26話 月光の妖術
読み方を変える
京子は燦々と降り注ぐ月光の中に、はっきりとそれを見たのであった。五十嵐老博士は窓から半身を乗り出して救いを求めていた。その時何者かが博士を室内に引き込み、博士は苦悶の叫びを上げて倒れて行った。それをはっきり見たのである。しかもその時、五十嵐新一青年は彼女と肩を並べて月光の庭に佇んでいたのだ。その新一がどうして博士を殺し得たであろう。物理的に不可能なことではないか。京子はあくまで抗弁した。彼女の健全な常識がかかる非論理を承認し兼ねたのである。
しかし望月憲兵少佐は、確信に満ちた静かな声で説明をはじめた。地下室の冷たい空気に滲み通るようなその低い声が、徐々に京子の魂を圧倒して行くように見えた。
「それは月の光があなたの目を眩ましたのです。月光の妖術とでもいいますか、犯人の巧緻を極めた手品にすぎなかったのです。
わたしは数学の計算によって、あてはまらないものを一つ一つ取除き、そのあとに残ったただ一つのものを、表から裏から側面から吟味したのです。そしてこうでなくてはならないという最終の論理を組立てたのです。
発いて見れば何でもない事です。一つの幻術『目くらまし』に過ぎないのです。しかしこれを考えついた犯人の惨憺たる苦心と執念には、何か人をゾッとさせるものがあります。
犯人は何十日という間、夜も昼もこの事ばかり考えていたに違いない。そして一つの不可能を造りあげた。被害者が月光の窓で救いを求める。そのとき犯人はそこから十間も二十間も離れた場所にいて、犯罪の現場に駈けつける。一人ではない、多数の人と一緒にです。駈けつけると、被害者はすでに傷つけられ瀕死の状態に陥っていた。犯人が被害者に手をかける隙は少しもなかった。完全無欠のアリバイですね」
「そうです。完全無欠のアリバイです。それがどうしてそうでないとおっしゃるのでしょうか」
京子は青ざめた顔を固くして、最後の抵抗を試みた。もう無駄だということは彼女にもほとんど分っていたが、何かしら非常な焦躁にかられて、黙っているわけには行かなかったのである。少佐は静かにつづける。
「それが犯人の考え出した巧みな目くらましだからです。犯罪はあのときに行われたのではない。もっと以前、あなたと新一君とが月光の庭で出会うよりも前に、犯罪はすでに行われ、博士は傷つけられていたのです」
「でも、あんなひどい傷を負わされた博士が、どうして窓から救いを求めることができたのでしょう。それは不可能です。そんなことは考えられません。それに……」京子はギョッとしたように目を瞠った。「もしあなたのおっしゃる通りだとしますと、あの時、博士は自分を傷つけた犯人に向かって、救いをお求めになったことになるではありませんか」
「そう、一応そういう事になる。そこに犯人の恐るべき幻術があったのです。京子さん、あなたは月の光にまどわされたのですよ。若し昼間だったら、この幻術は到底成功しなかった。淡い月光の中だったからこそ、あなたの目をあざむくことが出来たのです。あの時窓から半身を乗り出して救いを求めたのは、本当の五十嵐博士ではなかった。博士はすでに意識を失って部屋の中に倒れていたのです」
「でも、でも、あれは確かに……」
京子の声はまったく生彩を失っていた。独言のような呟きにすぎなかった。
「京子さん、月光の中で博士の身代りをつとめた人物は一体何者だと思いますか。意外な人です。しかしよく考えて見れば、その人の外にこの役目を果し得る人物はいなかったのです。……それはね、五十嵐博士夫人です。新一君のお母さんだったのですよ」
彫像のように身動きもしなかった新一青年がこの時カタンと音をさせて膝を組み直した。
京子はもう黙っていた。一切が彼女にも分りかけて来たのである。
「新一君のお母さんは日本人の顔を持った生粋のアメリカ人であった。祖父ブウリーと父新太郎の血を受けついだ生得のスパイであった。無論お母さんは五十嵐博士に再婚する時、今日あるを予知していたわけではない。お母さんにして見れば、新一君を立派なスパイに仕上げてゆくのに邪魔にならないような、家事にうとい学者肌の夫を選ぶ必要があった。五十嵐博士はそういう意味では理想的の人物だったのです。お母さんは、日夜飛行機の研究に没頭している博士の傍らで、まったく別個の生活をいとなんでいた。新一君を生粋のアメリカ人に、日本侵略の隠密の先駆者に育て上げるために、情熱と精根とを傾けていたのです。
しかるに偶然にも夫五十嵐博士はアメリカに取ってもっとも恐るべき武器の発明者となり、その発明が今にも完成するという危険に際会した。だがお母さんは決して惑わず、永年連れ添う夫を祖国の犠牲に捧げる決意をしたのです。
こうして犯罪史上に前例のない恐ろしい罪が企てられた。お母さんと新一君とは、その罪の遂行のために知嚢を絞り、夜となく昼となく密議をこらした。そしてこの驚くべき幻術が構成せられたのです。幻術は二つの大きな要素から成り立っていた。一つは世間が五十嵐博士と新一君とを真の親子と信じ何らの疑いをもっていないという屈強の要素であった。これこそ君達の幻術の基底をなすところの比類のない条件であった。しかしそれだけではまだ不十分だ。この陰謀にはもっと磨きがかけられなければならなかった。そこで第二の要素として完全無欠のアリバイが考案せられた。犯罪が行われた時、当の犯人の新一君が被害者から数十間離れた場所にいるという手品が考え出された。
事実は、五十嵐博士とソックリの姿をした人物が窓から救いを求めた時に犯罪が行われたのではない。そのとき本当の五十嵐博士はすでに傷つき倒れていたのだ。その下手人はいうまでもなく新一君である。君はあのとき博士が死んだものと誤解した。目的を果したと信じてしまった。そこで計画の通り大急ぎで庭に出て、そこに立っていた京子さんに声をかけた。むろん京子さんがそのとき庭に出ていなかったら、そして月があのように冴えていなかったら、この兇行は延期されたに違いない。庭から博士の寝室の窓がよく見えることと、庭に誰かがいることとが、絶対の条件だったからです。
それは必ずしも京子さんでなくてもよかったが、偶然にも最も都合のよい京子さんが庭に出ていた。そこで五十嵐博士夫人は京子さんに見せるために、あのお芝居を演じたのです。あらかじめ用意してあった鬘とつけ髯、博士のと同じ柄のパジャマ、博士の声を真似た嗄れた叫び声、月光がこれを助けたのです。わたしが月光の妖術といったのは、この事です。太陽の光でなくて月の光でなければならなかったのです。
真の犯罪は月光の中のお芝居よりも十数分前に行われていたことを誰も知らなかった。お芝居の演じられたときに兇行があったものと信じた。そのとき新一君が犯罪現場にいなかったことは明瞭である。完全無欠のアリバイです。第一に新一君は博士の子であるということ、第二に新一君は兇行の現場にいなかったこと、一点の隙もない論理です。実に恐ろしい幻術です。
博士夫人はお芝居を演じ終ると、鬘、つけ髯、パジャマをどこかへ隠し、自ら猿轡をはめ、自分のからだにグルグルと紐をまきつけて、洋服箪笥の中に入り、内側から戸を閉めたのです。鍵は夫人がかけたのではない。新一君があとであの部屋に入ったときにかけたのです。鍵がないないと探し廻って見せたが、その実、鍵はちゃんと新一君のポケットに入っていたのです。また、夫人は自分のからだに紐をまくことは出来たけれども、その端を結ぶことは出来なかった。この欠点は、紐を解く役割を新一君が勤める事によって完全に補い得た。つまりその紐の端は一度も結ばれなかったのです。新一君はその結ばれていない紐を解いて見せた。解く真似をしたに過ぎないのです。こうして博士夫人にも完全な反証が用意されていた。第一の反証はいうまでもなく、君のお母さんが五十嵐博士の妻であったという有力無比の事実だ。第二の反証は犯人のために縛られて洋服箪笥にとじこめられていたという欺瞞だ。実に深くも企らんだものだね」
望月少佐はそこで言葉を切って、新一の顔をじっと見ていたが、相手が黙り込んでいるので、答を促すためにつけ加えた。
「新一君、君の意見が聴きたいものだね。わたしの推論にどこか間違った個所があったかね」
新一はやっと顔を上げた。恐ろしいほど青ざめて、ビッショリと汗の玉が浮いている。
「望月さん、適確な推論です。あなたのお話には一点の間違いもありません」
新一は低い嗄れた声で始めた。
「実を申しますと、僕はあなたがこの事件の真相を発いて下さるのを待っていたのです。いつか大和航空機製作所に時限爆弾を仕掛けた男と取組み合って傷ついた時、あれも態と自分の手で傷をつけたのですが、あの時あなたが見舞に来て下さって、ペリー来航以来の歴史を研究しているとおっしゃったので、あなたが既に真相を掴んでおられることを知りました。僕はあの時からもう覚悟をしていたのです。
しかし僕の心持を一変させたのは、望月さんあなたではありません。もっと強い動機がほかにあったのです。それはここにいる南京子さんです。こういうことを打ちあけるのは、京子さんにも今がはじめてですが、僕を日本人にしてくれたのは京子さんです。僕は望月さんのおっしゃった通り、日本人の顔を持ったアメリカ人でした。祖国アメリカのために命がけで働いたのです。それが正しいと信じていたのです。
ところが、父の死後間もなく、××温泉の山中で京子さんが滝にうたれて一心にお祈りをしている姿を見た時から、僕の心に非常な動揺が起ったのです。京子さん覚えていますか、僕があの時涙を流してあなたに約束したことを。僕がどんな感じでいるか、あなたには到底分らない。しかし何時か詳しくお話しする時が来る。きっとその時が来ると云ったことを。その時が今来たのです。
その後も京子さんが日本人として日本のお国を思う心や行いが、ひしひしと僕の心を打ちつづけたのです。殊に母の入院している病院がアメリカの飛行機に爆撃された時、京子さんの殉教者のような神々しい姿を見て、僕は魂の底から揺ぶられました。
京子さんは日本人なのに、僕はどうしてアメリカ人でなければならないのか。僕のからだには無論アメリカ人の血が漲っているが、純粋のアメリカ人からは四代目の曾孫にすぎない。正確にいえば僕の体内にはアメリカ人の血は八分の一しか残っていない。八分の七までが日本人の血ではないか。その僕がどうして京子さんと同じ日本人であってはならないのか。僕は京子さんの神々しい姿を見ているうちに、そこへ気がついて、愕然として夢から醒めたのです。
母は間接ではありますが、アメリカ機の爆撃によって死にました。神を恐れぬアメリカ機は病院と知りながら爆弾を落したのです。そしてその病院にアメリカにすべてを捧げた一女性がいたのです。アメリカの無謀な盲爆がアメリカの恩人を殺したのです。母は今わの際に僕だけに囁きました。もう私はアメリカ人ではない。アメリカへの忠誠はこれで終った。お前は今日から日本人になりなさいと囁いたのです。
僕の苦悶をお察し下さい。それのみを生甲斐としていたものが、今は生甲斐とするに足らないことが分ったのです。しかも僕は悪夢のような信念のために、取り返しのつかぬ大罪を犯してしまったのです。真実の父でないとはいえ、育ての父を手にかけるという極悪非道の罪を犯したのです。京子さん、僕があの時、母が息を引取ったすぐあとで、コンクリートの塊りで自分の指を打ちくだいたことを記憶しているでしょう。あなたは気でも狂ったのかとびっくりしていましたね。だが、僕は指一本無くしたぐらいでは到底癒すことの出来ない心の痛手にうちひしがれていたのです。
結局、僕は日本人に立帰る外はなかったのです。その外に道が無かったのです。日本人になるということが僕にとって何を意味するか、お分りですか。若し僕がアメリカ人でないとしたら、僕が今までやって来たことは、すべて極悪非道の大罪です。何度死んでも足らないくらいです。しかし、僕の命は一つしかありません。せめてもの罪亡ぼしに、僕の知っている限りのアメリカのスパイ共を一網打尽した上で、自決するという決心をしました。そして今こそ、その時が来たのです」
望月少佐はそれを止めようとはしなかった。京子は茫然自失していた。新一は何のさまたげもなく、用意の丸薬を飲み下すことができた。