20話 世紀の怪物
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事件の翌日の午後おそく、望月憲兵少佐が新一の病室を見舞った。時限爆弾騒ぎの報告を受けて、調査のために東京から駈けつけたのである。
バラック建ての簡素な病室、木製寝台の上に、頭から顎にかけてグルグルと繃帯を巻いた新一青年が横たわり、その枕元には南京子が看護婦に代って附き添っていた。
「そのまま、そのまま。ひどい目に会いましたね」
起き上ろうとする新一を、手真似で止めながら、背広姿の望月少佐は、京子の直す椅子に腰をおろした。
「ナアニ、大したことはないのです。ホンのかすり傷ですよ。医者が今日一日は寝ている方がいいというものですから、こうしているのですが、本当に何でもないのです。しかし残念なことをしました。相手を組み伏せたのですがね。奴が何時の間にかジャックナイフをひろげて、逆手に持っていたのを気づかなかったのです」
新一は元気に喋べった。
「どこをやられたのです」
「右の眉の上です。三針ほど縫ったばかりですよ」
「そうですか。それぐらいで済んだのは仕合せでした。今工場長と技師長に会って、昨日のことは一通り聞いたのですが、曲者はいつか××温泉村の山の洞穴に隠れていた奴と同一人だというじゃありませんか」
「そうです。確かにあいつでした。けだもののような大男です。今度も又逃げられてしまいました。実に申訳ないと思っています」
新一は目を伏せて、さも口惜しそうに声を低めた。
「イヤ、申訳ないどころか、大手柄ですよ。工場の爆破を未然に防いだのですからね。工場では君と京子さんに非常な感謝をしておる。工場ばかりではない。国としてもあなた方に感謝しなければなりません。この新鋭工場が暫くでも機能を停止すれば、戦局に重大な影響を及ぼすわけですからね」
「それはそうかも知れませんが、相手はいつ又攻撃を加えて来るかも知れません。禍の根元を絶つことが出来なかったのを、実に残念に思うのです。韮崎が不思議な自殺をとげた今、この曲者を取逃がしてしまっては、我々の手には何一つ残らなくなるのですからね。僕としては父の仇を討つ見込みが一応絶えてしまったわけですからね」
「イヤ、そのことについては……君のお父さんの仇を討つということについては、わたしも一半の責任を持っている。お父さんが亡くなられて以来、わたしは随分苦労をした。そして、事件の真相に向かって、歩一歩研究を進めているつもりです。何も握っていないのではない。握っているものが余りに大きく、余りに奇怪なので、それに圧倒せられ、持て余しているぐらいです。韮崎だとか今度の男などは物の影に過ぎない。そういう影を写すところの本体が別にあるのです。信じ難い程の巨大なる実在が、それらの影の奥に在るのです」
望月少佐は謎のような異様な物の云い方をした。それを聞くと繃帯に包まれた新一の顔にほのかな赤味がさした。
「おっしゃる意味が僕にはよく分りませんが、あなたは何か重大な事実を握っておいでになるのですね。間諜団の組織とか、その首領とかについて、何か発見なさっているのですね」
新一ばかりでなく、枕元に附き添う京子も目を光らせ、緊張した面持で望月少佐を見つめるのであった。
「そうです。推理の環をその真相に向かって、だんだん狭く絞っているのです。そして、そこに現われて来る事実に驚倒しているのです。決して形容ではありません。本当に心の底から驚いているのです。
これは、単純な探偵というような仕事ではない。歴史の研究です。わたしの研究は今嘉永の昔に遡っている。アメリカ東印度艦隊司令長官ペルリが四隻の軍艦を率いて浦賀に来航した当時に遡っている。この事件の裏にはそういう歴史的秘密が隠れているのです。そこに驚くべき悪魔の陰謀があるのです」
少佐の言葉はいよいよ奇怪であった。しかも彼はそこでプッツリ言葉を切って、じっと聴き手の顔を眺めた。新一の方でも少佐の顔を穴のあくほど見つめていた。二人とも物を云わなかった。たっぷり一分間、そうして睨み合っていた。やがて少佐が沈黙を破った。
「怪物だ。韮崎という男も、今度の曲者も怪物に相違いないが、その奥に隠れている奴は、百倍も恐ろしい怪物だ。世紀の怪物。そうだ、百年に一度やっと現われるか現われない程の、驚くべき怪物だ」
少佐はそう云って、又プッツリと黙り込んでしまった。新一も京子も少佐を見つめたまま、金縛りにあったように身動きもしなかった。夕暮迫る灰色の窓の外に、何かしらえたいの知れぬ巨大な幻影が漂い蠢くかに感じられた。
「世紀の怪物か。そうですね、望月さん、こいつは世紀の怪物ですね」
長い沈黙のあとで、新一は何か朗詠でもするような口調で云った。
「望月さん、僕はこいつに復讐しなければなりません。それを誓います。もう一度ここでそれを誓います」
繃帯の中に見える頬が恐ろしく青ざめ、目は赤く血走っていた。新一はそのまま又長い間天井を見つめて黙っていたが、やがて何か非常に重大な事柄に気づいた様子で、突然、寝台から起き上りそうにした。
「望月さん、僕は今妙なことを思い出しました。妙なことです。あの時は怪我をして、血が目に流れ込んで、何も見えなかったように考えていたのですが、今、そうでなかったことが分りました。僕は見ていたのです。あいつが逃げて行く後姿を、この目の隅で見ていたのです」
「ウン、それで……」
望月少佐は深い興味をもって、とりつかれたように口走る新一の顔を眺めた。
「奴は逃げてはならない方角へ逃げたのです。袋小路へ逃げたのです。その方角には建物が建ち並び、その中に無数の人の目があったのです。その人の目をくらますことは全く不可能です。では、奴は元に戻って別の道を取ったか。イヤ、戻らなかった。僕は失われて行く意識の隅で、非常に不思議な感じがしていたのです。
奴はそこを突破することは出来なかった。又戻りもしなかった。つまり奴はそこで消えてしまったのです。おかしい。人間が気体となって蒸発した筈はない」
新一は独言のように語尾を弱めて、しきりに考えはじめた。難解な謎を解こうとする人のように、目を空ろにして、心の中を見つめるように、呻吟していたが、暫くすると、彼の両眼が火花のように輝いた。
「アッ、そうかも知れんぞ。京子さん、急いで技師長さんを呼んでくれませんか。僕は妙なことを思いついたのです。それを確めて見たいのです」
京子は不安らしく新一の顔を眺め、その目を望月少佐に移して、少佐の意嚮を確めようとした。新一の突飛な言動を、発熱による譫言ではないかと疑ったのである。少佐は幽かに肯いて、新一の言うままにする方がよいという意味を示したので、京子は直ちに病室を出て行った。
「感心な娘さんですね」
望月少佐が京子の後姿を見送って、意味ありげな微笑を浮べた。
「そうです。感心というだけでは足りません」
新一はこういう機会を待ち兼ねていたかのように、一種異様の情熱をこめて云うのであった。
「あの人の神々しい純情を見ていると、僕は怖くなります。後光に射すくめられるような気がするのです。そして、妙ですね、僕はこの僕の右腕を鉈か何かで斬り落してしまいたいような衝動を感じるのですよ」
新一はギリギリと歯ぎしりを噛んで、烈しい息遣いでそんなことを云ったかと思うと、その次には、何がおかしいのか、ゲラゲラと笑い出した。
「ハハハハハハハ、この腕を、鉈でもって、ハハハハハハハ」
望月少佐は別に驚いた様子もなく、微笑を含んで、じっと新一の顔を見ていた。そして、二人の間に妙に融和しない気拙い空気が漂いはじめた時、ドアが開いて遠藤技師長が入って来た。カーキ色の仕事服を着た、黒い短い口髭のある四十五六歳の好男子である。
「遠藤さん、曲者はあの時第二工場と第三工場の間へ逃げ込んだのです。あすこには今でも見張りが立っているのでしょうね」
新一は何の前置きもなく、性急に訊ねた。
「見張り。アア、見張りはずっと立ててあります。あの辺は一番危い場所ですからね」
技師長は望月少佐に目礼して、面喰ったように答えた。
「すると、曲者は逃げ出す機会を失ったかも知れない。遠藤さん、見張員から何も報告はなかったのでしょうね。怪しい奴を見つけたというような」
「そういうことはなかったようです。今もそこを通りかかって、見張りの者と話をして来たのですが。昨夜から何の異状もないということでした」
「そうですか。それじゃ行って見る値打ちがありそうです。望月さん、無駄足を踏むつもりで御同行下さいませんか。僕は何だか曲者がまだそこにいるような気がするのです」
新一は又しても意表外のことを口走り、もう寝台の上に起き直っていた。そして、京子が止めるのも聞かず、ノコノコと部屋の隅に行って靴を穿いてしまった。
一同はこの負傷者の物にとりつかれたような所業に圧倒された形で、茫然と眺めていた。
「望月さん、さア行って見ましょう。懐中電燈はここにあります」
そこの椅子の上に置いてあった国民服の上衣を着て、ポケットから筒型懐中電燈を取り出して見せるのであった。
望月少佐は絶えず微笑を含んで、新一青年の唐突な所業を見守っていたが、彼が病室を飛び出して行くのを見ると、別にそれを止めるでもなく、大股に彼のあとを追って行った。