3話 高村光太郎(1)
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高村光太郎の伝記を書くことは、私にとって不倖な執筆の時間を続けることで、なかなかペンはすすまない、高村自身にとっても私のような男に身辺のことを書かれることは、相当不愉快なことであろう。私にとってはほとんど生涯の詩の好敵手であったし、かれは何時も一歩ずつ先に歩いていたこと、詩のうえの仕事の刻み方のこまかさ、用心ぶかさに至っては、私のまなぶべきことを、先に心に置いていた点でも、私は高村にかなわないものを感じていた。年少なかれが早くも当時の立派な雑誌『スバル』の毎号の執筆者であることは、私の嫉みのもとであった。私がどれほど詩の原稿をたくわえていても、『スバル』に掲載されるということは絶対にありえない、だが光太郎はいつでも華やかにしかも何気ないふうで登場していたのだ。私はほとんど詩を発表する雑誌を持たなかったし、たとえ掲載されても『スバル』のような立派な雑誌ではない、つまり私は毎号『スバル』の美しい印刷詩を間に置いて、高村光太郎という名前に絶えず脅かされていたのである。詩の青書生であった私にとって詩の発表機関が『スバル』である高村光太郎をしゃくにさわらずにいられなかったのである。本屋で立ち読みする無心の私は、そこから去るときは蒼褪め悲しみ嫉み怒りをおぼえていた。その不倖は私の東京彷徨のあいだじゅう、青春の何年間も続いていた。誰でも文学をまなぶほどの人間は、何時も先きに出た奴の印刷に脅かされる。いちど詩とか小説で名前が印刷されるということは傍若無人な暴力となって、まだ印刷されたことのない不倖な人間を怯えさせ、おこりを病むようにがたがた震えを起させるものである。
光太郎の死去の月に私はある雑誌から、小説「高村光太郎」を書くように頼まれたが、私はあの人のことを書くことはあの人の潔癖をいじくり廻すことになり、私は私で不倖な年がいもない小説をかくようになるからと言って引き退った。あの人のことを小説に書いたら、碌なことを書かないだろうという予測があった。私としては前例のない謙虚の気分で、巨星墜つという感じで敵手の死を小説にまで書く気はなかった。
光太郎の生前にも私は機会があるたびに、光太郎を褒めても半分は肉迫し何かをくさしていた。たとえば、芸術院会員にすいせんされても、きっと断るだろう、という私の見方に誤りはなく、かれはそれを断った。文学者とか詩人とかいうものはあるだけの有名と名誉を掻っさらって、この世界でいつも最高の地位をその作品の名において、ふん掴まえるものだ、当人がいやだと言っても、いいものを書けば何時の間にかある地位までは上昇する、秀眉な作品がそうさせるのだ、地位とか有名がいやだったら書かないでいた方がいいだろう、私はつねにこんな意見を抱いていた。いまから二十年前『中央公論』が時の有為の詩人の作品をあつめるため、私に指名をもとめた時に先ず高村光太郎をすいせんした。しかし光太郎は『中央公論』のような大雑誌には詩は掲せたくないと言って断った。そして、かれは名もない同人雑誌から頼まれた詩はこくめいに書いて、同人費に該当する金を為替に組んで送りとどけていた。かれはそんな事に純潔を感じ喜びをおぼえ、さっぱりしたいい気分を感じていたのだ。かれが、水野葉舟の編集していた銀行か何かの宣伝雑誌に、葉舟と親友であるためによく詩を書いて発表していたのは、いささかトンチンカンなものであったが、かれは大雑誌を断ってもこの薄っぺらな雑誌に詩を書いて平然とし、かえってこれを徳としていたくらいである。この葉舟の雑誌は詩にいくらかの原稿料も支払っていて、私も市井彷徨の折、葉舟を訪ね原稿料を貰ったことがあった。
当時『感情』という三十二頁の詩の雑誌を出していた私は、光太郎にも詩をたのんで書いて貰った。光太郎は駒込のアトリエから田端まで歩いて、私が折あしく不在だった机の上に、その原稿を置いて帰った。光太郎は自分の原稿はたいがい自分で持参して、名もない雑誌をつくる人の家に徒歩でとどけていた。紺の絣の筒袖姿にハカマをはいて、長身に風を切って、かれ自身の詩を演出する勇ましいすがたであった。かれはやはりそこに純情をおぼえ、ひまのある人間がひまを有為につかう心得を知っていた。
かれは日本の詩というものでは、昇れるだけ昇りつづけた男であった。一度も後退したことはない、高村光太郎という透明無類の風船は、「泥七宝」の短章から「暗愚小伝」にいたるまで、拍手喝采の間に天上に到達したのである。
晩餐
暴風をくらつた土砂ぶりの中を
ぬれ鼠になつて
買つた米が一升
二十四銭五厘だ
くさやの干ものを五枚
沢庵を一本
生姜の赤漬
玉子は鳥屋から
海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴
薩摩あげ
かつをの塩辛
湯をたぎらして
餓鬼道のやうに喰ふ我等の晩餐
ふきつのる嵐は
瓦にぶつけて
家鳴震動のけたたましく
われらの食慾は頑健にすすみ
ものを喰らひて己が血となす本能の力に迫られ
やがて飽満の恍惚に入れば
われら静かに手を取つて
心にかぎりなき喜を叫び
かつ祈る (後略)
昭和十六年太平洋戦争にはいると、光太郎はそのころの詩人がみんなしたように、かれも御国のための詩を作り、一つの流行詩の表面にうかんでいた。純潔とお人好しとをうまく釣り上げられたのである。戦争が終ると急に自分がいやになり、「暗愚小伝」を書いて反省した。これがかれの数尠ない生涯のツマズキだったのだ。大臣ならとうに総辞職というところだが、そんな事は誰も咎めない前にかれはあやまった。あれほど用心ぶかく、巨きく純度の高いものをまもりつづけたかれも、ようやく人くさい息吹をついた。私はかれのこの不倖にひとつの本物を感じた。そしてその昇りつめた詩がもはや昇ろうとしないで、ひとつ処にとどまっているのを眺めた。その時、巨大な風船の右の遠方にいまひとつの小さい、若い赤い風船がやはり昇りつめたところに滞まっているのを眼にいれた。これには二十六歳で死んだ立原道造という男がのっていた。私はこのふたつの風船の純潔さを、それがどれほどの違いを持ち合い、どれほどの違いを現わしているかを毎日見ていた。
高村光太郎がいわゆる中間雑誌にも書くようになったのは、ようやく雑誌の灰汁がしみ亙っていて一々それを拭いていられなかったからである。かれの詩が凡ゆる詩というものが雑誌のかざりとうめくさであることに間違いなく、かれの詩もまた雑誌のゆびわや帽子の役目をつとめるようになっても、かれはあまりこたえる風もなかった。あるいはこたえても、そんな子供くさい事には、もう一々潔癖がまもれなかったのかも知れぬ。
永年に亙り自分の詩をそだてるうえに、注意ぶかく卑俗を避けていたかれは、時勢もそうであったが持ちきれなくて半分投げ出したところがあった。二種類の文学全集、彼自身の全集とかいうものが、かれを文学の泥臭い中に抱きこんでしまったものの、そんな泥を吐くいとまさえなかったのである。それはそうであってよかったのだ。詩は詩であっても文学は泥くさいほど美しい、泥のついていない詩や文学はご免蒙りたいものである。巨大豪放の透明感というもの、清純高潔の生き方というものを最後まで持ちつづけたかれも、時々、その反対の生き方を強いられてくると、口ごもりながら、これは何とかしなければならんと何度もムカシ好んで着た紺絣で質素と朴訥の風采を愛しようともがくのだ。
先日といっても昭和三十二年の十一月、私は歌舞伎座の休憩室で正宗白鳥と宇野浩二にお会いして、話が高村光太郎におよぶと私は宇野に言った。
「高村光太郎には一種の構えがあったね、若い時分からずっと続いていた構えが。」
宇野浩二は即ちスルドイ語調でいった。
「あった、高村には構えがあったとも。」
正宗白鳥はただ、あったな、と寛っくりと言われた。
私はさらに宇野に君はどうかというような顔付をして訊いた。
「詩人の伝記を書いているが、どうもすぐ自分のことを書いてしまうね。」
「そうだとも、自分のことを書かなければ何も書けないよ。」
小説博士のかれはちっとも笑わないで、当然だといえる顔付で答えた。
高村光太郎は明治十六年三月東京下谷区で生まれた。私とは六つ年上である。東京美術学校彫刻科卒業、砕雨と号し与謝野夫妻の『明星』に短歌を発表、つまり同人雑誌で勉強した形である。三十九年三月から四十二年まで外遊、ニューヨーク、パリに滞在、人の話では借りたアトリエに閉じこもり、碌々外に出なかったこともあったそうだ。
処女詩集『道程』は白山町の抒情詩社から刊行、この貧しい出版屋にほとんどただで発行さしたのも、高村光太郎らしい無名の出版所をえらんだわけである。久しい間その詩集は『道程』一冊しか発行していない。後に『智恵子抄』『智恵子抄其後』を刊行、ヒューマニストまたは、モラリストとしての詩風をしめす。ヴェルハアラン(一八五五~一九一六年、ベルギー系のフランス詩人。生命讃美の象徴詩を書いた。)の訳詩集『明るい時』『天上の炎』『ロダンの言葉』『続ロダンの言葉』を訳したが、その行文の美はかれの詩の水脈を引いている。その他『ゴッホの手紙』、評論集『造型美論』『美について』等がある。戦後岩手県の山村に七年間こもっていた。彫刻はわずかに数点しかない。
田端の百姓家に私は下宿住いをし、ほとんどの日は千駄木町の通りから白山に出るのが、私の散歩区域であり、本屋に本を売り質屋に通い、大方の日は憂鬱極まるものであった。千駄木の桜の並木のある広いこの通りに光太郎のアトリエが聳え、二階の窓に赤いカーテンが垂れ、白いカーテンの時は西洋葵の鉢が置かれて、花は往来のほうに向いていた。あきらかにその窓のかざりは往来の人の眼を計算にいれた、ある矜と美しさを暗示したものである。千九百十年前後の私はその窓を見上げて、ふざけていやがるという高飛車な冷たい言葉さえ、持ち合わすことの出来ないほど貧窮であった。こういうアトリエに住んでみたい希みを持ったくらいだ。四畳半の下宿住いと、このアトリエの大きい図体の中におさまり返って、沢庵と米一升を買うことを詩にうたい込む大胆不敵さが、小面憎かった。
高村にはちっとも関係も意志もないことだが、私のほとんどの日が、このアトリエの前を通り、内部にあるかれの生活と私のそれとの比較が行われ、毎日遣っ付けられ毎日項垂れて通ったわけである。私はどのようにして自分のみじめさを救ったらいいかという考えの果に、やっと高村光太郎を正式に訪ねることで、かれの知己を得ることによって心の平明をとり入れたいと思った。いちどでも、このアトリエの中に客として坐りこめば、あんなに厭な気分でこの通りを歩かないで済むだろう。そして高村と友人関係になればかれに持つ嫉みも何もなくなるのであろうと思った。
私はある日二段ばかり登ったかれの玄関の扉の前に立ったが、右側に郵便局の窓口のような方一尺のコマドのあるのを知り、そこにある釦を押すと呼鈴が奥の方で鳴るしかけになっていた。私はおそるおそるその呼鈴の釦を押した。すぐ奥のほうで呼鈴の音がきこえ、私は新鮮なせんりつを感じた。私は私と同等以上の人間を訪ねたことは北原白秋だけであって、光太郎は私とは因縁も文学関係もない男だったが、会わないことはないだろうと思った。だいぶ永く、時間にしたら一分三十秒くらい私はコマドの前に立っていた。放心状態でいたのでコマドの内側にある小幅のカーテンが、無慈悲にさっと怒ったように引かれたので、私は驚いてそこに顔をふりむけた。それと同時にコマド一杯にあるひとつの女の顔が、いままで見た世間の女とはまるで異なった気取りと冷淡と、も一つくっ付けると不意のこの訪問者の風体容貌を瞬間に見破った動かない、バカにしている眼付きに私は出会ったのである。私は金でも借りに行った男の卑屈さで、高村君といってにわかに高村さんといいあらため、今日はお宅においででしょうかとおずおず言った。するとこの女は非常に軽くあごを下の方に引くことによって、来意を諒解したふうを装い、突然、さっと、またカーテンを引いてしまった。彼女はコマドからはなれ、奥の間に行ったらしく、白い少々よごれたカーテンが私の眼の前と内部の光景とをへだてた。
再びカーテンが引かれたが、用意していた私はこんどは驚かなかった。ツメタイ澄んだ大きくない一重瞼の眼のいろが、私の眼をくぐりぬけたとき彼女は含み声の、上唇で圧迫したような語調でいった。
「たかむらはいまるすでございます。」
「は、いつころおかえりでしょうか。」
女の眼はまたたきもせずに私を見たまま、答えた。
「わかりません。」
私は頭を下げると、カーテンがさっとハリガネの上を、吊り環をきしらせてまた走った。
再度目に訪ねたとき女は顔だけあらわしたが、私はその間際にまた来たという言葉を女の眼によみとって、すぐ、私は彼女の眼に抗議をもうし込むよう、ちょっとした気配を見せてやった、だが、それは受けとられなくて、「たかむらはただいま出かけて居ります。」と彼女はいい、私はやけになり、ああそう、こんな男が来たといって下さいと、私は自分の名前を告げたが、彼女は、正確な返事ではなく、あ、そう、ふんというふうにいって、カーテンをまたさっと引いた。
三度目に訪ねたのは一ヵ月後のある午前中であったが、ツメタイ眼は夫のほかの者を見るときに限られている、夫には忠実でほかの者にはくそくらえという眼付で、やはり追い払われた。それは秋で私は父死すという電報の来ている下宿にかえって、その晩、故郷に向いて立ち、十日程して帰京すると千駄木町の通りを行き、思い返して国から持参した吉田屋物の九谷の大皿を抱えて、アトリエの前に立ったが、その日は都合よく光太郎自身が現われ、かれの書斎でしばらく話しておみやげの皿を置いて帰った。私はこんなに人を訪ねるに執拗であったためしも尠ないし、九谷の大皿まで何の気でもっておべっかを尽したのか、そのもとをさぐると高村光太郎の友人になりたかったからである。私みずからを救うのはもちろんだが、光太郎のアトリエにしげしげと通ってあわよくば、大雑誌『スバル』に詩の原稿をすいせんして貰いたい下心があったからであった。けれども人に贈物をしたくても出来ない人間が、それをなし遂げたときには精神的にもうがっかりして、私は光太郎をまたと訪ねる気がしなくなっていた。詩人が贈物で詩を紹介して貰うことに気がさしていたし、ツメタイ眼をみることがいやだったからだ。しかし私は独居の下宿の部屋でときどきあれは誰だったかと、うかぶたくさんの女の人の顔をおもい上げるとき、このツメタイ眼がツメタイために美しく映じてくるのを、怖れた。この女のひとこそは『智恵子抄』の智恵子であったのだ。
高村光太郎という類のない不思議な人間によって、みがき上げられた生きた彫刻智恵子を見たのは、ただの、この三度の面会だけであった。かれは父光雲像をきざみ、「紫朝の首」「男の首」「園田孝吉像」「裸婦」「今井邦子像」「牛」「腕」「松方正義像」「中野秀人の首」「東北の人」「大倉喜八郎像」「黄瀛の首」「黒田清輝像」「九代目団十郎」「河口慧海像」「木暮理太郎像」などを作り、最後に十和田湖公園功労者顕彰記念碑のため、裸像を製作した。だが、かれが生涯をかけて刻みに刻み上げた彫刻は、智恵子の生きのいのちであったのだ。夏の暑い夜半に光太郎は裸になって、おなじ裸の智恵子がかれの背中に乗って、お馬どうどう、ほら行けどうどうと、アトリエの板の間をぐるぐる廻って歩いた。愛情と性戯とがかくも幸福なひと夜をかれらに与えていた。「あなたはだんだんきれいになる」という詩に、(をんなが附属品をだんだん棄てると、どうしてこんなにきれいになるのか。年であらはれたあなたのからだは、無辺際を飛ぶ天の金属。見えも外聞もてんで歯のたたない、中身ばかりの清洌な生きものが、生きて動いてさつさつと意慾する。をんながをんなを取りもどすのは、かうした世紀の修業によるのか。あなたが黙つて立つてゐると、まことに神の造りしものだ。時々内心おどろくほど、あなたはだんだんきれいになる。)
この詩には光太郎が自分の性をとおして見た智恵子の裸体のうつくしさを、世間の人が決して喋れないヒミツであるものを、かれは彫刻にはゆかずに詩というもの、詩で現わせるために恥かしさを知らない世界で、安んじてこのように物語っていた。あなたがだんだんきれいになるという言葉は、よく解りうなずかれる言葉ではないか。
昭和十三年かれの愛妻智恵子は精神分裂症のまま死去した。かれは千代紙を智恵子にあたえ、精神病の人に紙の細工が心をしずめるということを聞いて、それで折鶴などを作るあわれな智恵子に、ふたたび不思議な愛情を感じた。智恵子は千羽鶴を折って訪ねてくる光太郎に、これを見せては笑った。高村は、「千数百枚におよぶこれらの切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、この世への愛の表明である。これを私に見せる時の智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が忘れられない」と光太郎は書いていた。
レモン哀歌
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に插した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
岩手県稗貫郡太田村山口という山村に、疎開して山小屋にこもった光太郎は、六畳の板の間に三畳のうすべりを敷き、炉を仕込んだこの小屋の中には夜具類の一さい、火消壺、炊事道具の一さいをふくめた雑然たる一農耕者の住いにしたしんだ。六十三歳という年齢はこんな煤と埃の中でも、だまって暮らしてゆくのに好適な年齢なのである。昭和二十五年代の日本人は誰でもこれに近い暮らしだった。戦後の食うや食わずのくらしに誰でもここまで引き摺りこまれていたのだ。山口の村の突ッ端で、雑木林をうしろにしたこの小屋の中の光太郎は、そこから出て小学校でお話をし、村の青年に講演をこころみ、えらい先生になっていた。自分でえらい顔をしなくとも、村人は高邁な文士としてかれを畏敬していた。
かれはここの雑木林にさわぐ風や、雪の凍みる枯草に心をとらわれ、智恵子への夜々の思慕にもえた。六十歳の人間には六十歳の性慾があるものだ。六十年も生きて見た数々の女体の美しい開花は、この山小屋の中でさんらんと匂い、かれは夜半に耳をかたむけてなんらかの声に聞き惚れ、手は女のすべすべした肉体のうえを今夜もまた、さまよいをつづけた。妻に先に死なれるほど、妻がうやうやしく美しく見えることはない、かれが智恵子への何十篇に超える詩を書いていても、それだけでは書きつくせるものではない、智恵子はかれの性慾の中に生きているのだ、この恐ろしい深まりはかれの性慾が涸れ切ってしまうまで、不測の継続を意味する。だからかれが死ぬまで、智恵子の肉体がかれのお腹のうえにあって、かれの胃と腸をあたためていた。かれが死ななかったら智恵子も死なない。小説家田宮虎彦もそのふたりとない妻をうしなって小説を書きつづけたが、それは田宮の中にいる夫人が死なないからかれは書けたのだ。つぎの夫人ができるまで彼女は生きているのだ。妻というものの恐ろしさはその生前もそうだが、死後のきよらかな妄執こそもっとも恐ろしいものだ。光太郎はうたっている。(画もかかず、本も読まず、仕事もせず、そして二日でも三日でも、笑ひ、戯れ、飛びはね、又抱き、さんざ時間をちぢめ、数日を一瞬に果す、ああ、けれども、それは遊びぢやない、暇つぶしぢやない、……後略)
光太郎はこの山小屋で毎夜智恵子への肉体幻想に、生きるヒミツをとどめていた頃、この山小屋にしげしげとわかい女からの手紙が、一週間に一度とか十日間に一度ずつ届いていた。ひとくちに言えばありふれた愛読者の手紙であった。しかしその手紙の冒頭にはいつも光太郎様とあるべきところに、今日はお父さん、ではまたお手紙をさしあげるまでお父さんは風邪をひかないでいてくださいと書き、ふしぎな言葉のあまさを含むお父さんという文字が続いて書かれていた。かれはこの異常な嘗てかれ自身が父にむかって呼んだ愛称が、この山小屋の中で日が晴れておれば、その晴れた日の中で呼びつづけられ、はしばみの裏の林に風がわたる夜中にも、雨戸のすきから柔しい父誦の愛呼がつづいた。かれは耳をかたむけ、そして頭の中をさぐって他人の娘が自分をお父さんと呼んでくれる嬉しさを、ついに、しっかりと捉えることが出来た。有難い彼流にいえばめぐみの一種類であった。かれはこのヒミツの愛称の内容にも次第に肯ずいた。彼女は言った。わたくしがお父さまと申し上げることが出来、そこに不安を感じない嬉しさはやはりこの称えによるもっとも相応しい私自身のあまさでございましょうと書かれてあった。
太田村山口の村端れに、ある日はじめて新雪がちらついた昼すぎ、一人で雪を面白がって歩く少女が、小高い光太郎の山小屋をめあてに元気に歩くすがたが見られた。身のつくりも東京風であり小柄できりっとした眼付には、おさえきれない悪戯者らしいしかも無邪気な微笑をうかべ、畝道を歩いていた。
光太郎は雑炊を炉で煮ていた。
雪をはらう気はいがし、光太郎は誰方かと立たないで呼びかけた。表の人は黙って立ったままだった。光太郎は戸を開けた間際、めまいをもよおすような若い女の肉顔を眼一杯にいれた。そして次ぎにはすぐあの人だなと思った。いつも手紙をくれるたびにお父さんと書く少女だったのだ。めまいは止み少女は炉の前にお行儀好く坐った。光太郎はスカートというものが近代のムスメ達の膝をいかにたくみに、抒情風につつみ上げているかということをその間際に感じた。
光太郎は永い間手紙を見ていたので、らくに話が出来たし、少女もすらすらと話をすすめた。ただ光太郎はこの少女の若すぎる生き身を感じるときに、智恵子とたった二人きりでいたことに気づいて、この少女をみるはればれしさにある抗議を自身の中に感じた。死んだ智恵子がいう抗議ではない、かれ自身がつくりあげる妙な抗議であった。少女は先生といい、手紙にあるお父さんなぞとは呼ばなかった。どこをさがしてもさし対いの二人のあいだには、お父さんなどという言葉は決して存在していない、それは手紙だけに用いられる装飾語であろうかと思えた。
少女は二時間しかいなかった。彼女を村の入口まで送って行った途中、お父さんなぞとお手紙に書いたりしまして、ご免遊ばせといい、光太郎は例の含み声で愉しく笑って別れた。
人体飢餓
彫刻家山に飢ゑる。
くらふもの山に余りあれど、
山に人体の饗宴なく
山に女体の美味がない。
精神の蛋白飢餓。
造型の餓鬼。
また雪だ。 (後略)
昭和二十七年十月、光太郎は七十歳、太田村の山村を去った。二十八年十和田湖畔に建つ裸婦像を完成、十月除幕式、この前後から健康を害し三十一年七十四歳で死去した。かれは最後の詩に、(智恵子の裸形をわたくしは恋ふ。つつましく満ちてゐて、星宿のやうに森厳で、山脈のやうに波うつて、いつまでもうすいミストがかかり、その造型の瑪瑙質に、奥の知れないつやがあつた。後略)と書いて、智恵子をしつこく慕うている。