6話 釈迢空(1)
読み方を変える
ある年、放送局からたのまれ、私は釈迢空の詩を朗読放送、それにみじかい評釈を加えた。その日のことを迢空に知らせると、迢空は出版書店に電話で態々それを知らせ、二、三の知人にも電話や速達便を出して聴取するように注意をしたが、お弟子の岡野弘彦は、折口先生はその事をたいへんに喜ばれ、その日は外出しないで放送時間の来るまでお茶を喫み、縁側に出たりして待ち設けていられたと、後で私に話をされた。
釈迢空の詩は巧みなことばに溢れていて、古いことばをつかっても、にわかに冴えて生きて来る術を知っていた。危ない古語のつかい方が危なさをうまく融和させ、かえって鮮かさを加えた。文学博士折口信夫の学問にあるあふれるばかりの古語比喩は、二十歳の青年詩人がもつ若い眼で、選ばれうたわれ、臆することのない大胆さで馳駆されていた。学問というものをこんな詩の形のうえに引き出して、特異の世界をつくり上げた人はまれであった。文学博士ともいわれる人物が私の詩の朗読放送を一々電話で出版書店に知らせたことにも、子供らしい清い勇み方があった。それだから、迢空は詩を書くたびに幼ない詩人のあえぎを捉えることが出来たのである。
私は釈迢空に会うと、すぐ額にある黒ずんで紫がかった痣(あざ)を、まず何よりも先に眼にいれた。痣はあざだった。どこまでも痣にかわりがなく、おしゃれの迢空が顔を剃るたびに悲観し、これをいかにして抹殺すべきかに心をつかっていたことだろうと、よそ事ならずに私はそう思った。若い時分の友人らはこの痣をインキと呼んでからかったが、迢空はそのため「靄遠溪」という号をもちいて、他人のからかいを封じているふうもあった。迢空が学者とか歌人とかで偉くなってから、誰一人としてこの痣のことを彼の前で、あなたの痣はどうしてそんなにインキの色をしているのですか、そしてお幾つからそれがどんな原因で額を禍いしているのでしょうかと、訊く人はなかった。この無礼な言葉が彼の愛していた人間からも聴くことがなく、また自らこれはね君、ずっと大昔からくっ付いていたんだとも言う機会のなかったことが、やはり一つの聴きもらした生涯の質問でもあり、誰もそれを言ってくれなかったことに、痣の手負いの深かったことを知られたのではないかと思った。
吃りはその吃りを判然とそう言ってくれる人の前では、もはや吃りではなく、すらすらと喋れるものである。足の不自由な人には足はちんばでも、そういうことは生きるに問題ではないと言うと、ちんばの人も憂鬱を吹っ飛ばすものである。私の額に迢空のような痣があったら、私はまず一篇の詩を書いて、このあざを見るひとの胸をぐっとつまらせて見せたかった。
痣のうへに日は落ち
痣のうへに夜が明ける、有難や。
昭和二十七年七月のある日、私は軽井沢の愛宕山の中腹にあった山小屋に、迢空をたずねて露台の椅子の上で対坐していた。雨の多い年で見渡すかぎり濡れた木々、昆布色のうすぐらい曇った空気が、まだ午後の三時も廻らないのに、日暮れめいた鬱陶しい景色を幾重にも木々のかたまりを重ねて見せていた。迢空は白の碁盤縞の浴衣を着て、この人らしく戯談一つ言わない窮屈さで、とぎれがちな話を私達は交わしていたが、この年の翌年の初秋にはもう迢空は死んでいた。だから後になって私は、この最後の訪問が憂鬱で鬼気の迫ったものであることを、無言と無言の間にいまから汲みとらぬわけにゆかない。その日は話というものが後に印象づけられることが一つもなかったこと、かなり重大な無言だったことに気づく。懐中汁粉というものをすすめられ、私は世に厳粛な顔付で啜ったものである。そして迢空博士も客にすすめたからには、これも美味しそうに食べざるをえなかったらしい。迢空の身の廻りのことをされる岡野弘彦も、自分で作った懐中汁粉をうやうやしく、べつの、少しはなれた椅子の上ですすっていた。迢空の身の動きの些細な事にも、私が煙草の箱からつまみ出すかさかさいう音の中にも、お互いの無言を知り尽したくらいである。私の眼はそのあいだにもちらりと迢空の額の痣を見て、山小屋の暗いじめじめした中で、今日はほとんど、痣という感覚のないほど額の痣が暗さに紛れていることを知り、私の悲しみがそれに集まらないのを嬉しく思った。
長き日の黙の久しさ 堪へ来つゝ、このさ夜なかに、一人もの言ふ
人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ
ひそかなる心をもりて をはりけむ。命のきはに、言ふこともなく
ゆきつきて 道にたふるゝ生き物のかそけき墓は、草つゝみたり
山岸に、昼を 地虫の鳴き満ちて、このしづけさに 身はつかれたり
この島に、われを見知れる人はあらず。やすしと思ふあゆみの さびしさ
静かなる ひと日なりけり。日ねもすに 心ねもごろのふみを 書きたり
あやまたずあらしめし かのをみな子も、かつ/″\ 我を 忘れゆきけむ
青空の うらさびしさや。麻布でら 霞むいらかを ゆびざしにけり
その日の帰りに、迢空は私を送るために山小屋から、雨でつぶれ川になった山道を一緒に下りた。真中が掘られた山道はがらがらの小石と泥で、飛び飛びにぬかるみを避けて歩かなければならなかった。
「あの男の歌は全部はったりですよ。はったりを取ったら何ものこりはしませんよ」
迢空はこの人には、まれに見る激しい口調でそう言い、心の憤りが足もとに勢いづいて、石を避けてがつがつ歩いたが、足もとが危なかった。ふとした話で私は迢空の怒りというものを見たのだ。
この山小屋から町への買物は、伊馬春部が送ってくれた自転車で岡野がしてくれる、自転車は町の入口に預けてあるという話であった。愛弟子で私の知っているのは小谷恒、伊馬春部、岡野弘彦、加藤守雄、小笹功、藤井春洋くらいだった。それらの愛弟子は、ことごとく眉目清秀の人達であり、終生妻というもの、女というものに近づかなかった迢空は、わかい男のこちこちした頬の、そのこちこちの中に何時も愛情をおぼえ、とりわけ従順とか反抗を読みとることで、女にあるものよりも、もっと手強いくらくらした眩暈状態のものを愛していたらしかった。
藤井春洋はそのもっとも愛された人、藤井春洋は二十三の時から硫黄島で戦死するまで、迢空の身の廻りや雑誌社出版社、講演、金銭の出入れまで、迢空のいうままに仕事をし、二人は兄弟のように仲善く、或る時はわかい二十三の妻と、四十二歳の男とが暮らしていたのである。藤井春洋は眼は大きくいきいきしていて、頬はいくらかあお白く色の変らない、がっしりした体格を持っていた。講演、講義、町の食事、歌舞伎、調査旅行の何処にも藤井は連れ立った。
死歿十何年か前、軽井沢の私の家に、二人で牡蠣を貰ったからといい、牡蠣を籠に入れ、竹竿の真中にそれをぶら下げて、よいしょ、よいしょとかついで搬んで来たことがあった。私に牡蠣をくれる事よりも二人でかついで来たことが面白かったらしく思えた。藤井の頬ははずんで女にも見られるこちこちが、そのこちこちのゆえに歯がゆげな爽快があった。
またの別の日、迢空の使で藤井は私の東京の家に、その著書を度たび、とどけてくれたことがあったが、その折は先生とは言わずに、折口があがるはずですがといい、折口と呼びすてであった。
またのある日、京浜電車の中で迢空と会ったが、やはり藤井の白い顔がそばに連れ立っていて、それは此方へと何かの包みを藤井が迢空の手から、持ちかえていた。
また別の日にはすぐ折口があとから来ますからといい、藤井は私の家の庭にある縁台に腰を下ろして待っていた。手を膝の上に置いて庭に眼をやる藤井は、二重瞼が大きく開けていて大きな娘さんのように見えた。
昭和十六年十二月、迢空は藤井が入隊するので、第九師団のある金沢まで送って行った。七聯隊は兼六公園とならんでいて、兵隊は石川門から入隊していたが、身動きも出来ない入隊者と見送人の間を、このただならぬ愛弟子と先生が人にもまれながら戦雲此処にも漂うかと思える、混乱の中をじりじりと兵営に向って歩いていた。迢空は入隊前からもそうだが、今もこの藤井がそばにいなくなるということが、自分にどういう空っぽな日々をおくらせるかということを、周囲の群衆がざわめく程、痛切に感じた。藤井はむしろぽかんとした睡眠不足の眼を、何処に何を見ているかも自分で判っていない風で、やはりじりじりと人に押されて歩いていた。この年の遅い雪が兵営の屋根の上にちらつき出している……。
正午近く藤井は兵隊服を窮屈に裸になって着替え、迢空は襟元を引いてやり、そしてズボンをすぐはけるようにひろげて差し出すと、不機嫌になっている藤井は邪険にそれを引きたくり、僕は一人で着ますよ、打棄って置いてと変った声音で叱った。それは度たび叱ることがあるので、迢空はすぐ着なれてしまうよとばつを合せていってみたが、藤井は塩からい眼に悲しそうな容子を見せまいとして、兵隊服なんかに着なれてたまるもんですかと言い放った。しかし陸軍少尉の制服ははじめて迢空の眼に、映画に見る好ましい外人部隊のある一士官の恰好を捉えることができた。肩章にある二つの金色の星は、いつも著書の背中に金文字を愛するかれに、好感と、りりしさを与えてくれた。
藤井はやはり怒った顔付だったが、さすがに迢空がたたむ背広の生あたたかい服を自分でたたんで、それを風呂敷に包みこんだ。まもなく点呼の時間が来て迢空は包みを提げ、藤井は広場の点呼場に去った。迢空はもとの石川門から公園の土手に登って、もみじの濡れた落ち葉にうつる空と雪とを見て、それを踏んで公園の坂を下りて行った。かれの抱いた虚しさは展がる一方であり、召集されるということは同時に戦死することに間違いない、そのころの日本人のいのちの約束事だった。だから藤井の死を見送ると同じ意味なのだ。
だが、翌年藤井は召集から解除され、十二月に退営、迢空はこれを迎えに長時間の、その頃の混乱した列車に乗りこんだ。かれの心にふたたび倖せが展がり、虚しいものが消え失せた。公園わきの小立野に宿をとった迢空は、藤井と冬の兼六公園を歩き、町を歩き、料理店で蟹料理、鱈の料理をたべ、迢空の不思議な愛情は藤井の大きい眼にそそがれ、藤井は迢空の眼が危なくなると、炬燵から出て少し大声になって言った。
「こんど召集されたら硫黄島あたりで、お陀仏ですよ、まるで命を誰かに吊られているようなものだ。」
金沢の愉しい三日間は過ぎた。翌年か翌々年かに藤井はふたたび金沢の兵営に入隊、迢空は例の長い列車に乗り込んで金沢まで付添うて行った。わかばの兼六公園は美しかったが、こんどは本物の戦地行きに決まっていたので、迢空はぞっくり心の肉をくい取られ、前の年と同じ生温かい藤井の背広をつつみ込んだ風呂敷包を提げ、兵営を出て公園の坂を下りた。迢空はむなしい考えの中で藤井春洋を養子として、籍を入れ、愛情のうえに法律というものを取り入れることに、ふしぎな熱意をおぼえた。かれが詩の作為に古語をちりばめるくせが、この人事のうえにも現われて来たのだ。かれは法律に好意を感じたのはこの機会ばかりであった。
藤井春洋は昭和二十年三月、四十歳で硫黄島で戦死した。その前年、昭和十九年七月、春洋硫黄島着任直後、七月二十一日に迢空は藤井を養子として入籍したのである。十七年間にわたるいたいけな一文学博士折口信夫と、歌人藤井春洋の世にもまれな愛情生活がここで、おわりを告げた。能登の浜べに「折口春洋ならびにその父信夫の墓」と誌された二人の墓が相ならんで築かれ、「人も馬も道行きつかれ死にゝけり」とうたったそれが、迢空自らのうえにも加えられていた。これを書く私にすらいずれは来るはずのそれを、いか様にしても人間は拒むことが出来ないのだ。
新盆
盂蘭盆会 近づきにけり―。
しづかなる空に むかひて
なげきせむ我と 思ひきや―
(中略)
わが子は つひに還らず―
わが子を いつとか待たむ―。
わが子の果てにし 島に、
しづかなる月日経行きて、
そのあとも今は 消ゆらむ―。
日曝しにさらす 毛ごろも
ありし日の汝が服見れば、
染め深き青鈍色も
かくならむ兆の喪の色―。
かくなりて 何か思はむ。
盂蘭盆の棚をつくりて
供へたる野山の物の
あな寂し 色ぞ花やぐ―。
芋 瓜の牛馬つくり
我ひとり見つゝぞ 笑ふ。
あまり 拙劣に―
反歌
都べの盆の月夜の 身に沁みて苛き 暑さを ことしさへ在り
はるかなる島べの土の、目にしみて 我はおもほゆ。盆の月夜に
折口家にひとりの美しい中年の女の人が、だいぶ以前から仕えていた。神式の葬礼の日に彼女は化粧はしていないが、面長で血色の好い口かずもすくなげなその女の人が、茶とか座ぶとんとか色紙類とか、門人が品物の在りかを聞くと直ぐうなずいて、それに応えて品物を取り出すふうは折口家に親しい間柄に見えた。お手伝によそから来た人でないことは、着なれた着物がふだんのままに、からだをつつんで馴染んでいる様子にうかがわれた。
あの女の人は誰でしょうかと小谷恒に聞くと、あの人は迢空の身の廻りを十年も気をつけて来た人で、女中代りにはたらいていて、歌も作る京都の生まれの人だといった。先生はあの人をばあやと呼んで、相当、気難しくつかっていられたが、あの人は無口で永く感心に仕えてくれたと小谷恒はいった。年若い男が絶えず迢空のそばにいて、その若い男と睦じく暮らしている毎日を、この美しい女中さんはどういう眼で眺め、どういう女気で何物かを察していたろうかと、私は神主が弔詞を読み上げるとしおしおと泣くこの人を、泣く人という言葉どおりの重さで眼にいれた。文学博士折口信夫は女の人には眼もくれない人ではない、かえって普通の人よりも純度が高く鋭い見立をしていた。私の家に来て病妻を見るとすぐ言われた。あ、あなたは童女に変りましたね、と。そういう鋭さを持つ迢空は、この十年も仕えるまだ若い女人を、ばあやと呼び、時にはしゃれて、おばばと古言葉で呼んで優しくはあったろうが、この人を女と見ることはほとんどなかったと小谷恒はいった。
この女の人は迢空死後、十万円の手当を遺族から貰って、京都の生まれ在所に戻った。私はさめざめと泣いていた人を、折口家の梅の木の見える背戸近い縁側で見てから、むかしの古い人、泣くだけしか迢空にやれなかった血色の好い女の人を、その後どうしていられるかを思った。この情景はこまかく物を見る迢空の、ただ一つ見落したしおしおとした女光景であった。
愛弟子藤井春洋は、近眼鏡をかけていた。近眼でもあり実用的にかけていたのであろうが、迢空は自分でも眼鏡をかけていて眼鏡が好きであったらしい。誰でも愛する人の眼を眼鏡の冷たい光の間に見ることは、一段ときらめいて変った眼が見られるから好きなのである。若い小谷恒にも迢空はよく眼鏡をかけるように言い、小谷恒はなかなか眼鏡はかけなかった。理髪店に行くたびに迢空は髪を長くしてはいけない、理髪店の美学をそのまま受けとって眉を作るとか、むやみに髪を変に分けたりなぞしないように、しつこく注意をした。迢空はまだ四十二、三歳であり藤井もいた折口家では、若いお弟子はたいてい少々長めのざんぎり頭だった。迢空がざんぎり頭を愛したのは、年が若く見え、少年の風采を髣髴させたいからであった。
ある日小谷が理髪店から戻って来て、髪も長めに刈って分けているのを見ると、迢空は憤然として机の曳出しをがたぴしやり、一梃の鋏を手にもつと縁側に出て突っ立って言った。
「わしがあれ程短かく刈って来い言っているのに、きみは聞き分けんのか、此処へ来い、わしが刈ってやる。」
当時コカインを鼻に注入していて、頭のメイセキをもとめていた迢空は、少し中毒気味で錆びた鋏の先を震わして、上方訛で呶鳴った。
「理髪店が刈っちゃったものを、どう言いへん。」
「理髪店の言いなりになる阿呆があるか、此処にきちんと坐った。そしてタオルを膝にあてるのだ。」
迢空はひとつまみずつの髪を、指の先ではね上げるとざくっと刈り、また、ざくっと切り、こんどは調子にあぶらが乗って、ざくざく勢いこんで刈って行った。小谷恒は眼をとじていた。一旦、こうと言い出したら、やらさねばならんと覚悟を決めていた。刈った落ち髪はタオルの上を黒々とそめて来た。迢空はそれらの髪をこんどは細かく揃え、鋏を立てて整えた。
頭髪刈りを終えると、迢空はまたコカインを仰向けに鼻孔に注しこみ、小谷恒は湯殿に頭を洗いに下りた。二人はもう何にも言わなかった。呼吸をはずませた迢空は、それを鎮めるためにじっとしていて、小谷恒が洗って来た頭を見ることがつらそうであり、そんな迢空の我儘は極めてさびしいものに算えられた。そして急に迢空は小谷の機嫌を取るために、軽快そうな用事を頼んでそれで気を紛らせようとしていた。
迢空はもう一つ小谷恒に、ほとんどせがむように言い、小谷恒はそれを何時も聞きすてにしていることがあった。それは最初はただ、小谷も眼鏡をかけるといいということであった。次には君に眼鏡はきっと似合うと言って、自分の眼鏡を外してこれをかけて見たまえと、小谷がそれをかけて見せるとよく似合うと言い、そして君も眼鏡をかけろというのである。例によって一旦言い出すとそれを停める人ではない、自分で素透しの硝子玉と、銀ぶちの眼鏡を買って来て、今日からこれを架けるのだと言う。
小谷恒は度の強い眼鏡をかけ、ある夕方遅く、迢空とつれ立ってお菜を買いに出かけた。ふだん迢空の眼のとまらない処で、小谷は眼鏡を外していたが、一緒に町に出るのには、眼鏡をかけないわけにはゆかなかった。大井町出石の裏町を二人は南京豆を噛みながら、迢空は下駄をがらがら引き摺って歩き、小谷は眼鏡のせいで道路の面が、波打って見え、奇体な歩き方をして行った。突然、裏町の角で懐中電燈の光がさっと迢空の顔を射りつけ、迢空はこの無礼な男と対い合った。この男は警察の者で不審訊問に引っかかったのだ。迢空は他人の顔を懐中電燈で照らす奴があるかと言ったが、刑事は君達は何処かで喧嘩でもして来て、怪我をしているのではないか、変な歩き方をしている、隠さずに言えと来た。一人は下駄を引き摺り、一人は極度の眼鏡のせいで道路が凸凹に見え、ひょろついて歩いているのだから、何処から見ても変な恰好に違いない。
迢空は名刺を帽子の裏側からつまみ出して、この無礼な男に渡した。この無礼な男は何々大学教授と書いた名刺を永い間懐中電燈の明りで見入ってから、こんな大学があったかな、ついおれは聞いたことがないと言って、更に疑義に堪えざるふうに言った。
「それにしても大学教授ともあろう人が、今頃晩のお菜を買いに出るということは可笑しいじゃないか。」
「大学教授だってお菜は買うさ。」
小谷恒は眼鏡をぴかっと光らせた。
迢空は眼鏡がこの場合役立ったと思った。二人とも眼鏡をかけていなかったら、もっと変な男に思われたかも判らない。
迢空はとにかくわしの家まで尾いて来て、人物をたしかめろ、と言い、刑事はのろのろと尾いて来た。小谷はこの騒ぎの間に眼鏡を外したが、足もとが明るくなり良く見極めがついてしゃんと歩けた。刑事はこの足もとをまた不思議そうに見入った。家の近くまで来ると、刑事は、あ、この家の先生でしたかと言って、ぐずつくと此方が危ないと見え、さっさと引き上げて行った。
翌々日、出講の学校の階段で、小谷は迢空のうしろから登って行ったが、階段が凹凸に見え、踏み外して転がり墜ちた。迢空はその原因が眼鏡にあることを知ると、階段下で、低い声で耳のそばに来て言った。
「階段を登るときは君、眼鏡を外さないと危ないぞ。」
きずつけずあれ
わが為は 墓もつくらじ―。
然れども 亡き後なれば、
すべもなし。ひとのまに/\―
かそかに たゞ ひそかにあれ
生ける時さびしかりければ、
若し 然あらば、
よき一族の 遠びとの葬り処近く―。
そのほどの暫しは、
村びとも知りて 見過し、
やがて其も 風吹く日々に
沙山の沙もてかくし
あともなく なりなむさまに―。
かくしこそ―
わが心 しづかにあらむ―。
わが心 きずつけずあれ
迢空は手料理の上手な人だった。大正四、五年頃に、本郷の下宿にごろついていた時代に、天ぷらやをしたかったが、金がなくて店が張れなかった、と、学成った折にかれは愉しそうにそれを物語った。
料理がうまく出来るということは、学問とか智慧、詩歌の修業があつもの等の風味に現われ、ふだんのお菜にまで文才がにじみ出て、それを作らずにいられないように思えた。火の加減や焼魚の工合、それを見つめている大切な時間に、かれは人間の食餌の芳醇をさとっていたのかも知れぬ。いまから汁粉を作ろうという夜半にそんな支度を門人にさせる迢空は、料理の出来あがるころに夜明けが来てしまったという話に、この人であるための可笑しな永遠という言葉も、生きて見えていた。
昭和十一年四月、小谷恒は迢空の家にいても、歌は作らなかったため、迢空は小谷恒を連れて茶紬の羽織、草履ばきという姿で私の家に現われた。そして小谷恒はこれから小説を書く勉強をするそうで、小説をかく人が私の家にいても仕様がないから、友達になって遊んでやってくれぬかと私に自分の子供のように小谷恒のことを言われた。私はそれを引き受けたが、態々そういう事のために、連れ立って来る門人への親切さに、少々惘れて迢空を見直す気持を持ったのである。
三矢重松は折口信夫の先生であった。当然、博士になってよい人であったが、病褥について立てず、迢空は三矢重松の文法に関する論文の仕事をうけついで、博士号を師のために築き上げた。そして彼自身の『古代研究』を加えて、釈迢空はその生涯のあいだに、博士論文を二度も書き上げた人であった。学問というものが身内に溢れているような人、しかも迢空の学業は何時もお菜を作るような愉しさで、終始されていたように思える。学問というものは私に面倒千万な気にならせていたが、好きでいじくれば詩歌をいじくるのと大して違ったものではない、いや、それは違うというなら学問にカブトを冠せた言い分であろう。学問が愉しくなかったら誰も博士号なぞ、ご苦労にもとる人はいないはずだ。私も博士という人達はえらい人達ばかりだと思っていたが、それだけの学位がとれるような人は、そんな博士号なぞいらないであろうし、くれても、そんなに飛びあがる程嬉しくないのであろうと思った。
折口家では殊に迢空不在中は、よその客からの贈り物は、一さい取ってはならぬ事になっていたらしく、女中さんはそれを厳しく言い渡されていた。
ある年の春、私の家で雛祭の日に赤飯を炊いたので、遠い大井まで娘は歩いて、赤飯をとどけに行ったが、迢空不在で、手剛く断わられて娘はすごすごとまだ温かいお重をかかえて、戻って来た。中身は赤飯だといっても、留守中は誰方様からの贈り物があっても、うけられませぬと、女中さん(例の別嬪の)が気の毒そうに言い訳しながら、つき戻した。何だ、赤飯だからよさそうなものなのにと、私なぞに見せぬ手剛さがあることを知った。
後の日に迢空は切角の赤の飯を食べそこねましたと、上方なまりで詫て言われた。では、来年はうけとって下さいと私は言ったが、翌年の春に持って行ったかどうか、今はおぼえていない。
昭和十三年の頃、小笹功の主幹で古典研究の雑誌『むらさき』が出ていて、小笹功の主会で私の家で迢空に「ものを聞く」ことになったが、後で銀座に出て行きつけの当時のカフェに三人で行った。迢空にはそういう場所に興味がないらしく、それが判ると、すぐそのカフェを出た。その短かい時間にその店の階段を昇降した印象的な迢空は、茶色の鳥打をかむり同じ茶の服を着ていられた。その日の山小屋での吟行。