寺田寅彦の追想

2話 寺田寅彦の追想(2)

7,743字 約15分 2018年11月28日 公開

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 この日記の内容は、その次の日、先生が実験室へ来られた時の話の方が、もっと面白いのである。

「昨日はまるで面目を丸潰しさ。馬鹿々々しくてお話にならぬ実験をしておいて、それで今頃は、学者なんて、いい加減なことばかり言っていると、盛んに吹聴しているだろうな」というふうに話し出された。

「あんな三十メートルも高い所に気球を吊して、下から水兵が角のような眼鏡で覗いて、アンメーター異状ありませんなどと言っているんだもの。僕達には硝子が光って、ちっとも見えないのに、水兵は平気で見ているんだから驚いたよ。『スパークはとびません』などと言っているんだが、一尺もあるスパークならとにかく、あんな日中三十メートルも上のスパークなど見えるものか。とにかく馬鹿馬鹿しい話さ。それでだ。こんな実験をしてもらいたいんだ。水素をゼットから噴き出して、どのくらいの小さいスパークで点火するかを調べてくれ給え」

 これが『球皮事件』の発端なのである。湯本君も私も血の気盛りの年頃である。「先生の仇(かたき)をとるんだ」と、その晩から毎日夜の十二時まで猛勉強を始めるという騒ぎになった。おまけに先生の霞浦行の日は大変寒い日であって、あの吹きさらしの飛行場の寒風の中で、長い時間立たされたのであるから、まだやっと恢復途上にあった先生の身体がもつはずがなかった。「どうも風邪をひいたようだ」と言っておられたが、次の日から三十九度いくらという熱が出たというので、しばらく学校を休まれた。「先生の仇をとる」というのが、ますます実感が出て来たわけである。事実この頃になって先生の日記を読み返してみると、発熱の当夜は「気球の布に Spark を出す実験のような問題が終始頭にコビリついて、同じ事を繰返し繰返し夜中考えていた」とあるくらいで、よほど深刻な印象を受けられたようであった。

 この大正十三年の年は、先生の健康がようやく取戻された年であって、五月には理化学研究所の主任研究員も引受けられ、地震研究所の設立にも重要な役割を果され、その後の多方面にわたる華々しい研究の基礎が出来た年であった。この年の日記の最後には「要するに今年は、数年来眠っていた活力が眼をさましたような気がする。いつも元気で気持が明るかった、学校の食堂でもいつも愉快に人と話が出来た、人の悪口などが気にならなくなった、そういう自覚が更にそういう傾向を強めた。……」と、先生自ら書いておられる。まことに千載一遇の好機に、先生との親しい接触を得るという幸運に遭ったわけである。

 航空船爆破の実験は、年明けて大正十四年の一月に入って、俄然活況を呈して来た。それは航空船の気嚢の材料たる球皮の見本が、海軍から届けられたからである。湯本君が海軍省へ出かけて行って、T大尉に会って球皮のことを頼んだら、海軍の一部の技術将校たちは、原因が無電ということになると自分たちの失策になるから、何とかして不可抗力にしてしまいたいとしているということであった。T大尉自身も非常に怪しからんことであると憤慨していた。それで球皮はいくらでもやるから、どんどん実験してもらいたいという話であった。湯本君と二人で「そんなことでは海軍の将来も先が見えている」などと、生意気なことを言って、大いに気勢を揚げることにした。もう二十五年も昔の話であるが、事実病根は遙か遠い所にあったのである。

 実験はすらすら進行して、球皮の上で小さいスパークが沢山出ること、その小さいスパークで充分水素のゼットに点火し得ることが確かめられ、一応の結末はついた。しかし本当のところは、SS航空船に使っていた本物の無電発信器で発信して、そのスパークで火を点けたいのである。先生も一月十三日に「海軍省へ手紙を出し球皮を届けて貰う事、SSの無線装置を借りる事」を依頼されたのであるが、その無電器がなかなか来ない。湯本君がしびれを切らして、その発信器の納入元である東京電機へ出かけて行った。技師長級のSさんに会って、詳しい話をして発信器を一台借りたいと頼んでみたが、断られてしまった。東京電機でその実験をやらしたことが知れると、あと機械を買ってもらえないことになると困るからといって、どうしても承知しなかったそうである。それでは球皮を持って来るから、一寸使わせてくれと言っても、それも駄目であった。嘘のような話であるが本当のことなのである。

 その発信器は、査問会の予定日、一月二十一日の前日に大学へ届けられたが、大事な部品が足りない。同時に速達が来て、明日の査問会は中止と言ってきた。査問会に間に合わせようというので、毎晩十二時まで連日大いに奮闘したつもりだったので、大いにがっかりした。先生も「僕は今夜の懇話会を欠席してこれを纒めるつもりにしていたんだが、がっかりしたね」と言いながら、とにかく報告を持って帰って行かれた。少し肝癪をおこして『国民』と『都』との「航空船爆破の実験」の記事を切抜いて朱点をつけて、実験室の壁に貼っておいた。先生は「これは額にして、スパークの写真と一緒にかざっておいた方がいいでしょう。君たちもなかなか人が悪いなあ。しかしこのお蔭で実験がはかどったわけだね」と笑っておられた。球皮の材料にしても、無電器にしても、本来ならば先方からどんどん運んで来て、早く実験をしろと催促されてしかるべきことなのである。それがまるで逆の形になっているのだから如何にも不思議である。意地悪く考えれば、先方でこっそり自分の手で実験するために、故意に引きのばしているのかもしれないと考えられる。この間二度ばかり海軍の技術者が実験を見に来ていたし、それにそういう風評もつたわって来たので、湯本君も私も大分気を悪くした。

 待ちに待った無電発信器の部品が届いたのは、二月六日のことであった。持って来た技師の人は、親切にいろいろと使用法を教えてくれた。早速やってみると、アンテナ電流で充分スパークが出る。もうアース電流だけ調べてみれば、それでこの研究も大団円であると、大いに勉強してみたが、肝腎のその方は駄目なようである。球皮を入れるとすぐ発信が止まってしまうので、スパークは勿論出ない。少々心細くなったところに、海軍省から、「SS航空船爆破の実験はいつ見せてくれますか」という二度目の電話が来る。「今夜は徹夜だぜ」と湯本君と二人で、大いに悲壮なつもりの決心をした。ところが夜になって、気がついたことは、ゴンドラに相当する電気容量がはいっていないということである。なあんだということになって、早速適当な容量を入れてやってみると、盛んにスパークが出る。そしてそのスパークでどんどん水素のゼットが点火する。「水素点火、万歳、二月九日」と、実験帳に書いて、意気揚々として帰って行った。幸先のよいことには、この日の朝、海軍某少将が実験を見に来て、研究の重要性を認めて、研究費年額一千円を出してくれることになったことを先生から聞いていたので、勇気百倍していたわけである。寺田先生ほどの学者が、これだけの騒ぎをして、やっと年額一千円の研究費を貰われたのである。これも嘘のような本当の話である。

 延期を重ねていた査問会は、二月二十一日に開かれた。田中館、田丸両先生を始め、少将、大佐級の偉い人たちが、十九人狭い実験室にぎちぎち詰めになる。いろいろな電源でスパークを出させ、最後に無電器のスパークで水素に火をつけてみせると、大いに効目があった。「これじゃとても怖くて飛行船には乗れないな」「士気に関する大問題だよ」と小声で話し合っているのが聞える。そのうちに壁の新聞の切抜が目に止まって「おい、これこれ」ということになる。先生は「どうもこんな狭い物置のような部屋で困ります」といい御機嫌であった。

 無電を打ちながら水素に点火してみせると、田中館先生が「もっとキャパシティをいろいろかえてやって見たらいいんだが」と言われる。「実は大学にはもうありませんので」というと「それじゃ仕方がないな、こんなもの海軍へ行けばいくらでもごろごろしてる」と、老先生は遠慮会釈なく、大きい声で言われる。先生はひとりでにやにやしておられた。

 最後の決定案を作る査問会は、三月四日に海軍省の第一会議室で開かれた。海軍から迎えの自動車が来たが、私はまだ学生であったので、遠慮して助手席に乗って行った。海軍省は初めてだったもので、円天井の高さと、ステンドグラスに一寸肝をつぶした。会議の席では、海軍の将官連が真ん中に坐り、向側に田中館、長岡、田丸、岡田、寺田というような先生方が並ばれ、手前の側に海軍の技術関係の委員たちが着席という物々しいものであった。先生は黒板の前に立って、小さい声でぼそぼそと説明をされ、最後に「この球皮は非常に複雑な電気的性質を持っているもので、一寸教科書に書いてあるようなことで説明出来るものではありません」と誰にもわからないような気焔を少しばかり揚げられた。

 それに対して、霞浦の立合実験以来の当事者たるF中佐が立って、無電器の性能の説明をいろいろしたが、あまり反響はなかったようで気の毒であった。それから一通(ひととお)り委員達の話があって、いよいよ査定書を作ることになった。その文案が黒板に書かれ、今までの導体主義を止めて絶縁体主義を採るということになった。そうしたら突然F中佐が発言を求めて立ち上がった。「SSのような精鋭な武器を、わずかそれくらいの机上の実験で放棄することは、海軍のため、国家のためにしのびない。実際に飛行船を飛ばせて、無電を打ってみて、誰か吊縄の先にぶら下がって、果してスパークが出るか出ぬか見てみましょう。そのためにもし飛行船が爆発しても、それくらいの犠牲は国家のためには止むを得ません。その吊縄にぶら下がるのは、私がぶら下がります。」最後の方は声ばかりでなく、身体もわなわなとふるえていた。一座はしんとなり、一陣の冷たい妖風が会議室を吹き抜けたような気がした。しばらくは誰も発言する人はなかった。そうしたら田丸先生が、いつもの真面目な顔付で「それもよいが、それで火花が出なかったと言って、安全だということは出来ますまい」と言われた。

 F中佐の発言は、当事者としてはもっともな発言で、事実そういう実験もしてみたいのである。しかし先生はこうなると意気地がなく、あとになってから「あの時は実際いやな気持になったね、何だか呪われているような気がして、ぞっとしたよ。もっともF中佐の言うことも本当なんだが」と述懐しておられた。

 最後に委員長からこの球皮を製造していたF電線会社の社長さんに、何か意見が無いかという質問があった。この社長は傍聴という資格で参列していたのである。頭のはげたその社長さんは「それはもう、この球皮は他のものとくらべものにならぬくらい、良いところがあるのですが、そんな怖いものでは、どうも致し方ありません」という話をした。何でも二十年もかかって、ようやく日本でこのアルミニウム・ドープの球皮が出来るようになったので、今止められては会社としては大損害で、惜しいのですがということであった。実際風雨に対する耐久力とか、太陽光線の反射率とかいう点では、アルミニウム・ドープは非常に優秀な性能があるので、何とかこの儘で電気的性質の改良が出来ればよいのであるが、当座のところは仕方がないのであった。実は英国でもこの事件の数年前に、同じような飛行船の爆発事件があり、その時の査問委員C・T・R・ウィルソンが、この球皮を廃止してしまったのであった。それは後になってケンブリッジでウィルソン先生に会った時にきいた話で、先生は「君の方でも調べたのだろう。あれはいかんよ」と笑っておられた。

『球皮事件』も無事片付いて、間もなく私は大学を卒業して、先生との前からの約束どおり、理化学研究所で先生の助手をつとめることになった。もっとも理研の先生の実験室というのは、まだ建てっ放しのままになっていて、ガスも水道も室内の実験用配線もしてないという部屋であった。制度の上では寺田研究室という新しい研究室が出来、長岡研究室、西川研究室、高嶺研究室その他の前からあった物理方面の研究室と並んでいたが、実際は人員からいっても、先生と私と、あと小学校を出たばかりの山本君という若い人と三人だけの小さい研究室であった。前からあった研究室は三号館という物理専門の建物にあったが、寺田研究室だけは、二号館という本部と工科方面の研究室とのある新しい大きいコンクリートの建物の中に割り込んでいた。部屋は二階に先生の居室があり、下に私と山本君とがいる実験室があっただけである。設備がまだ全然無いので、とても急に其処で実験を始めるというわけには行かないので、夏休までは、大学の旧(もと)の実験室で仕事をつづけ、その間にぼつぼつ器械を買い集めたり、実験室の装備をととのえたりすることになった。

 球皮の実験は、航空船爆破の原因探究としては、一応任務を果したわけであるが、その特異な電気的性質は、そういう問題をはなれて、純物理学の問題としても、非常に面白いものであった。というのは、このアルミニウム・ドープというのは、アルミの粉を塗料にまぜたもので、電気の良導体の粉末が絶縁物の中に沢山雑ったという特殊な材料である。そういう heterogeneous medium 中及びその表面に沿っての火花放電という問題は、従来の物理学では、比較的無視されていた部門なのである。それで先生は、この球皮の実験を、そういう観点の下で、さらに続けることにされ、私が大学の実験室で、専らその仕事に当ることになった。

 この研究は Some Experiment on Spark Discharge in Heterogeneous Media ― A Hint on the Mechanism of Lightning Discharge. という報告になって発表されている如く、意外な方面に発展して、電光の放電機構に関する一新説を提供することになった。その説には岡田先生などもかなり興味をもたれたらしく、その『気象学』の中に、詳しく紹介されている。そればかりでなく、よく考えてみると、普通の空気中の電気火花にも heterogeneous medium の考えが必要であることに気がついた。火花が少し長くなると、いろいろ屈曲した形を採り、またその精密な写真を撮ってみると、決して一本の光の紐ではなく、その内部に縄をなったような明暗のこまかい構造がある。そういう現象の説明には、空気に何らかの不均一性を賦与する必要がある。

 この電気火花の形および構造の問題は、十数年前から先生が少しばかり手をつけられた問題である。その後放棄された形になっていたのであるが、球皮の実験から、不均一媒質中の火花放電という観点に立って、再び採り上げられることになった。

 八月の夏休中、たびたび催促したのであるが、理研の実験室の装備はなかなか進捗しない。先生の日記に「八月十七日 月曜 朝中谷君と理研行、水道流シノ位置ヲキメル」とあるように、水道の取付けにまで先生自身を煩わす始末であった。到頭九月十三日の日曜に「理研ではまだ配電も出来ず、机戸棚も未成、水道だけ今日完全」という状態で、無理に実験装置の移転をしてしまった。そして電気火花の研究をかなり大規模に此処で始めることになった。

 この頃は、先生は数年前から航空研究所の所員として、毎週金曜日に航空の方へ行くことになっていたが、その他は、大学の方は実験室の見廻りと用事のある時だけ顔を出され、あとは大抵は理研の二階の部屋で、静かに勉強しておられた。「数年来眠っていた活力が眼をさまして来」て、先生の頭は異常な活動を開始しようとしていた。この年の発表論文五篇、翌大正十五年に七篇、次の昭和二年が十一篇、昭和三年が二十六篇というふうに、驚異的な進展をみせて行こうとする、その準備が、この頃もちろん先生にも意識されずに、着々と出来ていたのであった。

 外的条件も丁度そういう研究陣の展開に、豊かな支援をあたえる方向に向いてきた。この時代が来るまでの大学での二十年間の先生の研究生活は、あまり恵まれた状態にはなかった。『冬彦の語源』にも書いたように、先生は終始周囲に気兼ねばかりして、古ぼけた器械ばかり持ち出して「変な実験をやって途方もない理論をそれにくっつける」ような研究をしておられた。「今理研におられる先生方が大学で実験をしておられた頃は、電気なんかの新しい流行の実験をすると、すぐ蓄電池のパワーが足りなくなるし、器械を買ってもらうのも大変だったし、遠慮ばかりしているうちに、到頭物理の方まで、吉村冬彦になってしまった」のであった。しかしそれは先生の本当の希望ではなかった。事実先生が恩賜賞を受けられた研究「ラウエ映画の実験方法およびその説明に関する研究」は、その後ずっとこの方面の研究の基礎となっているブラッグの研究と殆んど同時に、むしろ少し先んじてなされた研究であった。その研究の如きも、医学部で使い古した廃品に近い状態のX線管球を貰って来て実験をされたのであった。

 大正十四年に理研の研究室が、とにかく仕事を始めるまでに整備されると引きつづいて、翌十五年の一月には、地震研究所が完成して、先生はそこでも所員として、研究室を持たれることになった。そしてその年の四月、新しい卒業生が出ると、その中から、坪井忠二君を地震研究所に、筒井俊正君を理研に、玉野光男君を航空研究所にと、それぞれ配置されて、此処で寺田教室の研究陣が一通り揃うことになった。大学ではその外に湯本君が海軍の嘱託として水素の燃焼の研究をつづけ、桃谷君が大学院学生として、霜柱の研究の準備実験たるリーゼガング現象の研究をしている。それから二年目の学生の実験にも、器械は使わないがちゃんとした研究題目を与えておられた。

 十五年二月の日記には、研究題目と担当者のリストがあり「これでもう手いっぱいになった」と記されている。

   ┌中谷  Spark

理研 ┤

   └筒井  Thermoelectricity

   ┌玉野  Fluid motion, Wind, Powder

航空 ┤

   └服部    〃     〃

   ┌坪井  Elastic waves

地震 ┤

   └(山口)Tide

海軍 {湯本  Hydrogen explosion

   ┌――― Fluid motion

物理 │

   ┤――― Fire

学生 │

   └――― Thermoelectricity

大学院{桃谷  Liesegang's phenomena

 この他に気象台諸氏の相談相手になる。

 この頃談話会がだんだん多くなった。月曜航空、火曜午後物理学生、夜物理卒業生、水曜地震、木曜夜理研、(ただし三月から)また火曜地震研究所の談話会が月一回この他に金曜夜弘田 violin, 木曜セロ(三月中旬から水曜にする)

 小宮、松根君と連句もやる……

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