12話 二の七
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その夜の十時すぎ、――参太は魚河岸の外れにある「吉兵衛」という居酒屋で飲んでいた。まえの年に、飲食店の時間にきびしい制限が布令だされ、もちろん裏はあるにはちがいないが、この魚河岸はまるで別格のようで、表もあけたまま、軒提灯も掛けたまま、客は遠慮のない高ごえで、笑ったりうたったり、囃したてたりしていた。
「どうするのさ」と脇に腰掛けている伊三が、囁き声で訊いた、「なにを待ってるんだい」
参太は左手でそっと、伊三の腕を押えた。伊三は黙った。
作次はまだしらふのようにみえた。伊三が半日がかりで訊きまわり、毎晩、必ずこの「吉兵衛」へあらわれて飲みつぶれる、ということをさぐり出したのだ。参太は八時ころにここへ来て酒を注文し、伊三はめしを喰べるととびだしていった。作次の来るのを見張るのだそうで、彼は自分の頼まれたことに、大きな責任と誇りを感じているようであった。参太はあまり飲めないほうだが、この賑やかな広い店の中では、舐めるような彼の飲みかたもそれほど眼立たず、ようやく二本めに口をつけたとき、伊三が戻って来て作次のあらわれたことを告げた。
「おれ外へ出てるよ」と伊三が云った、「こういうところはおれにはまずいんだ、みんな見やあがるからね、いいだろう」
参太は頷き、伊三は出ていった。
作次は壁際に並べた飯台の端に、独りはなれて腰を掛け、突出しの小皿を二つ前にしたまま、ゆっくりした手つきで飲んでいた。年は三十六七、膏けのぬけた灰色の顔に、眼と頬が落ち窪んでいた。古びた印半纒に股引、緒のゆるんだ草鞋を素足にはいていた。――この店には女けはなかった。十二三から四五くらいまでの小僧たちが六人、いせいのいい声で注文をとおしたり、すばしこく酒肴を運んだりしている。作次はいい客ではないらしく、見ていると、幾たびも呼ばなければ、小僧たちは近よらなかったし、注文を聞いてもあとまわしにされるようであった。
作次が燗徳利をさかさまに振り、酒をしたむのを見て、参太は立ちあがった。近くにいた小僧を呼んで、向うへ移りたいと云うと、小僧は首を振った。店の定めで知らない客同志が盃のやりとりをすることは断わると答えた。いや、あの男は知り合いなんだ、久し振で飲むんだから頼む、これは駄賃だと云って、幾らかの銭を握らせた。そして酒と肴の追加を命じ、作次の脇へいって声をかけた。
「そうだ」と答えて作次は眼をあげた、「おらあ作次だが、なにか用か」
「ちょっと訊きたいことがあるんだ」と参太は穏やかに云った。「飲みながらにしよう。ここへ掛けてもいいか」
作次は顎をしゃくった。参太は腰を掛け、小僧が参太の酒肴を持って来た。作次は無表情に、ぼんやりと前を見やっていたが、新しい酒が来、参太が酌をしてやると、飢えたもののように、四つ五つたて続けに飲んだ。それから初めて、いま飲んだ酒に気づいたというようすで、参太の顔を見て云った。
「おらあからっけつだぜ」
「たいしたことはないさ」と参太は酌をしてやりながら云った、「まずくなかったらやってくれ、ちっとは持ってるんだ」
「この店は夜明しやるんだ」
「そうだってな、おれは強くはないが、おめえのいいだけつきあうぜ」
「おめえの酌はへただな」と作次が云った、「徳利を置いてくれ、手酌でやるから」
「じゃあめいめいにしよう」
駄賃が効いたのか、小僧が肴を二品ずつに、酒を四本持って来た。それを見たとたん、作次の眼が活き活きと光を帯び、落ち窪んだ頬にも赤みがさすように感じられた。いいのか、親方、と作次が云った。これはたけえほうの酒だぜ。大丈夫だ、心配はかけないから飲むだけ飲んでくれ、と参太は答えた。こんなことは久し振だ、いや肴はいらない、このうちで食えるのは塩辛だけだ、この店の鰹の塩辛はちょっとしたものだが、この酒には合わない、肴はこの新香だけで充分だ。作次はそんなことを云いながら、香の物にも箸はつけず、いかにもうまそうに酒だけを飲み続けた。――訊きたいことがある、と参太が話しかけたことは忘れていたらしい。二合の燗徳利を四本あけるまで、参太にはわけのわからないことを、休みなしに独りで饒舌り、独りで合槌を打っていた。そして、五本めに口をつけたとき、初めて思いだしたように、盃を持った手で参太を指さした。
「おめえ、さっきなにか訊くことがあるって云ったようだな」
「たいした話じゃあねえ、おさんのことだ」と参太は云い、云ったことを打ち消すように酒をすすめた、「まあ一ついこう、たまに一度ぐらいは酌をさせてくれ」
「親方とどこで会ったっけ、柳橋か」
「親方はよしてくれ」と参太が云った、「としからいったっておめえのほうがあにきだ、作あにいと呼んでもいいか」
「としのことを云ってくれるな」作次は左手で頬杖を突き、顔を歪めた、「おさんか」と作次は遠い俤を追うような眼つきで呟いた。
「あんな女はこの世に二人とはいねえな。可愛いやつだった、頭のてっぺんから足の爪先まで、可愛さってものがぎっちり詰ってた、ほんとだぜ、この世でまたとあんな女に会えるもんじゃあねえ、一生に一度、おさんのような女に会ったら、それでもう死んでも思い残すことはねえと思う、ほんとだぜ」
作次の全感覚に、おさんの記憶がよみがえってくるのを、参太は認めた。一升ちかい酒の酔で感情も脆くなったのだろう、作次の落ち窪んだ眼から、突然、涙が頬を伝ってこぼれおちた。彼は初めておさんと会ったときのことを話した。雪の降る日、九段坂の途中で、おさんが足駄の鼻緒を切って困っていた。作次は自分の手拭を裂いて鼻緒をすげてやり、それから淡路町の鳥屋で、いっしょにめしを喰べた。時間にすれば半刻くらいだが、鳥屋を出たときには、二人はもう互いにのぼせあがっていた。
「あたしをあんたのものにして、と初めての晩おさんは云った」作次は頬杖を突いていた手で、ぎゅっと顎を掴んだ。「身も心も、残らずあんたのものにして、決してあたしをはなさないでちょうだいって、こっちの骨がきしむほど、手足でしがみつきながら云った」
作次は眼をつむった。参太は黙っていた。作次は自分の回想に全身で浸ってい、そこに参太が聞いていることなどは、まったく意識にないようにみえた。まわりの客は絶えず変っていた。腰を据えて飲んでいるのは二た組か三組で、ほかの客はあっさり飲んですぐに引きあげる、「さあ、なかへとばそう」とか「そろそろ川を越そうか」などと云う声も聞えた。入れ替って来る客もたいてい同じようで、遊びにゆく下拵えに飲む、というふうであった。
「おらあ女房子を捨てた、おさんもそれまでいっしょにくらしていた男を捨てた」と作次は続けていた、「おれがしんけんだったのは断わるまでもねえ、おさんもしんじつおれが好きなようだった、――だが、あのときになると、いざっという間際になると、おさんは夢中で男の名を呼びはじめる、おれの知らねえ男の名をだ、――それを聞くと、とたんにおれは、躯ぜんたいが凍っちまうように思った」
新しい酒が来た。参太が作次の前へ置いてやると、彼は汁椀を取って、中の物はすっかり土間へあけ、酒をその汁椀へ注いで呷った。
「男にとってこれほど痛えことがあるか、おらあかっとなって、叩き起こしておさんを責めた、悪党が」と作次は呻き声をあげ、左手で髪の毛を掴みしめた。「この悪党が、おさんを殴り、叩き倒し、足蹴にかけた、――可哀そうに、おさんはあやまるばかりだった、自分ではなにも知らない、そんな男の名は知らない、夢中でわけがわからなくなっただけだ、あんたのほかにみれんのある男などはいない、どうか堪忍してくれって」
やっぱりそうだったのか、と参太は心の中で呟いた。あのたまゆらぐ一瞬のありさまが、こまかい部分まで鮮やかに思いだされる。おさんのからだにあらわれる異常な陶酔や、激しい呼吸や叫び声などが、そこにあるもののようにはっきりと感じられる。それをこの作次も味わったのだ、作次のその手や肌が、おさんの肌を愛撫し抱き緊め、思うままにしたのである。そう考えながら、参太の気持には憎しみも嫉妬も起こらなかった。おさんも哀れであり作次も哀れだった。ことに作次は男同志だから、深く傷ついた心の耐えがたい苦痛、というものがよくわかり、できるなら手を握って慰めてやりたいという衝動さえ感じた。
「いつ、どうしてそんなことになったのか、おらあ知らなかった」作次は話し続けていた、「或る日おれが帰ってみると、おさんはいなかった、百日足らずのくらしで、着物も二三枚、帯も二本作ってあった、もちろんほかにもこまごました物があるのに、みんなそのままで、なに一つ持ち出してはいない、だがおれには、おさんが家出をしたなとすぐにわかった、仕事が板前だから、帰りのおそくなるのはふつうだが、その日は宵の八時まえだった、まっ暗な家の中へはいって、行燈に火を入れたとき、きちんと片づいた、人けのない部屋を見まわしたとたんに、ああ出ていったな、とおれは思った」
そこまで話して、急に作次は参太のほうを見た。いま眼がさめた、といったような眼つきで、自分の持っている汁椀を見、また参太の顔を見た。
「おめえ誰だっけ」と作次は訊いた。
「おさんの兄だ」と参太が答えた、「おさんのいどころを捜しているって、さっき云ったじゃあねえか」
「そうか、――」作次は頭を垂れ、垂れた頭を左右に振った、「おさんなら山谷の棗店にいるよ、男の名は岩吉、まむしという仇名のある遊び人だ」
「どうして捜し当てた」
「忘れちまった」作次は汁椀の酒を飲んだが、酒は口の端からこぼれて、股引の膝を濡らした、「忘れちまったが、おさんのような女の肌を知った男なら、誰だってきっと捜し出さずにゃあおかねえだろう、現に、――そうよ、現に炭屋河岸の長屋へも男が捜しに来た、牛込のほうでおさんとくらしていた男がな、まるっきり白痴みてえになってたが、それでもどこをどう手繰ったものか捜し当てて来た、おさんはそういう女なんだ」
「それであにいは、伴れて帰らなかったのか」
「ああ」と作次は眼をつむり、殆んど聞きとれないくらい低い声で云った、「おれを見たおさんの眼で諦めた、男が邪魔をしたら、叩っ殺してもおさんを伴れ戻すつもりだった、ふところに刃物を隠していったんだが、――おさんの眼は他人の眼だった、おれを忘れたんじゃあねえ、覚えてはいるが、まったく縁のねえものを見る眼つきだった、――いっしょになって三四十日経ってから、ときどきそういう眼つきをすることがあった、おれの顔をじいっとみつめている、どこの人だろう、といったような眼つきで、そこにおれという人間のいることが腑におちない、といったような眼つきだった、――山谷のうちでは、それよりもっとよそよそしい、あかの他人を見るような眼つきなんだ、薄情も情のうちと云うが、そんなものさえ感じられなかった、それでおれは帰って来ちまったんだ」
参太は彼に酌をしてやり、それから静かな声で云った。
「大鋸町のうちへ帰るほうがいいな」
作次はゆっくり参太を見た、「大鋸町がどうしたって」
「おかみさんや子供たちが待ってる、そっちのけりがついたんなら、いいかげんにうちへ帰るほうがいいと思うがな」
「死人にうちがあるか」と作次は云った、「おれは死んじまった人間だ、ここにいるおれは」と彼は右手で自分の胸を掴んだ、「このおれは、死骸も同然なんだ、それがおめえにわかるか」
「とにかく、大鋸町ではみんなが待っているぜ」
「おめえ、なんてえ名だ」ふっと作次の眼が光った、「さっき誰だとか云ったっけな」
「あいつの兄きだよ」
作次は突き刺すような眼で、参太の顔を凝視してい、それから歯を見せて冷笑した。
「云うことは同じだな」と作次は歯のあいだから云った、「――何番めの男だ」
参太は自分の盃に酒を注いだ。
「おめえはおさんの何番めの男だ」と作次がひそめた声で云った、「おい、聞えねえのか」
「聞いてるよ、酒がこぼれるぜ」
作次は汁椀を見、ふるえる手でそれを持つと、七分がたはいっている酒を一と息に飲みほした。参太はしおどきだと思い、小僧を呼んで勘定を命じた。作次は口の中でなにか呟きながら、ふと立ちあがって、土間の奥のほうへふらふらと歩いていった。参太は勘定を済ませたうえ、作次がもっと飲みたがったら飲ませてやるようにと云って、幾らかの銭を渡した。
「あの人はどうせ朝まで動きませんがね」と小僧は云った、「でもこんな時刻になって、親方はうちへ帰れるんですか」
「銭が口をきくからな」と参太は云った、「あの男を頼むよ」
参太は外へ出た。小網町までゆけば知っている船宿がある、そこで泊ってもよし、舟でまわって飯田屋へ帰ってもいいと思った。「吉兵衛」を出て、ほんの四五間歩いたとき、うしろから作次が追って来て呼びかけた。
「おいちょっと待ってくれ、話してえことがあるんだ」
参太は立停って振向いた。作次は喘ぎながら近よって来た。すると、すぐ右手のほうで「おじちゃん危ねえ」と伊三の叫ぶ声がし、作次が参太におそいかかった。参太の眼にはその動作が、枯木でも倒れるようにぎごちなく、ひどく緩慢なものに見えたが、実際には非常にすばしこく、無意識にひょいと身を捻るとたん、作次の手が参太の半纒を引き裂き、その肩が激しくぶち当って来た。参太はその力に打たれてよろめき、よろめいたまま横へとんだ。そのとき、作次の顔へ小石がばらばらと投げつけられ、「おじちゃん逃げなよ」と伊三の叫ぶのが聞えた。作次は左手で小石をよけながら右手をあげた。その手に出刃庖丁があるのを見、投げるつもりだと直感した参太は、すばやく身を跼めながら走りだした。いまか、いまかと、背中へ庖丁の突き刺さるのを予期しながら、雨戸を閉めた家並の暗い軒下づたいに、彼は夢中で走った。うしろで二度ばかり、作次の喚き声がし、相当に距離ができたとわかったが、それでもなおけんめいに走り続けた。
「ばかなやつだ」と走りながら参太は呟いた、「なんて哀れなやつだろう」