13話 二の八
読み方を変える
小網町の河岸にあるその船宿「船正」を出たのは、明くる日の九時ころであった。参太の知っていた女主人はおととし死んだそうで、おとよという娘が婿をとり、まえより繁昌しているようすだった。
「大茂を継ぐ人はいないんですか」朝めしのあと、裂けた半纒を繕いながらおとよがそう云った、「ひいきにしていただいたみなさん、どなたもおみえにならないんですよ、どうぞ参ちゃんだけはまたいらしってね」そこで慌てて口へ片手を当て、肩をすくめながら羞み笑いをした、「ごめんなさい、いい親方になったのに参ちゃんだなんて、つい小さいときの癖が出ちゃったんですよ」
「参ちゃんか、なつかしいな」と参太は微笑した、「長いことそう呼ばれたことはなかった、それを聞いて初めて、江戸へ帰ったという気持になったよ」
「まさか怒ったんじゃないでしょうね」
「参ちゃんか」と彼はまた云った、「おちついたらやって来るよ、親方なんてえ柄じゃあねえ、これからもずっとそう呼んでもらいたいな」
山谷へゆくと云ったら、おとよは舟にしろとすすめた。しかし参太はそれを断わって「船正」の店を出た。時刻が九時過ぎなので、道にはあまり人どおりがなかった。参太は両国橋のほうへ歩いてゆきながら、ときどきうしろへ振返った。伊三が出て来るかと思ったのであるが、伊三もあらわれないし、作次の姿も見えず、浜町の手前で戻り駕籠をひろい、そのまま山谷へ向った。
棗店は山谷町ではなく、ずっとはずれの、山谷浅草町にある長屋だった。そこから先は家がなく、茶色に実った稲田のあいだを、乾いた道が千住のほうまで続いてい、仕置場や、火葬寺の林などが眺められた。長屋は八棟あり、岩吉のいた家はすぐにわかったが、そこにはべつの者が住んでいた。その女房はなにも知らず、差配を教えてくれたので通りへ戻り、小さな荒物屋をやっている太助の店を訪ねた。――差配の太助も留守で、五十六七になる女房が袋貼りをしていた。岩吉のことを訊くと、女房はぎょっとしたようすで、袋貼りの手を休め、疑わしげに参太の顔を見まもった。
「あなたはどなたです」と女房は咎めるように訊き返した、「親類の方ですか」
「まあそんなところだが、――おさんというかみさんがいたでしょう」
「いましたよ、いいおかみさんでした、岩吉なんていう男にはもったいないくらいいいおかみさんでしたよ」
「二人で引越したんですか」
「引越しですって」女房は吃驚したような眼つきになった、「じゃあ、あんたはなにも知らないんですね」
女房の口ぶりに、参太は不吉なものを感じて、すぐには言葉が出なかった。
「おかみさんは殺されましたよ」と女房は云った、「ええ、岩吉のやつにね」
参太は唇を舐めた。
「殺された」と彼はねむそうな声で、ゆっくりと反問した、「おさんが、殺されたっていうんですか」
「七月中旬でしたかね、おかみさんが男をつくったとかなんとか、やきもちのあげくってことでした、匕首で五ところも刺されて外へ逃げだしたところを、追って出た岩吉のやつにまた刺されて、井戸のところで倒れたまんま死んだんです」
参太はするどく顔を歪め、右手を拳にして太腿のところへ押しつけた。
岩吉はすぐに自首して、いまは石川島の牢にいるらしい、やがて八丈へ送られるという噂である。おさんは身寄の者がわからないで、真慶寺の無縁墓へ葬った。――女房がそう話すのを、黙って頷きながら聞き終り、まもなく、参太はその家から出た。まったく思いがけないことでもあり、また、そんな結果になるだろうと、心のどこかで予想していたようにも思えた。
「結局、おさんは独りで厄を背負ったんだな」歩きながら彼は呟いた、「おれはこうして生きている、おれはいつも逃げた、おさんからも逃げたし、ゆうべは作次からも逃げた、――みんなは逃げなかった、おさんは殺されるまで自分から逃げなかったし、作次はあんな姿になるのもいとわなかった、そして岩吉はいま牢にいるというし、牛込のほうの男は白痴のようになってしまったそうだ」
参太は立停った。駕籠がゆき、馬に荷を積んだ馬子がゆき、浪人ふうの三人伴れが、彼を不審そうに見ながら通りすぎた。
「しんけい寺とかいったな」暫くしてそう呟き、その自分の声で参太はわれに返った、「――慥かしんけい寺と聞いたようだ」と彼は自分を慥かめるように、声を出して云った、「この近くだろうな、訊いてみよう」
真慶寺はそこから四五丁先にあった。そこは寺と寺にはさまれていて、あまりいい檀家がないのか、小さな黒い山門も片方へかしいでいたし、境内には雑草が伸び、墓地には石塔の倒れたままになっているのが眼立った。庫裡へ寄るつもりだったが、死んでから供養するのもそらぞらしいし、そんなことでおさんがうかばれもしまいと思い、そのまま墓地へはいっていった。――無縁墓は隅のほうにあった。土饅頭だけで墓標もなく、卒塔婆がざっと五六本立っていた。参太は墓を一とまわりしたが、ふと足もとの地面に、なにか眼を惹くものがあるようなので、注意して見ると、小さな花が咲いているのに気がついた。そして、それがひるがおの花だとわかったとき、彼はどきんと胸を突かれたように感じ、かなり長いあいだ、口をあいたままでぼんやりとその小さな花を見おろしていた。