我が愛する詩人の伝記

8話 堀辰雄(1)

9,176字 約18分 2022年3月26日 公開

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 明治四十年、向島土手下の小さい煙草を商う家に、堀辰雄は、祖母と母親にまもられ、かぞえ年四歳になっていた。隅田川の橋を渡って浅草公園に、いつも母親と遊びに行ったが、やはり子供を遊ばせている母親達が辰雄の顔を見ながら、つくづく言った。

「このお子さんは何という俳優(やくしゃ)のお子さんですか。」

 日南地に集まった母親達はこの可愛らしい子供を、どれ、おばさんにも抱っこさせてといい、知らぬ小母さん達に抱き上げられた。よくふとった難の打ちどころのない辰雄の円い顔は、母親の血色をうけ継いで頬も照っていた。

 堀の父、上条寿則は彫金師であった。その時代ではそろそろ牛肉(ぎゅうにく)も家庭で食べ初めていたのに、堀の家では牛肉はまだ邪物(まのもの)と言われ、家では煮ることをしなかった。だから、辰雄に牛肉を食べさせる時には、やはり公園のすき焼を兼ねた西洋料理店に連れて行って食べさせた。そこのボーイは辰雄を見なれると、階下から二階までいつもおんぶして登って可愛がり、辰雄も牛肉とボーイとを半々に好きになるようになっていた。

 十歳くらいになると、お母さんは辰雄のことをうちの殿様と言って、父親につけない日の刺身のご馳走を辰雄のお膳につけていた。夜、床にはいると辰雄の枕上を歩かないで避け、裾廻りをとおるようにし、出世前の子供の枕上は歩かないものだと、お母さんは皆に言った。たとえば菓子くだもの類を貰うと、第一番に辰雄に、おまえ、お食べかいと聴いてから家の者に、頒けていた。

 父の寿則は町内の顔ききでもあり、仕事の羽振りも宜かったので、料理店の出入りから芸者の温習会などにも、肝煎役だった。その芸者の踊りのつなぎに、十歳の堀辰雄はハチマキをし襷(たすき)をかけた勇ましい姿で、「ベンセイ・粛々夜河ヲワタル」の剣舞を舞った。美少年の剣舞はいつも好評であった。

 当時剣舞は男の子のたしなみであり、酒席に子供を舞わしめることは下町の一風俗でもあったのである。それもその筈、恥かしがりやの辰雄はそんな日のために、一年も剣舞師のもとに通うてベンセイ・粛々の剣舞を習っていたのだ。木剣を木綿袋に入れて通う辰雄は、ひとなみの剣舞師の習得で少しも躊躇(ためら)わないで、袴の股立ちを取って剣の舞いを演じていた。

 大正十二年五月、私は当時田端の高台に住んでいた。或日お隣の奥さんが見え、わたし共の主人の府立第三中学校出身に堀辰雄という生徒がいるが、いちど紹介してくれと言われていますので、会っていただけるかどうかというお話であった。私は何時でもと答えた。お隣は広瀬雄校長であり第三中学に芥川龍之介も在学していたことがあり、堀は当時二十歳だった。

 或日お母さんに伴われて来た堀辰雄は、さつま絣に袴をはき一高の制帽をかむっていた。よい育ちの息子の顔付に無口の品格を持ったこの青年は、帰るまで何の質問もしなかった。お母さんはふっくりした余裕のある顔付で、余り話ができない人のようだった。これが私の堀のお母さんに会った初めであり、そして終りであった。大正十二年の震災でこのお母さんは、隅田川に火に趁(お)われて水死された。

 お母さんは堀がいまに本を書く人になることを考えて、或る製本屋に近づきがあったので態々菓子折を提げ、うちの子の本が出るようになったら、どうかよい本に製(つく)ってやって下さいと、挨拶にゆかれたそうである。製本屋さんは惘(あき)れて返事も出来なかったであろうが、後年、このお母さんの祈りがかなえられ、堀辰雄の生涯の書物はどれも凝った美装の書物ばかりであった。そしてそれらの書物が出版されるたびに、堀の書斎の隅の方に何処からか現われて来る一人の老女が、その一冊を手にとって恰もそれに読みふけっているふうであり、堀はその頁をかえす音が、書物の郵送の包紙がひとりでに刎(は)ねて皺を伸ばしている音だと思っていた。

 堀の母は勿論、辰雄の本どころか、印刷された一篇の物語すら読まないで亡くなっていたが、製本屋に頼んで置いたから、きっと美しい本を作ってくれることに疑いを持たなかった。だから、書物が頻々と出版されるたびに、堀は母のその頼みに行ったことを思い出し、一冊だけは茶の間のすみの方か、書斎の襖の入口にいつも彼は置きわすれていた。そのみじかい時間のあいだに書物に手をかけた老女が愉しげに頁を返し活字を趁うて日脚を縫いながら読んでいた。

 堀は本を読むと、その本を畳に伏せてわすれていることが度たびあったが、いつも一冊分を一包の反古の中にわすれていることはなかった。しかもその寄贈先の署名をしている間に、一冊分だけ自分用として取って置くはずの物まで、紛れこんで友人への署名をしてしまっていた。だが、たしかに全部の署名を終ったと思っているのに、一冊だけきちんと窓の閾のうえに置きわすれていたことに、いつも、後で気づいた。おかしな事があるものだと、堀は本の出るたびにいつも冊数が合わないのを送り先の控えと合わしても、数がぴったりと来なかった。

 子供の時から精一杯に育て上げられたうちの殿様であり、どこかの俳優の子でもあるような子供が、とうとう一人前以上になっていたことは、どんなに老女に嬉しいことであったろうか。老女は大学を卒(で)たら着せるのだといって、大島のおついの着物を縫わせ、まだ何年後でなければ卒業しない堀のために、箪笥の抽斗にこの紋服同様の大島のおついをしまっていたのである。

 私はずっと辰雄歿後の後年、奥さんのたえ子に、大島のおついが一揃えおありでしたろうと言うと、たしかに、ございました、永い間着ていましたけれど、何分にもお古いものでございましたから、もう、ほどいて了いました。切れ端でもあったらお大事になさいというと、それはもう、きちんと糊張りにしてしまって置いてございますと、言われた。口でうまい事をいって何処かに突き込んであるんじゃないかと言うと、たえ子は開き直って、じゃお見せしてもいいわ、畳紙にきちんと包んでございますのよ、いまごろ、いじめようとしたってちゃんとする事は、みな片づけてあるんですもの、時々、現われてあらさがしにつけつけ言おうとなさっても、もう、晩(おそ)くてだめ、と、彼女はてんで受けつけなかった。病床十年を切り抜けたところで夫の死を見た彼女は、烈婦のカガミのような人であった。カガミはいまは辰雄の小説の中から美しい嫉妬をほじくり出して、それを唇にくわえて遊泳していた。カガミはカガミに映る自分を見て笑い、毎月墓地にかかさずせっせと通うていた。石にお詣りするということはどういう事なのであろう、私にはこの古い日本のしきたりが余りに美の行事であるため、却って奇異のはかなさに思われた。

 堀辰雄は生涯を通じてたった数篇の詩をのこしただけであるが、その小説をほぐして見ると詩がキラキラに光って、こぼれた。こぼれたものを列べてみると、それはみな詩の行に移り、よどみない立ちどころの数篇の詩を盛りあげていた。小説や物語の女達の言葉や行いが、人間の性情にあるときは詩というものが、こんなふうのものかと、そう思われる優柔感をそなえてみせた。

天使達が

僕の朝飯のために

自転車で運んで来る

パンとスウプと

花を

すると僕は

その花を《むし》つて

スウプにふりかけ

パンに付け

さうしてささやかな食事をする

   ×

この村はどこへ行つても いい匂がする

僕の胸に

新鮮な薔薇が插してあるやうに

そのせゐか この村には

どこへ行つても犬が居る

   ×

西洋人は向日葵より背が高い

   ×

ホテルは鸚鵡

鸚鵡の耳からジュリエットが顔をだす

しかしロミオは居りません

ロミオはテニスをしてゐるのでせう

鸚鵡が口をあけたら

裸の黒ん坊がまる見えになつた

 堀辰雄は私生活の事は一さい口にしない人であった。従っていま何々の小説を書いているとか、お金がほしいとか、どこそこの令嬢が美人であるとか、こんな家を建てて住んで見ようとか、何処かに原稿を持ち込もうとか、家庭の様子がどうだとかいうことは口にしたことがなかった。だから友人とか先輩とかの行状、悪口、かげ口もしなかった。その心にも、他人を痛烈に憎むという気の荒立ちがなく、そういう人の行状を耳にすることを避けているふうがあった。歯医者の療治をうけると貧血を起すという堀は、自転車から転がり落ちた女の子の膝がしらの血を見て、たちまち顔色蒼然のあわれみを催おす人だった。手なんぞ見ても、小ぶとりの柔らかい指に、しとやかな肉つきをもっていた。この人は女の子だったのが間違って男の子に生まれたのではないかと、私はいつも同じ優しい瞬きを見せている堀を見て、そう思った。だから殆どの人が堀を好いていたのだ。お愛想がよいわけでもなく、いつも当り前の顔付で差し触りのないことを話している彼には、その無口をおぎなうために相手の方で機嫌とりのようなことを、話してしまうふうであった。こんな人は色魔なぞによくある型や人格なのだ、つまり、にたりにたりしながら相手の心を捉えるという行き方が、そのにたりにたりを除けば凡て堀の持っているフンイキであった。ところが彼は色魔どころか、大抵の女の人には優しく皆に好かれ、皆におなじように心を頒けている側の人だった。誰もこの堀の悪口をいった人を私はきいたことがなかった。

 堀が女性的であったということは、声もそうだが、からだの肉つきにあぶらがあって、頬はまんまるかった。食べものも、おいもとか、じねんいもとか、卵料理とかが好きだった。唇は紅く髪も黒かった。病で床の中にいた時分、釈迢空が見舞いに軽井沢から来られる日に、彼は何を遠慮したのか、今日は起きられないと先生に言ってくれ、僕は起きないからと奥さんのたえ子に言った。だってそんなに元気なのにどうしてお会いにならないのですと言うと、訳はいわないで寝たきりだと言ってくれと、会わなかったのだ。たえ子はきっとお会いするのが窮屈なのであろう、それに釈さんとこの前会った後で熱が出たからそういうのであろうと思ったが、私はそこに病人としてのたしなみを見る気がしたのである。切角見舞いに来た尊敬する人の気に反(そむ)いて、会わないということに堀がその気になったことに、病人のわが儘のかなしみがあって、はなはだ女性的であると私は思った。僅かそのような我儘というものの心理は複雑なものであった。釈迢空は堀辰雄に好意をもっていたし、好意は非公式の愛情をも潜めていたものらしい、堀もそれをうすうす知っていたから、おとろえた姿をこの人の眼に見せたくなかったのだろう。

 この日は迢空は次の間でたえ子と話をして、軽井沢に戻って行かれた。たえ子は後でどうして態々いらっしったのにお会いしなかったのだろうと、後年私にはなしていた。堀の複雑な心づかいが私にはよく判った。それは釈迢空ばかりでなく、私は堀が寝込んでから近い軽井沢に疎開していて、八年の間一度も見舞いに行かなかった。それはまだ戦争時分だからたえ子は自転車で軽井沢にやって来て、パンとか菓子とか魚とかをやみで購(か)い入れ、私の家で持参の弁当をつかって午後も寒くならない間に戻って行った。そのたびに堀の病状を訊ね、昨日は少し快かったとか、今朝は少し熱があったとか聞くと、態々出かける必要もなかった。それにたえ子は東京から雑誌社の方が見えても、追分には寄らないよう言ってください、お仕事のことや人に会うと亢奮して発熱するから、お宅でくい止めてくれといわれた。私はそこで雑誌社の人や本屋さんには、堀の処に寄らないように頼んで言った。たえ子は私にも見舞に来てくれるなと言い、あなたがいらしったら堀は気をつかうし、何か改まるような気持になるから、入らっしゃらないで下さい、軽井沢においでになるのだしお隣にいらっしゃるも同様ですから、ほんとに入らっしゃらないでくださいと、きつく一大事件のようにくい停めるのである。

 私に「堀辰雄に会はざるの記」という一文があるが、そこにも堀が私に会うことを憂鬱がっていること、たえ子がそれを懸命に停めていることが記されている。――私は久しく行かないから近い内にお訪ねしますと、たえ子が来たときに言おうものなら、それこそ、たすけてくれといわんばかりになり、たえ子はほんとに入らっしゃらないでください、お構いも出来ないのに、堀のことなら、あれ出せ、これ出せ、お茶をもっと濃くいれなさいなどと気を揉むにきまっていますから、後で疲れて熱を出すようなことになります。もっと、快くなってから入らしってくださいと言うのである。それも尤ものことであるが、そんなに僕のことで気を揉むのか知らと、つい追分行きがのびのびになり二年三年と経って了ったのである。

 大抵一ヵ月に二度くらい軽井沢に姿を現わすたえ子が、急にふっつりと来なくなると、これは堀の容態が悪くなっているのじゃないか、この前来たのは何時頃だったかと家じゅうで言い、息子が自転車で追分の様子を見に出かけるのである。そんな場合、堀は喀血の後でたえ子は手が離されなかったのだ、そこで息子と娘がたえ子に代って買物をして歩くことになっていた。――堀自身でも二、三年会わないでいるのに、いまさら私が出かけるのが気づまりが感じられるのではなかったか、どうやら釈迢空に会わなかった気持に、類似しているものがあった。一刻も静臥していてどんなに親しい人にも、いくらかの窮屈がある場合、堀らしく内気に引きこんでいたかった。他人にあえば乱れるし、たえ子ですら、次の間に控えていたからである。彼女はだから堀が寝返りを打つとか、咳のあんばいとか、少しばかりふとんの動く音も、聞き逃がすことがなかった。却って堀よりもたえ子の神経はするどく何時も集中されていて、時々、彼女は低い声でいった。「たすけてほしいのは実際わたくしの方かも知れないのよ、お湯をすする気はいでも、びくっとするくらいですもの。」

   ×

僕の骨にとまつてゐる

小鳥よ 肺結核よ

おまへが嘴で突つくから

僕の痰には血がまじる

おまへが羽ばたくと

僕は咳をする

おまへを眠らせるために

僕は吸入器をかけよう

   ×

苦痛をごまかすために

僕は死にからかふ

犬にでもからかふやうに

死は僕に噛みついて

彼の頭文字(イニシアル)を入墨しようと

歯を僕の前にむき出す

 萩原朔太郎の歿後、朔太郎全集の出版を引き受けてくれた本屋さんが二軒の本屋さんに及んで、私はAという書店が先きに話があったのでA書店をすいせんし、三好達治は別のBという本屋さんを支持して、全集の打合せ会の席上、三好達治と私とが議論をはじめた。萩原は三好達治の先生だったから装幀の心づかいから、萩原おもいの三好は一歩も譲らずに、しまいにあなたなぞ何が判るんだと啖呵を切り、先きに申し込まれて一旦遺族と計って宜しいと契約をしたのに、今更契約を解くことが出来るかと、私は眼鏡を外して立ち上った。引っ殴(ぱ)たかれそうだから眼鏡が壊れるような気がしたからである。勿論、廊下に出て貰って取っ組みをしてもよい腹立たしさだった。この席に、堀辰雄もいた。気短かな三好に同じくらい短気な私共は、半分立ち上り気味の凄まじさだった。ところが堀辰雄は顔色を蒼く沈ませて、思いのほかのおちつきで、三好に、先輩には先輩の礼儀もあるんだから、も少し控え目に相談するんだと堀は仲裁役をうけ持って言った。私達はこんな事に口出しを決してしないはずの堀辰雄の顔をちょっと見て、その顔色のアオサがこちらにサッと影響して黙りこんだ。

 往きがかりで口論になった三好と私は、はからずも堀の仲裁が役立ってその晩はおさまったのである。私も三好も本屋さんから収賄をとっていたわけではない、ただ、本屋さんを贔屓にしていた関係からである。ここに作家と本屋さんの関係をちょっと書いてみるのも面白いから書いてみるが、作家はどんな場合でも、たった一枚書いても、その代償はいつも原稿料という正規の手続きのもとで支払われていた。各作家の所定の原稿料というものは、各社を通じてどこからか判っていて、皆さんの原稿料は言い合わしたようにキチンとした金高に計算されていて、宣伝文であろうが、すいせん文であろうが、一枚計算に税金を引いて、支払われていた。だから礼金とか賄賂とかいうあやふやなものは、一銭も存在しない、本屋はどんな場合でも印税以外は払わないし、作家も印税以外は取らない、これくらい金にきれいな社会はないのである。三好達治と私の口論も贔屓からわたり合っただけで、お互に本一冊出して貰ってさえなかった。作家というものはそんな変な人間の群なのだ、その群の喧嘩最中に喧嘩口論が一等きらいな何時も臆病そうに見える堀辰雄の一言(こと)が、うまく三好と私とを黙りこませたのは、平常温和(おとな)しい堀の口利きだったからであろう。

 その全集出版後、八年くらい経って堀辰雄の告別式のあった増上寺の廊下で、私は三好達治に会い、ずっと顔を近寄らせて堀もとうとう亡くなったという合言葉の黙諾で、ちょっと立話をしてお互にスズしい顔つきで別れた。三好達治も年をとり、私も退引きならぬトシヨリになっていた。

 昔、『驢馬』という同人雑誌を出していた時分にも、編集その他の事で寄りがあると、いままで黙っていた堀辰雄が何か決めなければならない話を一つ持ち出すと、それが何時もとおってその通りになることだった。中野重治だの窪川鶴次郎、佐多稲子、西沢隆二(ぬやま・ひろし)、宮木喜久雄という人達も、遠慮ぶかく少々吃りながら(堀は少々吃りだった)、物を言う堀に重要さを見出していたし、多くを喋らない人の徳を持った堀は、少し喋ると、その少しが肝じんの事がらに役立つことが多かった。ああいう温和しい人だから誰もいきなり堀の言葉をやっつけることが、堀の気質を知っているために彼をいやがらせることをしなかった。つまり堀という男はその気質を持って対手(あいて)にいつも善意をあたえていたのだ、彼はいつも半分しか物を言わないでいて、あとの半分は対手に察して貰う行き方であった。彼の小説にもその描法が行き亙っているところでは、文章がことさらに光を返していた。

 そういう堀は愛している人にも、つまり半分言ってあと半分を察してもらっていたのであろうか、愛しているのか、愛していないのか、もうろうたるものもあったとしたら、それはたえ子夫人によく聴いてみないと判らないことである。堀は誰にでもほれていた、誰にでもほれるということは男の素直さによるものであった。だが誰にでも口説いてみるということをしないほれ方は、男であるための美しい徳であった。つまり誰にもよくして上げたいことは、人のすき嫌いにどぎつい厭なものを心に持っていない証拠なのだ、あの人だから彼方(あっち)向くというのではなく、皆さんに対(むか)って皆さんの方に向いてにこやかに話をするというふうであった。堀の小説にはそのフンイキが出ていて、若い女の人が好んで彼を愛読しているのも、そのためである。いまだに彼の住んだ追分の家を尋ねて来て、草のうえに坐って見たり、家のまわりで何か見ようとして廻って歩いたり、また、ふいに玄関に訪ねて来る何々という博士も居れば、団体の群から四、五人飛び出してくる人もいた。どの人も死んだ堀のいた処が見たいのだ、ただ想像しただけでは何も捉まえられないからである。

 私はたえ子夫人に、入口の道路がかなり手広だから、彼処に若い楓の並木を作って、すずしいかげが夏は斑に道ばたにうつるようにして見なさい、ベンチも一つ置いて腰かけて憩(やす)むようにするといいね、そこで旅行者は何でも好きなように連れと話をしてもいいんだから、来年の夏にはそうしなさい、此処は追分の公園みたいなところだからというと、たえ子はおじさんに指図をしていただけるなら、楓の並木を作ってみるわ、と、彼女もその気になって言った。

 軽井沢の夏の私の家に来て、これから堀さんの家を見たいという客があると、私はその客を追分の町にあんないして行ったが、そのたびに景色を褒め、埃立った田舎の町まで客は褒め、あんない役の私は一夏に二度は訪ねてみるようになっていた。見るものもないが、何も見られないボロボロ町が却って美しくさえあった。高峰三枝子も堀の小説を愛読し、歿後もずっとたえ子夫人とのつきあいが続いていた。この頃、お会いした香川京子も、たえ子夫人から聞くと、やはり堀の本が好きで、追分の家まで訪ねて行ったそうだ。たとえばこの二人の佳人がその例にすぎないが、作家が女の人にあいどくされるということは、どこかに通うている血が感じられるのである。その他、毎年いまだに堀の好きな田舎の山菜を根気好くおくりとどける、一女性もいた。堀が死んでいるのに八年間もそんな贈物をしているということは、どんな事がらに属するだろう、私はそこにある人のこころを尋ねて見たいのだ、人は人によってこころの細かさが違うものである。八年間も物をおくりとどけるということは、その人がそのこころに置かれた言葉をおくりとどけて来ることなのである。手紙なのだ。

   ×

僕は歩いてゐた

風のなかを

風は僕の皮膚にしみこむ

この皮膚の下には

骨のヴァイオリンがあるといふのに

風が不意にそれを

鳴らしはせぬか

   ×

硝子の破れてゐる窓

僕の蝕歯よ

夜になるとお前のなかに

洋燈(ランプ)がともり

ぢつと聞いてゐると

皿やナイフの音がしてくる

 堀は本所小梅町にいるころ、私に言問のおだんごを持って来てくれ、追分にいて達者な時には冬も温かい清水に生える芹とか、春先には蕗の薹(とう)をさげて上京して私にくれた。だから堀の死後名も知らぬ人達からの贈物が、堀の家にはいつも豊富に床の間にあった。いいね、甘い物がたくさんあっていいねと私はそれを褒めるが如く言ったが、このごろではその贈物も絶え、ようやく古手紙の整理をするほど、たえ子は暇ができていた。私は笑いながら言った。おいしいお菓子があいかわらず山積してお困りだろうにというと、もう郵便もお菓子も来ないわよ、雑誌なぞ皆買って読んでいるわ、一冊も来るもんじゃないと彼女は言った。そうとも、雑誌はあなたに読んで貰うために贈られているんじゃないし、人間の死というものも恐るべきことは、つねにあたらしい死がいたましく思われるからである。古い死は古いために奥へ奥へと片づけられて行くのだと私は言い、しかも自分の言葉にリツ然としたくらいであった。

「時どき現われて来ては突っつき返すわね、じっとしていると表から呼び出すように仰有(おっしゃ)るわね。」

「その突っつき返されることもお互に必要なんですよ、でなかったら、あたら歳月がむだになる。今日は僕が菓子を持って来たからおあがりなさい。菓子のないことはさびしいから。」

「え、お菓子というものはふしぎに温かいものね、有難う、いただくわ。」

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