47話 四十六
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四月の第三の木曜の午後で有つた。新見は神戸教会が貧民窟の為めに古蒲団や古下駄や、炭俵など色々のものを集めてあるから取りに来てくれとの伝言があつたので、自ら荷車を曳いて貰ひに行つた。荷は車に山程あつた。それを曳き乍ら彼は坂を下つて北長狭通四丁目に出て来た。そして鉄道に沿うた街上で、ひよつくり田宮鶴子に出会した。
その日、鶴子は手に洋傘を持ち日和下駄を穿いて、極く質素な目のつんだ縞の瓦斯織の衣物を着て居た。そして自分は一枚しか無い筒袖を尻まくりして、炭俵を山程積んだ荷車を辛うじて曳いて居た。もしこちらから鶴子に声をかけなければ、多分彼女は新見を知らずに行き過ぎたであらう。
新見は車を鉄道側の柵の方へ、引きよせておいて数分間立話をした。
『まア、新見さん、何をして居らつしやるの?』と鶴子が聞くから、
『貧民窟へ屑物を貰つて行く処です』と答へた。
その日は曇りで、鉄道側の灰色の空気は特別に重苦しかつた。そして鶴子も何だか元気がなささうに見えた。その日鶴子は広島から阿波へ帰る処であつた。
『ほんとに、出来ない真似ね』と鶴子は軽く答へて居る。少しも油が乗らない。
そこで、栄一はすぐ突き込んだ。
『鶴子さん、あの問題どうして下さるの?』
『あの問題ですか? 叔父が妙なことを云ひますからね、私今の処駄目です、私はもう一生結婚しない積で居るのです。今度思ふことがあつて山の中へ這入る積りなのです……』
『山の中へ? 何処の?』
『小学校の先生にでもなつて、何処かの山の中へ這入らうと思つて居るのです』
『恰度、二年目でしたね……』
『さうね、あなた、お年を取りましたね』
『さうですか、こんな風をして居るから猶ですわね……』
『私、あなたのことをウイリアムス博士の奥様から、先程、すつかり伺ひました、ほんとに出来ないことですね、私にはとても出来ませんわ……』
『それぢや、鶴子さん、私もう一度伺ひますが、あの問題は、もうあれで打切りなんですね?』
『あなたが、さう仰しやると、私何だか苦しいわ。私は、あなたの様な聖い方の真似は出来ないと思ひますわ……』
鶴子は、早や眼に涙を浮べて、唇を妙に噛みしめて居る。
『それでは、鶴子さん、私はもう之で失礼します』と新見は荷車の棍棒を握ると、
鶴子は慌たゞしく、
『一寸待つて下さい、新見さん……』と云つて自分も片手で棍棒を握つた。そして、ハンカチを出して涙を拭いて居る。
『許して下さいね、あなた、どうぞ、許して下さいね』
東海道の上り列車が大きな響をたてゝ通過する。
『…………………』
『私は、あなたの……私は云ひたいことが沢山あるんですけれども、云へません……それでは左様なら……』
栄一も貰ひ泣きを始めた。涙がポツリポツリ街上の埃の中に落ちる。
然し、こんなに若い二人のものが、泣いて居ては人目も悪いと思つたから、栄一は勇気を出して、
『さよなら、鶴子さん。あなたも神様に守られて、達者でいらつしやい』と荷車を前に二足三足挽いた。
さうすると鶴子は人目もかまはず、ハンカチで顔を蔽うて泣き咽んでしまつた。
新見は猶も五歩六歩挽き続けて居ると、鶴子は後から早足で追ひかけて来て、
『新見さん、どうか許して下さいね、どうぞね』と一緒に歩いて来た。
それで栄一は、
『許してくれも何にもありませんよ、凡ては、神様の御心のうちにあるのですから、あなたは、あなたの方向へ進んで行つて下さい。私は、貧民窟で一生送つて、そこで死ぬ積りで居るのですから……神様はあなたをも、私をも守つて下さいますよ』
二人は黙つて生田前まで一緒に歩いたが、そこを少し通り越すと、鶴子は、
『私は、何にも今云ふ勇気がありません、私は穢れたつまらぬものですから……それでは、新見さん、さよなら……』と切れ切れに。
それで栄一は元気よく、
『さよなら、鶴子さん、永久に……』
『それでは……』と鶴子は涙を含めた瞼をあげて、栄一の眼を見た。
眼と眼とが会つた時に、栄一は神秘の極度に包まれて居る様な気がした。鶴子の秀でて叡智に充ちた美しい頬に何処となく憂ひが漂うて居た。
二人は三四秒も互に凝視して居たが、鶴子はまた視線を街上の土の上に投げた。そして、黙つたまま足を返して西の方へ歩いて行つた。栄一は後を振り向きもしないで、車を進めた。涙は頬を伝うて流れた。