おさん

14話 一の六

1,511字 約3分 2022年6月22日 公開

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 ありがとう、覚えていてくれたのね。おれは無縁墓の前にしゃがみ、摘み取ったひるがおの花を一輪、黒い土の上に置いた。あんたがその花で怒ったんじゃないってこと、いまのあたしにはわかるのよ、でもあんたはいっちまったわね。おれは合掌しようとしたが、できなかった。ただ頭をさげ、眼をつむって、勘弁してくれと心の中であやまった。あんたはいてくれなくっちゃいけなかったのよ、あたしそう云ったでしょ、あんたに捨てられたらめちゃくちゃになっちまうって、あたし泣いてあんたに頼んだ筈よ。覚えてるよ、しかしおれはおまえを捨てたんじゃあない、きっと帰って来ると約束したし、帰って来るつもりだったんだ。あんたはあたしを放しちゃあいけなかったのよ、あたしのからだの癖を知っていたでしょ、あんたはあたしがこういうからだに生れついたことを、仕合せなんだって云ったわね、こういうからだに生んでくれた親たちを、有難(ありがた)いと思わなければならないって、そうでしょう。そうだ、おれはそのとおりのことを云った。けれどもよく考えてみればそうではない、そういうからだ癖は却って不幸の元になった。おさん自身でもどうにもならないそのからだが、おさんをほろぼすほうへ押しやったのだ。あんたがいてくれれば、こんなことにはならなかったのよ。いや、それはわからない、しんじつおれはがまんができなかったんだ。あんたがよ、あんたはがまんができなかった、なぜがまんができなかったのか、あたしにはわからなかったわ、なぜわけを云ってくれなかったの、はっきり云ってくれれば、あの癖を直すことだってできたかもしれないじゃないの、どうして云ってくれなかったの、どうして。おれには答えようがない、ことがことだけに、どうにも口には出せなかった、一年か二年はなれていれば、どうにかおさまるんじゃないかと思ったんだ。あたし辛(つら)かったわ。うん、よくわかるよ。わかるもんですか、あんたはそのとおり丈夫で生きている、これから好きな人をおかみさんに持って、親方とか棟梁(とうりょう)とか云われるようになるんでしょ、あたしがあんたを忘れようと思って、男から男をわたり歩き、それでもあんたのことが忘れられないで、また次の男にすがってみてもだめ、自分もめちゃめちゃになるし、相手の男たちもみんなだめにしてしまったのよ、この辛さ苦しさがあんたにわかってたまるものですか。そうだ、そのとおりかもしれない、勘弁してくれ。おれはようやくおさんと会っているような気持になれた。生きていたおさんよりも、もっとおさんらしいおさんと会っているように。するとおさんはやさしくなった。あたし、あんたを怨んではいないわ、あんたといっしょになったとき、これでもう死んでもいいと云ったでしょ、あたしあんたのおかみさんになって、一年たらずだったけれど夫婦ぐらしをしたんですもの、それで本望だったし、そのあとのあたしはもうこのあたしじゃあなかったのよ、死んだからもういいだろうけれど、生きていたらあんたには会えなかったわ、江戸へ帰って来ても捜さないでちょうだいって、いつか手紙をあげたわね、生きていたとすれば、たとえあんたがどう云おうと、あたしは決して会わなかったわ。おれはそうはさせないつもりだった、むりにでもおまえを引取って、もういちど二人でやり直す気でいたんだ。いいえだめ、このほうがいいの、あたしはこうなるように生れついていたのよ、二十三で死んだけれど、人の三倍も生きたような気がするの、たのしさも、苦しさも辛さもよ、おまいりに来てくれてありがとう、うれしかったわ。おれはもっと頭をさげ、堪忍してくれ、と声に出して云った。おさんはもうなにも云わないようであった。

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