16話 下巻 第十六回
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鷲郎は黒衣が首級を咬ひ断離り、血祭よしと喜びて、これを嘴に提げつつ、なほ奥深く辿り行くに。忽ち路窮まり山聳えて、進むべき岨道だになし。「こは訝かし、路にや迷ふたる」ト、彼方を透し見れば、年経りたる榎の小暗く茂りたる陰に、これかと見ゆる洞ありけり。「さては金眸が棲居なんめり」ト、なほ近く進み寄りて見れば、彼の聴水がいひしに違はず、岩高く聳えて、鑿もて削れるが如く、これに鬼蔦の匐ひ付きたるが、折から紅葉して、さながら絵がける屏風に似たり。また洞の外には累々たる白骨の、堆く積みてあるは、年頃金眸が取り喰ひたる、鳥獣の骨なるべし。黄金丸はまづ洞口によりて。中の様子を窺ふに、ただ暗うして確とは知れねど、奥まりたる方より鼾の声高く洩れて、地軸の鳴るかと疑はる。「さては他なほ熟睡してをり、この隙に跳り入らば、輒く打ち取りてん」ト。黄金丸は鷲郎と面を見合せ、「脱給ふな」「脱りはせじ」ト、互に励ましつ励まされつ。やがて両犬進み入りて、今しも照射ともろともに、岩角を枕として睡りゐる、金眸が脾腹を丁と蹴れば。蹴られて金眸岸破と跳起き、一声|《ほ》えて立上らんとするを、起しもあへず鷲郎が、襟頭咬はへて引据ゆれば。その隙に逃げんとする、照射は洞の出口にて、文角がために突止められぬ、この時黄金丸は声をふり立て、「やをれ金眸確に聞け。われは爾が毒牙にかかり、非業にも最期をとげたる、月丸が遺児、黄金丸といふ犬なり。彼時われ母の胎内にありしが、その後養親文角ぬしに、委敷き事は聞きて知りつ。爾がためには父のみか、母も病て歿りたれば、取不直両親の讐、年頃積る意恨の牙先、今こそ思ひ知らすべし」ト。名乗りかくれば金眸は、恐ろしき眼を見張り、「爾は昨日黒衣がために、射殺されたる野良犬ならずや。さては妄執晴れやらで、わが酔臥せし隙に著入り、祟をなさんず心なるか。阿那嗚呼の白物よ」ト。いはせも果てず冷笑ひ、「愚や金眸。爾も黒衣に欺かれしよな。他が如き山猿に、射殺さるべき黄金丸ならんや。爾が股肱と頼みつる、聴水もさきに殺しつ。その黒衣といふ山猿さへ、われはや咬ひ殺して此にあり」ト、携へ来りし黒衣が首級を、金眸が前へ投げ遣れば。金眸は大に怒り、「さては黒衣が虚誕なりしか。さばれ何ほどの事かあらん」ト、いひつつ、鷲郎を払ひのけ、黄金丸に掴みかかるを、引ぱづして肩を噛めば。金眸も透さず黄金丸が、太股を噛まんとす。噛ましはせじと横間より、鷲郎は躍り掛て、金眸が頬を噛めば。その隙に黄金丸は跳起きて、金眸が脊に閃りと跨り、耳を噛んで左右に振る。金眸は痛さに身を悶きつつ、鷲郎が横腹を引めば、「呀嗟」と叫んで身を翻へし、少し退つて洞口の方へ、行くを続いて追かくれば。猛然として文角が、立閉がりつつ角を振りたて、寄らば突かんと身構たり。「さては加勢の者ありや。這ものものし金眸が、死物狂ひの本事を見せん」ト、いよいよ猛り狂ふほどに。その《ほ》ゆる声百雷の、一時に落ち来るが如く、山谷ために震動して、物凄きこといはん方なし。
去るほどに三匹の獣は、互ひに尽す秘術剽挑、右に衝き左に躍り、縦横無礙に暴れまはりて、半時ばかりも闘ひしが。金眸は先刻より飲みし酒に、四足の働き心にまかせず。対手は名に負ふ黄金丸、鷲郎も尋常の犬ならねば、さしもの金眸も敵しがたくや、少しひるんで見えける処を、得たりと著入る黄金丸、金眸が咽喉をねらひ、頤も透れと噬みつけ、鷲郎もすかさず後より、金眸が睾丸をば、力をこめて噬みたるにぞ。灸所の痛手に金眸は、一声|《おう》と叫びつつ、敢なく躯は倒れしが。これに心の張り弓も、一度に弛みて両犬は、左右に《どう》と俯伏して、霎時は起きも得ざりけり。
文角は今まで洞口にありて、二匹の犬の働きを、眼も放たず見てありしが、この時徐ろに進み入り、悶絶なせし二匹をば、さまざまに舐り勦はり。漸く元に復りしを見て、今宵の働きを言葉を極めて称賛へつ。やがて金眸が首級を噬み切り、これを文角が角に着けて、そのまま山を走せ下り、荘官が家にと急ぎけり、かくて黄金丸は主家に帰り、件の金眸が首級を奉れば。主人も大概は猜しやりて、喜ぶことななめならず、「さても出来したり黄金丸、また鷲郎も天晴れなるぞ。その父の讐を討しといはば、事私の意恨にして、深く褒むるに足らざれど。年頃数多の獣類を虐げ、あまつさへ人間を傷け、猛威日々に逞しかりし、彼の金眸を討ち取りて、獣類のために害を除き、人間のために憂を払ひしは、その功けだし莫大なり」トて、言葉の限り称賛へつ、さて黄金丸には金の頸輪、鷲郎には銀の頸輪とらして、共に家の守衛となせしが。二匹もその恩に感じて、忠勤怠らざりしとなん。めでたしめでたし。