるんだろう」

「あれはたんかだよ、これと見当をつけた人があるとあれをやるんだ、腹なんかへっちゃあいねえ、銭が欲しいときだけさ」そこで子供は仔細(しさい)らしく太息(といき)をついた、「――きっぺのやつはしっこしがねえのよ、三年めになったらくたびれちまったって、畳と蒲団が恋しくなったなんて、駿河(するが)の府中ってとこでふけちまやがった、ふん、いまごろはどこかで樽拾(たるひろ)いか子守りでもやらかされてるんだろうさ、こっちは一人になって却ってさばさばしたけどね」

「そんなことをしていて、役人に捉(つか)まりゃあしないか」

「悪いこともしねえのにかい」子供は小さな肩を揺りあげ、ふんと鼻をならした、「たいてえの役人とはもう顔馴染(なじみ)なんだぜ、箱根の関所なんぞ役人のほうから挨拶してくれるよ」

「たいした御威勢だな」

「大名なみとはいかねえさ」子供は舌を出したが、急に立停った、「おじちゃん、飯田屋へ帰るのか」

「荷物が預けてあるんだ」

「女の人が待ってるんだね」

「いやあしない、あれとは今朝いっしょに出て別れたよ」

 ほんとかい。本当だ。またいっしょになるんだろう。どうして、と参太が訊いた。だってそんな気がするもの、あの女はくっ付いてはなれねえと思うな、と子供は云った。

「そんなことが気になるのか」

「おれは女が嫌いだって云ったじゃねえか」

「だからどうだっていうんだ」

 子供は暫く黙って歩いた。そして、よく考えていたというような口ぶりで、恥ずかしそうに云った。

「おれもね、もしなんだったら、ねえ」

 だが参太はもう聞いていなかった。

 作次のところから出ていったとすると、おさんを捜す手掛りはないと思った。しかしそうではない、作次はきちがいのようになって二人を捜しまわったという。それから仕事もせずに酒びたり、ついには長屋へも帰って来ず、魚河岸で軽子のようなことをしているということだ。ことによると、作次はおさんのいどころを知っているかもしれない。そうだ、捜し当てたとみるほうが筋がとおる、二人のいどころを突止めたが、おさんを伴れ戻す望みはなかった。それですっかりぐれだした。おそらくそんなところだろう、とにかく作次に当ってみることだ、と参太は思った。

「おまえなんていう名だ」

「おれのか」子供はさもうんざりと云いたげに首を振った、「おじちゃんはなんにも聞いてねえんだな、さっきそ云ったばかりじゃねえか、伊三だよ、伊三郎ってんだってば」

「悪かった、そうか伊三だったけな」

「もう一つのほうも忘れたんじゃねえのか」

「なんのことだ」

「あれだ、どうもおかしいとは思ったよ、あんまりよしよし云うもんだから、――子供だと思ってばかにしてたんだな」

「怒るなよ、考えごとをしていたんだ」と云って参太は立停った。「おめえおれに頼まれてくんねえか」

「自分のことで頭がいっぱいなんだな」

「そっちの話も聞くよ、もういちど云ってみてくれ」

「おれのほうはあとだ」と伊三は小なまいきに片手を振った、「おじちゃんのほうを先にするから用を云ってくんな」

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