7話 釈迢空(2)
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雪ふるといひしばかりのひとしづか 犀
更に十夜も過ぎて膝寒 迢
みなさんによろしくといひ梅日和 犀
犬の吼えたつ小路縦横 迢
金沢や白山吹の薬店 犀
とろりとなれば水音のする 迢
やはり昭和の十三、四年頃、迢空は慶応大学で十日間ほど『源氏物語』の講義をし、堀辰雄はその日には講義を聞きに奥の腰掛にいた。迢空は堀辰雄が聴講していることを先きに知っていたから、美青年の堀を好いていて気負って講義が出来たらしい。この話は私には美しい昭和物語のえにしのように思えた。その十日間のあいだには堀は一日休んだきりで、後はずっと聴講をしノオトにも、書きとめていたのではなかろうか。
聯作詞「堀君」四曲はずっと後に作られた作品だが、「村の子を 友として 遊べとぞ 君を思ふ。さ夜ふけて、枕べに ほの/″\と 清きくれなゐ げん/″\の花茎を 見出でなどして― 君が心 たのしくならむ」、そして次の五行で結んでいる。
村の子を 友として遊ばねど、
たゞ清き生きものなる
村の子は 君が心を知りて
瞻るらむ。君が門を―
君が居る 《マド》のあかりを―
釈迢空 本名折口信夫、明治二十年 大阪市浪速区鴎町一丁目に生まれた。
大正六年(三十一歳)私立郁文館中学教員となり、二月 短歌雑誌『アララギ』同人に参加、選歌分担。同八年国学院大学臨時代理講師となる。同十一年(三十六歳)国学院大学教授にすすむ。同十二年慶応義塾文学部講師となる。
昭和二年能登国羽咋郡、気多一の宮に藤井春洋を訪う。同三年藤井を家族の一人として迎え、藤井は迢空に戦死するまで仕えた。ひとくみのめずらしくも、いたいけな夫婦のような暮らしであった。それは迢空の生涯は妻をめとらず独身であったごとく、藤井春洋もまた戦死するまで婦人というものを知らなかったのであろう。
昭和十三年(五十二歳)はじめて堀辰雄のさがした軽井沢の貸家に赴く。豆腐屋の横丁に当る角の二階家で、一週間いたが気にいらずに越された。この年に箱根山荘建つ。しかし迢空はこの山荘を口にしないで、人に知られることを嫌ったが、贅沢に思われたくないからであろう。
昭和十七年(五十六歳)この年の十一月に北原白秋死去。白秋と親しくその詩の技法をまなんでいた迢空は、白秋に、ある尊敬の念いを甚だしく抱いていた。
昭和二十年(五十九歳)詩集原稿『古代感愛集』戦火焼失、同二十一年(六十歳)『近代悲傷集』の稿成る。
昭和二十七年(六十六歳)七、八の月軽井沢滞在、九月国学院で講義中軽度の脳溢血症状、血圧百七十、言語障害。
昭和二十八年九月三日胃癌で永眠、「いまははた 老いかゞまりて、誰よりもかれよりも 低き しはぶきをする」「かくひとり老いかゞまりて ひとのみな憎む日はやく 到りけるかも」これが迢空の絶唱となった。三唱して私は、このえがたい詩人を思う。