我が愛する詩人の伝記

9話 堀辰雄(2)

1,238字 約2分 2022年3月26日 公開

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 明治三十七年十二月、堀辰雄は東京麹町平河町に生まる。生父堀浜之助、生母名は志気。

 大正十三年八月はじめて信州軽井沢に、私を訪ねて来て鶴屋旅館に滞在、当時、鶴屋の宿料は一泊三円くらいであった。堀は軽井沢の気候とか町とか町の外の道路を愛した。鶴屋主人は堀さんがあんなにえらい人になるとは思わなかったと言い、後に何時の間にか堀センセイと呼ぶようになっていた。

 翌々年かに追分に行き、この町が気に入って死ぬまで此の地に滞在、たえ子夫人を貰い、家を建ててとうとうこの地で亡くなった。これほど追分の村里を愛した人はなかろう。ざっと三十年も軽井沢と追分にいたわけである。

 軽井沢を愛好していた詩人達に津村信夫、立原道造、野村英夫等がいて、堀の数すくない友達になっている。少し遅れて福永武彦、中村真一郎が彼の家の茶の間に坐っていた。中村真一郎はむんずりと黙り込み、福永武彦は早口の大声で話し、堀はにやにやと何時もきげんが好かった。

 昭和四年二十六歳、「無器用な天使」を『文藝春秋』に書いた。編輯の菅忠雄がこれをすいせんしたものである。二十六歳でこの大雑誌に執筆したことは、当時にあっては作家として早い方であった。その後、一作品ごとに彼の作品にある、清潔感は人びとの愛するところになり、編輯する雑誌社の人も、他の作家とことなるところを稀なものとし、これを迎えた。

 堀が原稿のことでただ一度私に相談したことがあった。結婚して間もない頃だったが、少し金の取れる仕事をしたいというので、当時『むらさき』という古典文学を基礎にした文学雑誌の編輯者の小笹功に、私は堀が連載を書きたいと言っていると話をしたが、小笹功は喜んで載せるといってくれた。堀は毎月『むらさき』に書いたのが、「幼年時代」だったのである。何ヵ月続いたか分らないが、半年近くで堀の方から中止にした。つまり毎月趁われて書くのがつらいらしかった。後に『婦人公論』に「大和路・信濃路」を書いたが、これも中途でやめたが、これは『婦人公論』の申込みであって私には関係がない。堀の連載物はこの二つきりであるらしい。連載というものは作者の健康が横溢していないと書けないものだ。堀辰雄のような作家は作品の出来る時を俟つより外はない作家である。

 昭和二十八年、五十歳で逝去したが、十数年に亙る病苦と格闘した勇敢な人である。人はまだ堀は生きている、よく持つものだと寄れば言い合ったほど、あるたけのもので生きぬいた男であった。あれほど寝ながら書物の印税を受け取り、寝ながら領収書を書き、また寝ながら印税でかせぎ抜いた作家も、まれであった。結局、よい物を書いておけば作家は病気をしていても、印税はうけとれるのである。それにしてもたえ子夫人の看とりがなかったら、堀はあんなに永く生きていられなかったであろうというのは、あとに残った私どもが彼女におくる褒め言葉だったのである。彼女はそんな褒め言葉なぞいらないと言うだろうが、横を向かないで受けとってほしいのである。

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