3話 寺田寅彦の追想(3)
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この先生の日記が何よりも明かに物語っているように、超人間的な先生の精神活動がいよいよ開始された。しかし当時のことを思い返してみると、先生はいつも瓢然とした姿で実験室に顔を出され、昼食にはきまって銀座へ出て行かれて、竹葉か三越かで食事をとり、あと月あたりでコーヒーをのんでゆっくりして帰って来られた。そして僕は三時間労働説なんだとにやにやしておられたものであった。本当の意味での精神労働を毎日三時間やって、それを年中続けるということは、如何に困難なことであり、そしてそれが如何に偉大な業績を生むかということを、先生は実例で示されたわけである。朝から晩まで忙しい忙しいと走り廻っている大学教授で、一日平均したら一日一時間も本当の勉強はしていない人が案外多いようである。
こういうふうに、先生の精神活動が最高潮に達して来ると、大学で官吏としてのつとめ、特に同僚たちとの間の気づかいというものが、先生にはだんだん耐えられない負担となって来た。この二、三年のうちに、佐野先生が死なれ、長岡先生が停年で止められ、田丸先生も第一線を退かれ、大学は新しい陣容で再出発しなければならないことになった。しかしその新しい大学の雰囲気も、先生の趣味には合わなかったようであった。大学を止めたいということも、二、三度洩らされたことがあった。初めは冗談のつもりで聞いていたが、そのうちに「僕は今度いよいよ決心をして大学を止めるよ。ああいうところにいたら、僕は死んでしまう。大学の事情もあるだろうが、生命にはかえられないから」と真剣な顔付で言われたので、びっくりした。そしていろいろのいきさつの末、昭和二年の三月にようやく理学部の教授を辞して、地震研究所の教授となられた。初めは大学を完全に止められるつもりだったらしいが、それは大学にとっては大問題であって、理学部長から総長まで乗り出して、必死の引止め策を講じ、ようやく地震研究所の教授として残られることになった。
昭和二年二月の日記に「昨年末から辞職を申し出してあったが教室の方では承認してくれ教授会まで持ち出されたが、総長が藤原君から聞き込んで切に留任をすすめられるので一時地震研究所教授として留まり時機を見て理研専任になることにした」とある。先生がどうしてそんなに大学を嫌われたかはわからない。しかし「生命にはかえられないから」とまで思い込んでおられたことは事実である。驚いたことには、この前に先生は東大を止めて法政大学につとめたいという「就職運動」までされたことがあったのである。寺田先生の就職運動というのは、恐らく天下の珍事件であったにちがいない。
この珍事件のことは、思想の『寺田寅彦追悼号』に野上豊一郎さんが書かれるまでは、全然知らなかった。先生が理研へ入られない前のことというのであるから、大正十三年の正月から早春にかけた頃のことであろう。先生が法政大学の野上さんに「お願いがある」と電話をかけておいて訪ねて行かれた。そしていきなり「僕を君の学校で使ってくれないか」と言われた。実は不愉快なことがあるから大学を止めようと思う、法政大学の予科では物理は教えてないかときかれたそうである。予科では物理を教えていないというと、それなら自然科学でも数学でもよいと言われたので、野上さんはひどく驚かれた。しかし法政にとってはこれは大変うまい話なので、学長から会計主任まで相談して、待遇案も出来上がり、野上さんがその案をもって先生を訪問された。そうしたら「寺田さんはきまりのわるそうな顔をして、実は君、甚だすまないが、その話はちょっと見合わせてもらえまいか」ということになり「鳶に油揚をさらわれたよう」なことになってしまった。実はその間に理研入りの話があったので、野上さんもその方が先生のためにはよかろうと思って「持って行った話はあっさり引っ込め」られたのであった。
大河内先生が、大学に先生を訪ねて、理研の所員にならぬかと相談をされたのは、大正十三年の四月十八日のことである。先生はすぐ承諾されたものとみえて、五月にはもう正式に理研の主任研究員となっておられる。大学の方へ正式に辞表を出されたのは大正十五年の暮であるから、二年半も前から決心をしておられたわけである。
先生が野上さんを訪ねられたときの不愉快な事情というのは、野上さんも立入っては聞かれなかったそうである。しかしそれは法政の予科で数学の教師になろうとまで思いつめられたもので「生命にはかえられな」かったものであったにちがいない。先生が大学を止められて大分してからのことであるが、秋晴れの或る日一緒に理研から大学まで行ったことがある。大学の正門をくぐる時に、先生は「いいお天気だね、僕はこんな晴れ晴れとした気持で、この門をくぐることは考えていなかったよ。今までは、いつでもこの正門をくぐるたびに、いやあな気持になったもんだが」と言われた。いかにも実感のこもった声音であった。
大学をやめて理研と震研と航研との三つの研究所に拠って、先生が恐らく理想とされた研究の生活が始まった。そして前にも言ったように、この昭和二年には十一篇の論文が英文で発表され、翌昭和三年には英文二十二篇、邦文四篇の論文が印刷されるという状態であった。そしてその精神活動は、ずっとほぼそのままの調子で、亡くなられる年まで続いた。先生の英文は、この頃の一般の大学教授の文章などとは比較にならぬ立派なものであった。ロンドンで英国の中央気象台長のG・C・シムプソン博士に会った時に、先生の電光及び火花の論文の話が出たが、シムプソン博士は「寺田の英文は、大学出の英国人程度だ」と褒めていた。後になって映画に凝っておられた頃、“Image of Physical World in Cinematography”という英文の随筆を、イタリアの“Scientia”という雑誌に書かれたことがある。ちゃんとした essay であって、このエッセイの紹介がネーチュアの紹介欄に出た時は、さすがに先生も一寸お得意のようであった。これを書いておられる頃「どうも随筆も英語で書くと、書いているうちに、いつの間にか程度が高くなるね。読者を意識するつもりはないがやはり向うの方が少し程度が高いようだ」と言っておられた。
先生の日本文の方は、これは今さら述べ立てるまでもない。ただああいう立派な文章が、少なくも外見上は殆んど何の苦労もなくすらすらといくらでも流れ出ることが不思議であった。原稿なども非常に綺麗であった。ところどころに二、三字消したり直したりしたところがある程度で、まるで一度清書をされたのかと思うくらいのことが多かった。それは手紙を見ると一番よくわかるのであって、先生の手紙は漱石先生の手紙と並ぶべき、或る場合にはそれ以上に面白い手紙である。全集にある小宮さんや藤岡君宛の手紙には、先生の面目が躍如としているという以上に、非常な名文である。ロンドンで頂いた手紙の一節を引用してみよう。
しかし冬の自然は実に美しいと思候、春や秋の美しさは、三越松屋の売出しの帯や長繻絆の如く、冬の霜枯の山川はまことにローマ宮殿に古きゴブランの壁掛のくすんだ渋い美しさにも比ぶべくか、或いはむしろ古陶器古銅器の美しさにも譬うべくかと存候
上野博覧会たしか今日あたりから開会、その外フランス美術展もあるはず、ザワザワとのぼせて南の空風に縁側のふいてもふいても黄塵の積る時節となり候……。
二伸 林檎の花さくの頃のイギリスの田園の景色は実に忘れ難き美しさに之有候、その頃のケンブリッジ、またオックスフォードの大きな大学街を観ることをお忘れなきよう願上候。
テームズ上流、サムベリー辺のボート漕ぎにも是非一度お出なさるべく、レディ二、三人御同伴緊要に付これも念為御注意まで、ただしラヴしてもラヴされてもこれは困る故その辺は御如才なく、これまた老婆心までに一言申添候、
君と話をしているつもりで書いていたらお蔭で汽車の進み早く、夕陽既に村外れの火の見柱にかかり「コガー・コガー(註 古河)」と呼ぶ駅員の声も何とやらん夕淋しくそぞろに旅情をさそう。想うに君は今頃はどの辺にや、ポートサイドでレセップ〔ス〕の像にグードバイでもしておらるるにや、君は春秋に富んで世界の学界への船出の旅、われは隠居仕事に「よろず研究御あつらえ所」のささやかなる看板に世をしのびて碌々余生を送るもあわれなりける。
此処でこの手紙の一節を引用したのは、これが汽車の中で書かれたものであるという点を言いたかったからである。昭和三年の三月、大陸移動説を実験的に確かめる研究の準備のために測地委員会の仕事として、羽後の飛島まで旅行されたことがある。その帰りの車中で書かれたのがこの手紙であって、かなり長い手紙の四分の一ほどを転載したものである。私はその二月に立って英国への途上にあった。先生は旅行嫌いで有名であり、汽車にのるとひどく疲れられた。私達健康なものでも車中で物を書く時には、文章は乱れがちになる。この手紙は、先生が長途の旅行の帰りで非常に疲れた状態で、しかも弟子への手紙のことであるから、気を使わずに書き流されたものであろう。それがこういう文章になるということは、実に驚くべきことである。
以上の話は、先生が大患以後、活力をとり戻され、それが異常な発展をとげて、絢爛たる研究生活にはいられる転換期の四、五年間のことを主に書いたことになる。昭和三年に私は文部省の留学生として英国へ行き、五年に帰朝して、そのまま札幌の大学へつとめることになった。その後先生の臨終の枕頭に立つまでの五年の間、遠く北海道の空から、先生の物理学が寺田物理学とでも称すべき新しい学問に発展して行く姿を、驚嘆の念をもって眺めていた。
物理学のような、科学の中でも特に基礎的な学問に、寺田物理学というような個人の名前をつけることには、異論がある人が多いであろう。特にこの大戦の前および最中に、日本科学というような名前が、思慮の浅い人達によって濫用されたことを思えば、そういう日本的な物理学と解されるような言葉を使うことは、誤解を招く惧れが充分ある。
日本科学の提唱者たちは、国家が非常事態に臨んでいるから、そういう国家意識に目覚めた科学が必要であるという論旨のようであった。しかし私はそれとは反対の意見をもっていた。昭和十三年十一月の中央公論に『語呂の論理』という小文を書いたことがある。支那事変勃発の次の年のことで、国民一般が熱病にうなされ始めていた頃で、日本科学などもその波に乗って火の手を揚げた時代である。その小文の中で『北越雪譜』の中の一節を引用して、次のようなことを書いた。
「天は西北にたらず、地は東南に足らず」というふうな科学がもし出来たら、よほど面白いものが出来上るにちがいない。もっともこれは少し冗談であるが、それ程でなくても、現代の自然科学はいわばギリシア人の思考形式から発達した学問であるとはよく言われていることである。東洋の特にわが国のように長い間比較的孤立して特殊の文化をもって来た国に、特殊の科学が誕生する可能性はないことは無い。しかしそういう別の科学が出来たら、その応用方面も別に開かれると見るのが至当であるから、それはすぐに現代の機械工業や軍需工業の方面に、急には役立たないところの或る別のものになると考える方が本当に近いであろう。とにかく、今はわが国は未曾有の非常時局に直面しているのであるから、取り敢えずは、日本意識に眼覚めた科学などに注意を向ける暇はないはずである。……
ところが極く一部の人ではあるが、日本意識に眼覚めた科学などを起そうと企てている人の中には、こういう非常時に遭遇している際だから、特にそういう問題が必要だと思っている人もある。そうすると今の話とはまるで反対の結論になってしまう。まことに不思議なことである。
ところが、今日ではまるで事情が一変してしまっている。もう軍需工業や新兵器製作の基礎になるような科学は、今後の日本では必要がない学問である。それにやりたいと思っても出来ることではない。器械も測器も材料もまるで米英諸国とは比較にならないのであるから、対等の位置で科学の研究が出来る見込みは、今後相当長い期間にわたって、まず絶望である。いくら一所懸命になっても、草鞋ばきでジープを追っかけるようなもので、追えば追うほど、距離がひらくばかりである。今後のわが国の科学は、好むと好まざるとに拘らず、日本的な科学になるより仕方がないことになるのであろう。
ところがこの頃の要路の人たちの科学振興論は、きまって世界的な科学というような言葉を口にしている。それで文化日本を再建しようというのであるが、私にはまるで空虚な議論としか思われない。日本科学など口にすべからざる非常時に、日本科学を疾呼し、今世界科学に伍し得ない国情に陥った時に、世界科学を論ずるのは、いずれも言葉の遊戯である。或いは生活の資料であるのかもしれない。
問題は結局、本当のところ、新しい意味での日本物理学というものが、成立するか否かにかかるであろう。それについては、実は前から少し考えていたのであるが、おぼろに黎明を感じているだけで、未だその可能性を言い切るまでには到っていない。昭和十年の二月といえば、支那事変より二年前のもう旧い話であるが、その頃の東京朝日に次のような一節を書いたことがある。
『思想』十一月号の和辻氏の『牧場』は面白い。欧州ではローマの唐傘松が自然の姿であるが、日本では襖絵のうねった松の形が自然である。自然が従順であることは自然が合理的な姿に自己を現わしていることで、その見解から欧州の自然科学の発達の経路を理解することが出来るというのは一応考慮すべき意見である。この意味で日本的な物理学の発達もまた不可能ではない。その一つの試みと見られるものは、理研の寺田寅彦博士の研究室の業績である。
その例としては、割れ目の物理学や粉体の力学などが挙げられるであろう。原子の世界においては確率のみが自然法則として成立するのに対し、割れ目の物理学はわれわれの経験世界における確率の物理学の一つの姿である。理研彙報に邦文で発表されている『割れ目と生命』の論文の如きは一部の読者には興味があることであろう。
先生はいつか「物理学者としては随筆など書くような不幸な目にはなるたけならば会わない方が良いのだ」という意味のことを言っておられた。物理学においても肩書のつくような物理学を考えなくてもいい時が、一番幸福な時代なのである。しかしわれわれの祖国は日本物理学というようなことを考えなければならないような不幸な境遇に落ちてしまったのである。『寺田寅彦の追想』を書いているうちに、筆がいつかそういう方面に向いてしまった。「寺田寅彦の再認識」という言葉を、そういう悲しむべき事情の下で口にすることは、まことに淋しいことであるが、現実を直視することも、先生の遺訓の一つであるから、致し方がないであろう。
(昭和二十一年九月)