名詩集「思ひ出」の真価

2話 2

1,430字 約3分 2022年1月25日 公開

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 北原白秋氏は過去に四册の詩集を出版してゐる。即ち「邪宗門」「思ひ出」「東京景物詩」「白金の獨樂」であるが、この中、最後の「白金の獨樂」は、作者自ら言ふ如く一日一夜の急作であつて、いかにインスピレーシヨンの激潮に乘つたとはいへ、藝術として重厚のものとは思へない。世評の一致する如く、この詩集は他に比して劣つてゐる。他の

◇三詩集「邪宗門」「思ひ出」「東京景物詩」は、何れも後世に傳ふべき名詩集であるが、就中その最も圓熟せるは「思ひ出」である。

 詩集「思ひ出」は、或る意味に於て、實に白秋氏の出世作であつた。この詩集世に出づるや、當時の

◇文壇は文字通り驚嘆した。(當時の文壇は、今日の如く小説本位でなく、詩歌と散文が竝びに權勢してゐた。今日では、たとへ「思ひ出」のやうな名詩集が現はれても、文壇は全く之れを顧みず、ただ狹い詩壇だけの評判となるにすぎない。この意味で白秋氏は運の好い詩人である。)當時文壇の名家等は、口を極めて「思ひ出」を激賞した。特に

◇思潮界の大權威者であり、且つ詩壇評論のオーソリチイであつた上田敏博士が、これに最大級の讚辭をあたへたことは、一躍して白秋氏を文壇の巨星にし、名詩集の定評を不動にした。

 しかし今から考へるに、當時の一般文壇は、むしろ「名詩集」の美名に醉つて、實には深くその内容を知らなかつた如く思はれる。

◇上田敏先生すら、單に序文を激賞して、内容の詩篇に言を及ぼさなかつた。況んやその他の人々が、果してどれだけ實質を理解したかは疑問である。思ふにこの詩集が、當時の人氣に投じた由緒は、一にはその小唄風の詩曲が、通俗にも解り易く、一般の新しき興味をひいた點にあるだらう。現に今日でも、しばしば詩集「思ひ出」の名が、通俗小唄集の如く思惟されてゐる。そして現に尚さかんに賣れつつあるこの詩集の讀者は、概ね通俗な小唄の味を、これから求めようとしてゐるのである。

◇藝術に於る通俗性の是非については、ここに論ずべき範圍でないから、只次のことを言ふに止めておく。即ち「すべての優秀なる藝術は、必しも通俗的でない。しかし通俗的なるすべてのものが必しも低級を意味しない。」換言すれば「ある藝術品は、高級であつて且つ非民衆的である。又ある藝術品は、

◇高級品であつて然も民衆的である。」そこで「思ひ出」は、大體として勿論後者に屬してゐる。たしかにそれは小唄的通俗性を有してゐる。しかもそのことは、何等詩集の價値に關係しない。「思ひ出」が、もつと徹底的に通俗性を有してゐても、依然としてそれは優秀な藝術である。

 しかしながら「思ひ出」の實の眞價は決してそこにのみ有るのではない。吾人の世間に對する不平は

◇彼等の輿論が、稍もすればその通俗の一面性(小唄氣分)のみを認めて、より重要なる詩集の核心的價値を忘却してゐることにある。いかに久しい間、吾人は名詩集「思ひ出」の名を聞いてゐることぞ! しかもいかに久しい間、一もそれの正しい批評を聞き得なかつたか? 今や漸く、我々の時代の詩壇が、これの正當な評價を試むべき時期ではないか。

◇名詩集「思ひ出」を讀む人は最近の詩壇が發展してゐる一切の詩操の源泉が、そこに嚴として内在してゐる事を知るであらう。即ち最近の詩壇は、一の「思ひ出」の種から生長して自然に枝葉を擴げたものに外ならぬ。併しこの事は、一々説明する必要がない。實に「思ひ出」の驚くべきはその至る所の頁をあけても芳烈無比な詩的靈魂が高調されてゐる事である。

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