34話 三十三
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植木は塵芥掃除夫として、市役所の仕事をして、毎日六十二銭づつ儲けて居たが、思つた程悪人でも無かつた。そして栄一が貧民窟に這入ると云ふことに就ては、色々と世話をしてくれた。家が空いて居ると教へてくれたのも、植木であつた。それで栄一は植木と二人でその家を見に行つたが、それは北本町六丁目の大通りを西へ這入つて、第一の路次を山手に這入つた十軒続きの長屋の東から二軒目の家であつた。家は五畳敷で、表が三畳に奥が二畳敷ける。植木の話では去年の暮に此家で人が殺されて、近所では幽霊が出ると云つて、誰も這入らないので、空いて居るのだと云うて居た。
この註釈は栄一の好奇心をそゝり立てた。
それで栄一は家主の水田の家へ行つて、家を借りたいと申込むと、子供の怪我のことから心易くなつて居るので、早速承諾してくれた。そして日家賃七銭で一ヶ月二円十銭になるが、月家賃二円にまけてくれた。之が十二月の初めであつたが、それから栄一は毎日引越しを急いだが、海上保険の方が急がしいので、たうとうクリスマスの前夜まで延びることになつた。
そして、クリスマスの前夜、十二月の二十四日、各教会には賑やかに『クリスマス』『クリスマス』と騒いで居る中を、午後二時頃から栄一は植木に助けられて、引越をした。栄一はその時木綿縞の筒袖を着て、自分手に荷車を曳いて、兵庫の鍛冶屋町から、葺合の新川までやつて来た。車には蒲団と衣類一行李と書物一行李と竹の本棚一つを積んで来た。植木はその間に床の下を掃いて畳を敷けば善いやうにしてくれて居た。それから植木と二人で畳を買ひに行つた。然し彼は五枚分を買ふ金を持たなかつた。それで彼は一枚一円二十銭の古畳を三枚だけ買うた。そして植木と二人で之を南向きの三畳の室に敷いた。然しまだ障子が無かつたので、また古障子を買ひに行つた。そして一間半四枚のもの一組と、一間二枚のもの二組を買ひ求めて来た。紙を貼つてあるので便利なものである。早速それを入れて、その晩はランプも無い真暗の中を、そのまゝ蒲団を敷いて寝てしまつた。
翌日、植木は栄一がまだ床の中に寝て居る時からやつて来た。そして『一緒に今夜から此処へ寝さしてくれるか』と尋ねて来た。そしてその理由を色々述べて居た。然し栄一は植木を何故か信用することが出来なかつた。それでキツパリと返事をすることが出来なかつた。さうするとまた三十分位して、林と云ふ博徒と、富田と云ふ水田の一乾分とか云ふ背の高い男がやつて来た。そして、林も『隣の室に置いてくれるか』と云ふし、富田も『わしの乾分の内山を置いてやつてくれるか? 不景気で宿銭を払へずに困つてをるのや、大酒呑やけど、あなたの宗旨に凝り固まつて之から改心すると云つてるさかい』と云うて居る。新見は吃驚した。何故こんなに見ず知らずの人が、『置いてくれ、置いてくれ』と云ふかと思つた。
さうすると林は自説を急に撤回して、『教ヶ島(内山のこと)を置いてやつてくれ』と富田の応援をする。植木も『そら内山を置いてやつて欲しいな』と口添をする。こんなに三人が一致すると仕方が無い。それで栄一は、
『今夜その人に会つて見ませう』と答へたが、富田は、
『植木、おまへ阿波屋(木賃宿)へ行つて、教ヶ島(内山の土木の親分の名、貧民窟では親分の名で乾分が返事をする)を呼んで来てんか?』と云ふ。
『よツしや』と、
植木が飛んで行く。植木が飛んで行つた後で、富田は林に、
『あいつ、悪い奴ぢやで……六軒道に火をつけよつたのや……そして三月程前に監獄から出て来よつたのや……新見はん、あんな奴に心許したらいきまへんぞ、でえらい目に会ひまつせ』
『あいつほんとに悪い奴ぢや』と林が相槌を打つて居る。栄一は『さうですか?』『さうですか?』と答へて居た。
富田は何となしに親分風を吹かす男であつた。背の高い人の悪るさうな顔をして居る。然し羽織を着て風彩だけはキチンとして居る。林は紺の筒袖を着て、角帯を締めて居る。丸坊主の小利口さうな顔をして居る。
『寒いな、少しも火の気が無いんぢやな』
と、云ひ乍ら、敷居に腰を下ろす。そしてマツチをすつて、巻煙草に火をつける。
『富田、おまいも近頃悪うなつたな、あの「熊」の嬶はどうしてやつたんや? まだ関係つけとるんか?……新見さん……植木も信用が出来んが、こいつも信用しちやいきまへんで……こいつも仲々悪い奴だつせ、他所の嬶を取るのを専門にしとるんだつせ』
『林、もう、やめとけよ、余計なことを云ふなよ』
『然し、「熊」はほんとに可哀相やな、……富田、おまへ、妾、何人持つて居るのや?』
富田は懐手をして狭い半坪の庭に立つたまゝ、
『おとくで十一人ぢや』
『新見さん、この男は悪い男だつしやろ、他所の嬶を十一人も妾にしとるんだつせ……何処、何処にあるんや?』
『川向うに五人と、新川に三人、筒井に二人、兵庫に一人や……然し関係して居るのは五人しか無いで……』
『おとくはその中へ這入つて居るのか?』
『そんなことはどうでも善いやないか?』
『他所の嬶を盗るの、面白いか?』
『盗りもなにもせえへんけど、向うから来るのやさかい仕方が無いがな』
『いや、そんなことも無いで、……富田、もうおまいんとこ「淫売」居らんのか?』
『もう、そんなこと云うてくれるな、初めての人に、聴こえが悪いさかい……』
『新見さん、この男、悪い男だつせ、淫売を十一人も十五人も置いて、盆賃を巻き上げて居りまんのやで』
『然し、林、おまいん所のやうに、嬶を淫売なんかに、出さんからな……もう淫売居らへんで……』
『富田のやうに云うても、おまいんところのやうに、人の娘を淫売さして食へるんと違うて、嬶にでも淫売さゝな食へんさかいな……おためはどうした? まだ居るか?』
『内に居る』
『まだ淫売に出よるか?』
『ウン……』
『それぢや、まだ居るんやないか? おさだは?』
『おさだも居る』
『おそのは?』
『おそのは、大阪へ帰つた』
『おそのは、あいつまた来るぜ、あいつ、余ツ程、淫売がすきと見えるわ、おしかは?』
『おしかも居る……』
『もう居らんのか?』
『もう一人居る……うちの二階に置かんと云ふのやけど、一人居つたら、皆寄つて来るのやさかい、仕方が無いがな……』
栄一は先きから二人の会話を驚いて聞いて居た。こんな世界は栄一には未知の世界であるだけに、もう少し多く聞いて見たいやうな気がした。
『新見さん、富田つて云ふ奴は悪い奴だつせ、他所の嬶を取つて、もうちよつとで殺されかゝつて居りましたんやで……な、富田……』
『えらいもんやな、林、まだ、こんなに寒いと縫うた所が痛むんや……』さう云つて、富田は、胸を拡げて、腹の傷をみせようとして居る。一反の白木綿で巻きたてた下に、一尺にも余る刀創が上から下へ真一文字に出来て居る。そして敵方が攻め込んで来た時の話を面白くして居た。
話の途中に五十恰好の頭の真丸い、印袢纒に草鞋履きの男が、植木に連れられてやつて来た。栄一は、床から起きて、内山を見ると、内山の顔は覚えのある顔である。よく阿波屋の門に立つて居る男である。
富田は内山を見るや否や、
『教ヶ島、今夜からな、此処で泊るやうに頼んで置いたからな、こつちい来て寝え、宿銭だけ助かるわ』
『へえ、そら……』
内山は眼が悪いと見えて、眼をパチクリして居る。然し、言葉数の少ない男と見えて『へえ、そら』と云つた切り何にも云はない。
富田は新見に、
『まア、お寺の、納所坊主ぢやと思うて置いておくんなはれ』と云ふ。
新見がろくろく返事もしないのに、向うでは、もう決定してしまつて居る。そしてまた、
『耶蘇教は人助けやさかい、教ヶ島のやうな可哀相な男を、よう助けてやらな嘘や……然し内山も惰けものやな……阿波屋の入口で、あゝやつて、草鞋履いて立つてた切り、一日中動かぬと云ふのやから、ほんに可笑しな奴やな……内山、よう頼み、こん夜から、此処へ来るのやで……』
『へえ、……』内山は『へえ』の外、何にも云はない。然し新見も、内山を連れて来られて押付往生で、頼み込まれるのは弱つてしまつた。
その中に、栄一は、水道の傍へ、顔を洗ひに行つて、洋服に着換へて、保険会社へ出る為めに出掛けると、富田と林と植木と内山はぞろぞろ連立つて帰つて行つた。
そして、栄一が、その日の午後四時に会社から貧民窟へ帰つてみると、蒲団の中に内山が印袢纒を来たまゝ寝て居た。
栄一は、妙な処へ来たものだと考へたが、その晩、水木通の講義所のクリスマスへ出てまた貧民窟に帰つて見ると、
『燈がおまへんさかい、富田のうちから、ランプを借つて来ました』とランプをつけて栄一の帰るのを待つて居た。その顔は酒で真赤になつて居た。栄一はその晩、内山と一緒の蒲団に藻繰り込んで寝た。翌朝内山の手の甲を見ると、一面に疥癬が出来て膿んで血が出て居た。