38話 三十七
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伊豆は毎日繩を拾ひに行つた。内山は毎日のらくらして居た。然し忠実に朝早くから起きて栄一のために、また病人のために飯を焚くのであつた。それには栄一は感心してゐた。
貧民窟生活は、栄一にシツクリ合つて来た。栄一は生れてから今日まで、貧民窟生活ほど自分に合つた、張り詰めた生活をしたことが無かつた。朝早く、又晩遅く、貧民窟の路次路次を巡回して見ると、小さい乍らにも皆生きるために努力して居る。その小さい努力に、栄一は少なからず動かされた。
或時、栄一が巡回して居るとおふぢと云ふ、もとは淫売婦であつたと云ふ三十女の醜い跛が二畳敷の日家賃三銭を、八日分だけ滞らして居ると云ふので家主に追ひ立てられて居るのに出会した。おふぢは声を立てゝ泣いて居る。その側に痘瘡の醜い一人娘が又泣いて居る。家の中を見ると破戸漢らしい、家賃を取り立てる男が、畳をめくつて居た。
『お前等の様な奴に貸してやらなくとも、うちの借家には沢山這入つてくれる人があるんやさかい……毎晩毎晩訛しやがつて、それでこつちが立つて行くかい』と独言の様に呟いて居る。
『おあし(金)が無いんやさかい仕方がない。昨日も一昨日も飯もよう炊かず、何にも食はずに居るんや……おあしが有つたら真先に持つて行くんやけんど、不景気やさかひ、拾ひに行つたつて、何にも落ちて居れへんのや……そら、うちやつて、外の人の様に他人の荷車に積んで居る綿なんぞ盗んだりするなら困りはしやへんのやけんど……ほんまに金があらへんのや』
大勢の貧しい人々が、おふぢに同情して居る。お春と云ふ女乞食が、栄一を見て、
『先生、助けてやりなはれ、おふぢはほんまに可哀相や、二日も飯を食うてをれへんのや、ほんまに可哀想や――』
それで栄一は、八日分の家賃を、おふぢの為めに支払うてお米を一升だけ遣る約束をして帰つた。
こんなことを見て、帰つて来て居ると、裏隣の安さんのおかみさんのお政さんが、眼を赤く腫らして赤ん坊を脊負つたまゝ、井戸端で米とも何ともつかぬドス黒いものを洗つて居る。着物が無いので寒中単物で子供をすぐ肌につけて背負うて居る。
『おかみさん――なぜ泣いて居るの?』と栄一が聞くと、
『先生、まア、よう聞いて下さい。うちの安さんが、お米一升もよう買ひくさらんと云うて、撲きますけれど、自分も葬式には毎日あぶれて来るし、お米を買ふお金は無いし、先生の知つての通り、うちには餓鬼が六匹も七匹も居りまつしやろ。金の借れる処はズツト借りてをりまつしやろ「どこかで金の工面をしてお米を買うて来い、それ位の工面が出来ないで……甲斐性なしよ」と安さんが怒りますけんども、私はよその人の様に淫売に出る甲斐性はおまへんしな、灘の酒屋へ行つて、かうやつて土べたの上に落ちた小米を拾ひ集めて、お粥にして焚いて食ふのですけれども、こんなに土が混つて居つては、食はれまへんがな……それに安さんと云うたら私に許り罪を被せて私を殺すとか、撲るとか云ふのだつしやないか……』
さう云つておかみさんは涙をぽろ/\桶の中に落して居る。
栄一もすぐ貰ひ泣きをして、何にも返事もようせずに、便所の処へ来て、ヒステリーにかゝつた人の様に泣いた。
――『神さま、どうして貧乏人はこんなに苦しむのですか??』と。
それで、栄一はその一瞬間に決心して、決して之等の貧しい人々が救はれるまで、二枚以上の衣類は着るまい、肉も魚も決して食はぬと神に誓つた。そして後に残つて居る衣類をすつかり売払つて貧民に与へて自分は一枚の着物の使徒にならうと考へた。で、早速内山に頼んで、筒袖の綿入一枚を残して洋服も何にもかもすつくり――と云つても袷一枚に浴衣二枚と洋服一着と袴一つ――を質入することにした。然し内山は阿爺らしく栄一に忠告して、
『先生こんな洋服なんか質入したつて、二足三文ですぞ、一円か一円五十銭にしか取らしません。それよりかあなたがまだ着て居た方がましですよ』と云つて質屋へ持つて行かない。
それで仕方がないから洋服を残して後のものをすつくり質入してもらつたが、全部で七円二十六銭になつた。その金を持つて栄一は直ちに、裏の安さんの処へ出かけて行つた。裏口から這入ると、片目の安さんは、障子も何にも無い家に昼の日中、戸を閉めて、着物が無いので、法被を着たまゝ、垢のギチ/\に着いた貸蒲団に引くるまつて寝て居る。安の側に病身さうな子供が矢張り安と同じ蒲団の中へ足の方から這入つて寝て居る。
おかみさんは古下駄を竈の下にくべ乍ら、砂の這入つた、小米を焚いて居る。今、その飯の湧き立たうとする所であつた。
栄一は黙つておかみさんの後に立つて、
『おかみさん、これは少しですけれども米代にして下さい』と五円紙幣を差し出した。
『へえ、勿体ない。こんなにたんと?…… 安さん!』
栄一は、たゞ黙つたまゝ、紙幣を裏の二畳の上り口に置いて出て来た。
そして、その足でまたおふぢの所へ廻つて、二円を置いて来た。
その晩安は貰つた五円で、酒を呑んで、ぐで/\に酔ひ潰れてお礼にやつて来た。そして、
『新見さん、あなたは、ほんまに神様や、私はほんまにあなたを拝みまつさ……然しほんまに新川と云ふ所はうるさい処やよつて、また、あなたの身体の上にどんなことがあるやらわからん、その時には屹度私が一生を投げうつてあなたをお助け致します』と廻らぬ舌を酒の興に借りて、一生懸命に弁じて居た。