48話 四十七
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突然、笑子が台湾から帰つて来た。
それは、日本晴に美しく晴れ渡つた、四月の十八日の朝であつた。鍛冶屋町の村井から会社の方へ電話がかゝつて、鍛冶屋町へ会ひに来ないかと云ふのであつた。
それで、栄一は支配人小林の許可を得て、鍛冶屋町へ会ひに行つた。足懸け三年も会はなかつたので、話が多過ぎて却つて言葉が無かつた。
『お父さんも居らつしやらない……』と笑は云うて黙つて泣いて居る。さうして二三分も経つと、又、
『益則と義敬は安井の叔父さんの処へ世話になつて居るさうですない……』と云つて泣く。そして、それに対して栄一は多くを云ふ勇気は無かつた。また三四分間も黙つて泣いた後に、
『東馬詰の、あの大きな家も、毀されてしまつたさうですな……』と云ふ。
笑子はたゞ黙つて泣き続けて居る。それで栄一も黙つて泣いた。
笑子は丸髷に結うて居る。若いお嫁さんである。顔色を見るも可哀想な程焦げて居る。台湾に長く居る人はみなさうであるが、内地の人々にみるやうな血の色は無くなつてしまつて、顔は土色に変るのである。笑は顔の形の悪い女では無い、美人と云ふ方では無いが、さりとて、醜い方では無い。ただ少し黒ずんで居た方であつた。然し十六七の時、即ち三四年前は、頬に紅をさした様に血の気が有つて、時には小黒いなりに美しいとも見えたが、台湾は笑子の健康には合はないらしい、全く焦げて居る。
それで妹思ひの栄一は、特別に笑が可哀想だと考へられて、涙を抑へることが出来なかつた。
やがて、栄一は笑を連れて、葺合の貧民窟に帰つて来た。
道々、栄一は笑の嫁入して行つた先の事情を一々聞いてみた。また妊娠して居たと云ふが、どうしたと聞いてみた。さうすると笑は、主人が自分より、十三も年上であること、そして佝僂であること、そして子供は流産したと極く簡単に話した。
何故帰つて来たと尋ねると、『徳島のお母さんが、リウマチで身体が不自由で困つて居るから、帰つて来てくれと云ふ手紙が来たから看護に帰つた』と云ふ。
『それでは、何日頃台湾に帰る積りか』と尋ねると、
『もう帰らない』と云ふ。
『何故帰らないか』と尋ねると、その理由を云はない。たゞ亭主のお母さんと云ふのが六ヶ敷い人だとのみ答へる。
それで、栄一はそれ以上、笑の急に帰つて来た理由を尋ねる勇気も無かつた。沈黙勝ちで二人は、貧民窟まで歩いて帰つたが、久し振りに帰つて来たのであるから、御馳走でもしてやりたいと思つたが、貧民窟ではどうとも出来ない。上つて坐れと云つても座蒲団もなし、兎に角広い室の方では、あまり家らしくないからと、台所にして居る六畳敷の方へ這入つてもらつた。それも奥の三畳には、おしづが寝て居る。恰度十二時であるからと云ふので二人は極く簡単に食事を一緒にしたが、笑子は何となしに喜んで居る。矢張り自分の家に帰つた様な気がすると云うて居る。さう云ふ言葉を聞いて、栄一も猶涙を流した。
食事の済んだ後で、笑は内山が洗ふと云ふものを取り上げて、他所行の衣服の上に襷をかけて、せつせと雑仕をして居た。栄一もそれを見て、矢張り兄妹と云ふものは善いものだと、心のうちで喜んだ。