おさん

12話 二の七

5,702字 約11分 2022年6月22日 公開

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 その夜の十時すぎ、――参太は魚河岸の外(はず)れにある「吉兵衛」という居酒屋で飲んでいた。まえの年に、飲食店の時間にきびしい制限が布令(ふれ)だされ、もちろん裏はあるにはちがいないが、この魚河岸はまるで別格のようで、表もあけたまま、軒提灯(のきぢょうちん)も掛けたまま、客は遠慮のない高ごえで、笑ったりうたったり、囃(はや)したてたりしていた。

「どうするのさ」と脇に腰掛けている伊三が、囁き声で訊いた、「なにを待ってるんだい」

 参太は左手でそっと、伊三の腕を押えた。伊三は黙った。

 作次はまだしらふのようにみえた。伊三が半日がかりで訊きまわり、毎晩、必ずこの「吉兵衛」へあらわれて飲みつぶれる、ということをさぐり出したのだ。参太は八時ころにここへ来て酒を注文し、伊三はめしを喰べるととびだしていった。作次の来るのを見張るのだそうで、彼は自分の頼まれたことに、大きな責任と誇りを感じているようであった。参太はあまり飲めないほうだが、この賑やかな広い店の中では、舐(な)めるような彼の飲みかたもそれほど眼立たず、ようやく二本めに口をつけたとき、伊三が戻って来て作次のあらわれたことを告げた。

「おれ外へ出てるよ」と伊三が云った、「こういうところはおれにはまずいんだ、みんな見やあがるからね、いいだろう」

 参太は頷(うなず)き、伊三は出ていった。

 作次は壁際に並べた飯台(はんだい)の端に、独りはなれて腰を掛け、突出しの小皿を二つ前にしたまま、ゆっくりした手つきで飲んでいた。年は三十六七、膏(あぶら)けのぬけた灰色の顔に、眼と頬が落ち窪(くぼ)んでいた。古びた印半纒(しるしばんてん)に股引(ももひき)、緒のゆるんだ草鞋(わらじ)を素足にはいていた。――この店には女けはなかった。十二三から四五くらいまでの小僧たちが六人、いせいのいい声で注文をとおしたり、すばしこく酒肴(さけさかな)を運んだりしている。作次はいい客ではないらしく、見ていると、幾たびも呼ばなければ、小僧たちは近よらなかったし、注文を聞いてもあとまわしにされるようであった。

 作次が燗徳利をさかさまに振り、酒をしたむのを見て、参太は立ちあがった。近くにいた小僧を呼んで、向うへ移りたいと云うと、小僧は首を振った。店の定(さだ)めで知らない客同志が盃のやりとりをすることは断わると答えた。いや、あの男は知り合いなんだ、久し振で飲むんだから頼む、これは駄賃だと云って、幾らかの銭を握らせた。そして酒と肴の追加を命じ、作次の脇へいって声をかけた。

「そうだ」と答えて作次は眼をあげた、「おらあ作次だが、なにか用か」

「ちょっと訊きたいことがあるんだ」と参太は穏やかに云った。「飲みながらにしよう。ここへ掛けてもいいか」

 作次は顎をしゃくった。参太は腰を掛け、小僧が参太の酒肴を持って来た。作次は無表情に、ぼんやりと前を見やっていたが、新しい酒が来、参太が酌をしてやると、飢えたもののように、四つ五つたて続けに飲んだ。それから初めて、いま飲んだ酒に気づいたというようすで、参太の顔を見て云った。

「おらあからっけつだぜ」

「たいしたことはないさ」と参太は酌をしてやりながら云った、「まずくなかったらやってくれ、ちっとは持ってるんだ」

「この店は夜明しやるんだ」

「そうだってな、おれは強くはないが、おめえのいいだけつきあうぜ」

「おめえの酌はへただな」と作次が云った、「徳利を置いてくれ、手酌でやるから」

「じゃあめいめいにしよう」

 駄賃が効(き)いたのか、小僧が肴を二品ずつに、酒を四本持って来た。それを見たとたん、作次の眼が活(い)き活きと光を帯び、落ち窪んだ頬にも赤みがさすように感じられた。いいのか、親方、と作次が云った。これはたけえほうの酒だぜ。大丈夫だ、心配はかけないから飲むだけ飲んでくれ、と参太は答えた。こんなことは久し振だ、いや肴はいらない、このうちで食えるのは塩辛(しおから)だけだ、この店の鰹(かつお)の塩辛はちょっとしたものだが、この酒には合わない、肴はこの新香だけで充分だ。作次はそんなことを云いながら、香の物にも箸はつけず、いかにもうまそうに酒だけを飲み続けた。――訊きたいことがある、と参太が話しかけたことは忘れていたらしい。二合の燗徳利を四本あけるまで、参太にはわけのわからないことを、休みなしに独りで饒舌(しゃべ)り、独りで合槌(あいづち)を打っていた。そして、五本めに口をつけたとき、初めて思いだしたように、盃を持った手で参太を指さした。

「おめえ、さっきなにか訊くことがあるって云ったようだな」

「たいした話じゃあねえ、おさんのことだ」と参太は云い、云ったことを打ち消すように酒をすすめた、「まあ一ついこう、たまに一度ぐらいは酌をさせてくれ」

「親方とどこで会ったっけ、柳橋か」

「親方はよしてくれ」と参太が云った、「としからいったっておめえのほうがあにきだ、作あにいと呼んでもいいか」

「としのことを云ってくれるな」作次は左手で頬杖を突き、顔を歪(ゆが)めた、「おさんか」と作次は遠い俤(おもかげ)を追うような眼つきで呟(つぶや)いた。

「あんな女はこの世に二人とはいねえな。可愛(かわい)いやつだった、頭のてっぺんから足の爪先まで、可愛さってものがぎっちり詰ってた、ほんとだぜ、この世でまたとあんな女に会えるもんじゃあねえ、一生に一度、おさんのような女に会ったら、それでもう死んでも思い残すことはねえと思う、ほんとだぜ」

 作次の全感覚に、おさんの記憶がよみがえってくるのを、参太は認めた。一升ちかい酒の酔で感情も脆(もろ)くなったのだろう、作次の落ち窪んだ眼から、突然、涙が頬を伝ってこぼれおちた。彼は初めておさんと会ったときのことを話した。雪の降る日、九段坂の途中で、おさんが足駄(あしだ)の鼻緒を切って困っていた。作次は自分の手拭を裂いて鼻緒をすげてやり、それから淡路(あわじ)町の鳥屋で、いっしょにめしを喰べた。時間にすれば半刻(はんとき)くらいだが、鳥屋を出たときには、二人はもう互いにのぼせあがっていた。

「あたしをあんたのものにして、と初めての晩おさんは云った」作次は頬杖を突いていた手で、ぎゅっと顎を掴んだ。「身も心も、残らずあんたのものにして、決してあたしをはなさないでちょうだいって、こっちの骨がきしむほど、手足でしがみつきながら云った」

 作次は眼をつむった。参太は黙っていた。作次は自分の回想に全身で浸(ひた)ってい、そこに参太が聞いていることなどは、まったく意識にないようにみえた。まわりの客は絶えず変っていた。腰を据えて飲んでいるのは二た組か三組で、ほかの客はあっさり飲んですぐに引きあげる、「さあ、なかへとばそう」とか「そろそろ川を越そうか」などと云う声も聞えた。入れ替って来る客もたいてい同じようで、遊びにゆく下拵(したごしら)えに飲む、というふうであった。

「おらあ女房子を捨てた、おさんもそれまでいっしょにくらしていた男を捨てた」と作次は続けていた、「おれがしんけんだったのは断わるまでもねえ、おさんもしんじつおれが好きなようだった、――だが、あのときになると、いざっという間際(まぎわ)になると、おさんは夢中で男の名を呼びはじめる、おれの知らねえ男の名をだ、――それを聞くと、とたんにおれは、躯(からだ)ぜんたいが凍っちまうように思った」

 新しい酒が来た。参太が作次の前へ置いてやると、彼は汁椀を取って、中の物はすっかり土間へあけ、酒をその汁椀へ注(つ)いで呷(あお)った。

「男にとってこれほど痛えことがあるか、おらあかっとなって、叩き起こしておさんを責めた、悪党が」と作次は呻(うめ)き声をあげ、左手で髪の毛を掴みしめた。「この悪党が、おさんを殴(なぐ)り、叩き倒し、足蹴(あしげ)にかけた、――可哀そうに、おさんはあやまるばかりだった、自分ではなにも知らない、そんな男の名は知らない、夢中でわけがわからなくなっただけだ、あんたのほかにみれんのある男などはいない、どうか堪忍してくれって」

 やっぱりそうだったのか、と参太は心の中で呟いた。あのたまゆらぐ一瞬のありさまが、こまかい部分まで鮮やかに思いだされる。おさんのからだにあらわれる異常な陶酔や、激しい呼吸や叫び声などが、そこにあるもののようにはっきりと感じられる。それをこの作次も味わったのだ、作次のその手や肌が、おさんの肌を愛撫(あいぶ)し抱き緊め、思うままにしたのである。そう考えながら、参太の気持には憎しみも嫉妬も起こらなかった。おさんも哀れであり作次も哀れだった。ことに作次は男同志だから、深く傷ついた心の耐えがたい苦痛、というものがよくわかり、できるなら手を握って慰めてやりたいという衝動さえ感じた。

「いつ、どうしてそんなことになったのか、おらあ知らなかった」作次は話し続けていた、「或る日おれが帰ってみると、おさんはいなかった、百日足らずのくらしで、着物も二三枚、帯も二本作ってあった、もちろんほかにもこまごました物があるのに、みんなそのままで、なに一つ持ち出してはいない、だがおれには、おさんが家出をしたなとすぐにわかった、仕事が板前だから、帰りのおそくなるのはふつうだが、その日は宵の八時まえだった、まっ暗な家の中へはいって、行燈(あんどん)に火を入れたとき、きちんと片づいた、人けのない部屋を見まわしたとたんに、ああ出ていったな、とおれは思った」

 そこまで話して、急に作次は参太のほうを見た。いま眼がさめた、といったような眼つきで、自分の持っている汁椀を見、また参太の顔を見た。

「おめえ誰だっけ」と作次は訊いた。

「おさんの兄だ」と参太が答えた、「おさんのいどころを捜しているって、さっき云ったじゃあねえか」

「そうか、――」作次は頭を垂れ、垂れた頭を左右に振った、「おさんなら山谷の棗店(なつめだな)にいるよ、男の名は岩吉、まむしという仇名(あだな)のある遊び人だ」

「どうして捜し当てた」

「忘れちまった」作次は汁椀の酒を飲んだが、酒は口の端からこぼれて、股引の膝を濡らした、「忘れちまったが、おさんのような女の肌を知った男なら、誰だってきっと捜し出さずにゃあおかねえだろう、現に、――そうよ、現に炭屋河岸の長屋へも男が捜しに来た、牛込のほうでおさんとくらしていた男がな、まるっきり白痴(こけ)みてえになってたが、それでもどこをどう手繰(たぐ)ったものか捜し当てて来た、おさんはそういう女なんだ」

「それであにいは、伴(つ)れて帰らなかったのか」

「ああ」と作次は眼をつむり、殆んど聞きとれないくらい低い声で云った、「おれを見たおさんの眼で諦めた、男が邪魔をしたら、叩っ殺してもおさんを伴れ戻すつもりだった、ふところに刃物を隠していったんだが、――おさんの眼は他人の眼だった、おれを忘れたんじゃあねえ、覚えてはいるが、まったく縁のねえものを見る眼つきだった、――いっしょになって三四十日経(た)ってから、ときどきそういう眼つきをすることがあった、おれの顔をじいっとみつめている、どこの人だろう、といったような眼つきで、そこにおれという人間のいることが腑(ふ)におちない、といったような眼つきだった、――山谷のうちでは、それよりもっとよそよそしい、あかの他人を見るような眼つきなんだ、薄情も情のうちと云うが、そんなものさえ感じられなかった、それでおれは帰って来ちまったんだ」

 参太は彼に酌をしてやり、それから静かな声で云った。

「大鋸町のうちへ帰るほうがいいな」

 作次はゆっくり参太を見た、「大鋸町がどうしたって」

「おかみさんや子供たちが待ってる、そっちのけりがついたんなら、いいかげんにうちへ帰るほうがいいと思うがな」

「死人(しびと)にうちがあるか」と作次は云った、「おれは死んじまった人間だ、ここにいるおれは」と彼は右手で自分の胸を掴んだ、「このおれは、死骸(しがい)も同然なんだ、それがおめえにわかるか」

「とにかく、大鋸町ではみんなが待っているぜ」

「おめえ、なんてえ名だ」ふっと作次の眼が光った、「さっき誰だとか云ったっけな」

「あいつの兄きだよ」

 作次は突き刺すような眼で、参太の顔を凝視(ぎょうし)してい、それから歯を見せて冷笑した。

「云うことは同じだな」と作次は歯のあいだから云った、「――何番めの男だ」

 参太は自分の盃に酒を注いだ。

「おめえはおさんの何番めの男だ」と作次がひそめた声で云った、「おい、聞えねえのか」

「聞いてるよ、酒がこぼれるぜ」

 作次は汁椀を見、ふるえる手でそれを持つと、七分がたはいっている酒を一と息に飲みほした。参太はしおどきだと思い、小僧を呼んで勘定を命じた。作次は口の中でなにか呟きながら、ふと立ちあがって、土間の奥のほうへふらふらと歩いていった。参太は勘定を済ませたうえ、作次がもっと飲みたがったら飲ませてやるようにと云って、幾らかの銭を渡した。

「あの人はどうせ朝まで動きませんがね」と小僧は云った、「でもこんな時刻になって、親方はうちへ帰れるんですか」

「銭が口をきくからな」と参太は云った、「あの男を頼むよ」

 参太は外へ出た。小網町までゆけば知っている船宿がある、そこで泊ってもよし、舟でまわって飯田屋へ帰ってもいいと思った。「吉兵衛」を出て、ほんの四五間歩いたとき、うしろから作次が追って来て呼びかけた。

「おいちょっと待ってくれ、話してえことがあるんだ」

 参太は立停って振向いた。作次は喘ぎながら近よって来た。すると、すぐ右手のほうで「おじちゃん危ねえ」と伊三の叫ぶ声がし、作次が参太におそいかかった。参太の眼にはその動作が、枯木でも倒れるようにぎごちなく、ひどく緩慢なものに見えたが、実際には非常にすばしこく、無意識にひょいと身を捻(ひね)るとたん、作次の手が参太の半纒(はんてん)を引き裂き、その肩が激しくぶち当って来た。参太はその力に打たれてよろめき、よろめいたまま横へとんだ。そのとき、作次の顔へ小石がばらばらと投げつけられ、「おじちゃん逃げなよ」と伊三の叫ぶのが聞えた。作次は左手で小石をよけながら右手をあげた。その手に出刃庖丁(でばぼうちょう)があるのを見、投げるつもりだと直感した参太は、すばやく身を跼(かが)めながら走りだした。いまか、いまかと、背中へ庖丁の突き刺さるのを予期しながら、雨戸を閉めた家並の暗い軒下づたいに、彼は夢中で走った。うしろで二度ばかり、作次の喚(わめ)き声がし、相当に距離ができたとわかったが、それでもなおけんめいに走り続けた。

「ばかなやつだ」と走りながら参太は呟いた、「なんて哀れなやつだろう」

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