37話 三十六
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『なぜ、こんなに苦悩せねばならぬ様に、自分は造られたのであらう』と栄一は明るい元町筋から、薄暗い新川へ帰つてくる道々さう考へた。
『私はエレミヤのやうに、泣く為めに造られたのか? 自分の為めに泣き飽くと、人の為めに泣かねばならないのだ。
然し、間違つてしまつた世界には、私のやうなものが、いくら煩悶したつて、努力したつて役にはたゝないのだ……貧民窟にはペストが這入つた。女性の△△△の中へ、蛇が這ひ込んで居る刺青を背中にして居る、淫売のおとめが一昨日死んだ。そして、昨日はその阿爺が避病院へ送られた。今朝は岐阜屋の川股と云ふ沖仲仕が同じくペストで送られたと云ふ。おそろしい、おそろしい。然しそのペストの中には猶、迷へる羊の為めに、一人奉仕し無くちやならぬやうに造られた、新見栄一は、何と云ふ不孝な男であらう。……さうだ、私はペスト病に伝染して早く死なう。その方が、早く宇宙の苦悩を見なくてすむ。
金が有つて、救済に従事するのも善いが、金は一文も無いし、昼飯を無くして、二人の同宿者と、飯を分つ為めに、一日二食に減じて……それも、お粥に梅干で辛抱しなくちやならぬと、理想を植ゑられた男は何と云ふ不幸な男であらう。
世の中には、阿娜な女と、絹の着物と、芝居と、音楽がある中に、自分だけ社会改造を夢みて、貧民窟の真中に据ゑられて、泣き乍ら、屍体の片付を命ぜられるのは何故だ?
社会は余りに間違つて居る。……然し云ふまい。たゞ大きな、社会改革の時代を待たう。それまで出来るだけ貧しきものを慰め、新しき日の来るのを待たう。今日の金持の道徳の腐つたものゝ代りに新しいクリスチヤンの道徳を産まう。十字架の道は、貧民窟の路次にあるのだ。――』
さう考へて、栄一はいつも新生田川に架つて居る日暮橋を渡るのであつた。
そして、その橋の名が如何にも、その日暮しの貧民や労働者にふさはしいので立止つて、詩的感興に打たれるのであつた。
一月七日の日曜からは狭いその五畳敷で日曜学校を始めた。七十人も来るので、たゞ騒がしくて、お話も何にも出来なかつた。然し、もう、ちやんと、新川全体の子供は新見を知つてしまつた。朝の礼拝に兵庫の講義所に行つたが、その後にウイリアムス博士は貧民伝道に之から月々二十円づつ補助するから大いにやつてくれと云うてくれた。新見はそれを感謝して受けた。その日の午後婦人矯風会の姉妹達が二人来て新見の家を見て泣き乍ら帰つて行つた。然し新見は泣いてくれる位なら、何故住み込んでくれないかと考へた。
植木は金が欲しいと言つて脅迫を続けた。祈祷会を開いて居る真最中に栄一が『敵を愛する心を教へ給へ』と祈つたのがけしからぬと云うて怒り出した。『敵と云ふのは我輩のことだらう……祈つて聴いてくれるやうな神様なら、七輪の火を蒔き散らしてやるから、火が燃え立たないやうに祈つて見ろ』と、座敷の真中へ七輪を引繰返す。
伊藤や石野が慌てゝ火を七輪の中へ入れると、
『それ見ろ、やはり、神様だつて、火はよう消さないぢやないか』と罵る。
さうかと思ふと、祈祷会がすんで皆が帰つた後で、酒に酔払つて、寒月の冴えて居る前の路次を洗足で兵式体操をやつて居る。
『前へ……オイ、右向け右!』
『廻れ右前へ……オイ』
『善に立ち帰れ……オイ』
と、叫ぶ。さうすると、之も酒に酔払つて、街から帰つて、南京袋の中へ這入つて寝て居る吉田が、家の中から、
『八釜敷いわい、奴畜生、静かにせい!』と狼の様に吼える。
それには、植木はよう反抗しない。そしてたゞ、栄一に毒づくのである。その日植木は金を借らうと思つて、兵庫の新見廻漕店から水木通の講義所、生田教会と、ぐる/\廻つて栄一を探して廻つたらしい。然し結局は家の中へ這入つて、教ヶ島が植木虎太郎になり代つて栄一に謝罪する段になると、植木は着て居た縞の筒袖の袷を裾の方から、バリバリと歯で裂いて居る。そして、
『悪かつた! 悪かつた』と云ふ。そして『今夜一緒に寝させてくれ』と云ふ。それで栄一は『よしや、足を洗つて来い』と云ふと、『水道端へ行つて、水をかぶつて酔をさましてくる』と云つて出て行く。やがてブル/\震へながら栄一の寝床へ這ひ込んで、その冷え切つた身体を、栄一にすり寄せてくる。
こんなにして居るかと思ふと、また金が無くなると、短刀を持つて、栄一を追ひかける。それで栄一は勉めて隠れた。栄一が警察署へ訴へぬと云ふことを知つて居るものだから、一層猛烈に脅迫した。短刀で聖書を切裂いて、
『新見――貴様も今にこんなにしてやるから』と繰返して云うた。
然し栄一は植木に犯罪の機会を与へまいとこそ思うて逃げもしたが、刀を恐ろしいと思うたことは無かつた。栄一には悪漢の系統とその心理が段々よくわかつて来た。それで少しも、怖ぢなかつた。
こんな混雑の中へ、柴田忠吉と云ふ病人が宿銭が払へないので木賃宿の阿波屋で此処へ行けと教へられたと云つて、やつて来た。彼は大阪で友染織工であつたさうで、今年取つて二十八歳だが原籍は神戸で、真の父は亡くて今は義理の父が兵庫東出町で二番の消防の組頭をして居る。放蕩の結果こんなになつて、家には帰れないのだと告げた。
それで栄一はすぐ三年前の夏、苦しい権蔵部屋の生活を送つたのが、柴田の義理の父の家であつたと云ふことがわかつた。それで直にその男を世話することにした。然し家は実に狭い。それに医者に見せると、腸結核だと云ふことが判明した。一週間、二週間として居る中に、柴田はもう立てなくなつた。そして肉が下におりるやうになつた。実に臭い。それを栄一と内山と二人が看護せねばならぬのであつた。一緒に寝て居る伊豆さんには余り気の毒なので、隣の室へ這入つてもらつて、二畳の室を病室にした。それで家があまり狭いので、もう一軒借りねばならぬことゝ思つて居た。
丁度その時――関西学院神学部の竹田君と、八尾君と、橋田君が親切にも、貧民窟の日曜学校を受持つことを申込まれたので、日曜学校の為めにも家が余り狭いものだから、二軒置いて西隣の――六畳の家を借りることにした。
そして、此処が一畳だけ広いものだから、新見と内山はそこへ移ることになつた。
日曜学校も、晩の説教も凡て六畳の家ですることになつた。処がその家の便所を置いて西隣は淫売のおしかの家であつた。それで栄一は、すぐそこの家に寝泊りして居る、三人の淫売婦と親しくなつた。さうすると新川の貧民窟の中にある淫売婦のことも、大阪の飛田と長柄の淫売婦のことも、すつかりわかつてしまつた。親しくなるに付けて、新見は、その中の一人が、十二月の末に新聞に評判された両性の生殖器を持つ淫売婦のおちかであると云ふことが判明した。出歯の醜い顔をした女であるが、新見は改心しないかと勧めた。
さうすると、おちかは食ふ道をつけてくれるなら、今日からでも改心すると云うた。それで、栄一はすぐ神戸養老院の富島のぶえ女史の所へ行つて、理由を述べて、おちかを引取つて貰ふことにした。そして栄一がおちかの風呂敷包みを持つてやつて、富島女史の所へおちかを届けた。