眉かくしの霊

1話 眉かくしの霊(1)

7,260字 約15分 2001年6月7日 公開

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      一

 木曾街道(きそかいどう)奈良井(ならい)の駅は、中央線起点、飯田町(いいだまち)より一五八(マイル)二、海抜三二〇〇尺、と言い出すより、膝栗毛(ひざくりげ)を思う方が手っ取り早く行旅の情を催させる。

 ここは弥次郎兵衛(やじろべえ)喜多八(きだはち)が、とぼとぼと鳥居峠(とりいとうげ)を越すと、日も西の山の()に傾きければ、両側の旅籠屋(はたごや)より、女ども立ち()でて、もしもしお泊まりじゃござんしないか、お風呂(ふろ)()いていずに、お泊まりなお泊まりな――喜多八が、まだ少し早いけれど……弥次郎、もう泊まってもよかろう、のう(ねえ)さん――女、お泊まりなさんし、お夜食はお(まんま)でも、蕎麦(そば)でも、お蕎麦でよかあ、おはたご安くして上げませず。弥次郎、いかさま、安い方がいい、蕎麦でいくらだ。女、はい、お蕎麦なら百十六(もん)でござんさあ。二人は旅銀の乏しさに、そんならそうときめて泊まって、湯から上がると、その約束の蕎麦が出る。さっそくにくいかかって、喜多八、こっちの方では蕎麦はいいが、したじが悪いにはあやまる。弥次郎、そのかわりにお給仕がうつくしいからいい、のう姐さん、と洒落(しゃれ)かかって、もう一杯くんねえ。女、もうお蕎麦はそれぎりでござんさあ。弥次郎、なに、もうねえのか、たった二ぜんずつ食ったものを、つまらねえ、これじゃあ食いたりねえ。喜多八、はたごが安いも(すさ)まじい。二はいばかり食っていられるものか。弥次郎……馬鹿なつらな、銭は出すから飯をくんねえ。……無慙(むざん)や、なけなしの懐中(ふところ)を、けっく蕎麦だけ余計につかわされて悄気(しょげ)返る。その夜、故郷の江戸お箪笥町(たんすまち)引出し横町、取手屋(とってや)鐶兵衛(かんべえ)とて、工面のいい馴染(なじみ)()って、ふもとの山寺に(もう)でて鹿(しか)の鳴き声を聞いた(ところ)……

 ……と思うと、ふとここで泊まりたくなった。停車場(ステエション)を、もう汽車が出ようとする間際(まぎわ)だったと言うのである。

 この、筆者の友、境賛吉(さかいさんきち)は、実は(つた)かずら木曾(きそ)桟橋(かけはし)寝覚(ねざめ)(とこ)などを見物のつもりで、上松(あげまつ)までの切符を持っていた。霜月の半ばであった。

「……しかも、その(蕎麦二(ぜん))には不思議な縁がありましたよ……」

 と、境が話した。

 昨夜は松本で一泊した。御存じの通り、この線の汽車は塩尻(しおじり)から分岐点(のりかえ)で、東京から上松へ行くものが松本で泊まったのは妙である。もっとも、松本へ用があって立ち寄ったのだと言えば、それまででざっと済む。が、それだと、しめくくりが(ゆる)んでちと辻褄(つじつま)が合わない。何も穿鑿(せんさく)をするのではないけれど、実は日数の少ないのに、汽車の遊びを(むさぼ)った旅行(たび)で、行途(ゆき)は上野から高崎、妙義山を見つつ、横川、(くま)(たいら)、浅間を眺め、軽井沢、追分をすぎ、(しの)()線に乗り替えて、姨捨(おばすて)田毎(たごと)を窓から(のぞ)いて、泊りはそこで松本が予定であった。その松本には「いい娘の居る旅館があります。懇意ですから御紹介をしましょう」と、名のきこえた画家が添え手紙をしてくれた。……よせばいいのに、昨夜その旅館につくと、なるほど、帳場にはそれらしい束髪の女が一人見えたが、座敷へ案内したのは無論女中で。……さてその紹介状を渡したけれども、娘なんぞ寄っても着かない、……ばかりでない。この霜夜に、出しがらの生温(なまぬる)い渋茶一杯()んだきりで、お夜食ともお(まんま)とも言い出さぬ。座敷は立派で卓は紫檀(したん)だ。火鉢(ひばち)は大きい。が火の気はぽっちり。で、灰の白いのにしがみついて、何しろ暖かいものでお銚子(ちょうし)をと()うと、板前で火を引いてしまいました、なんにも出来ませんと、女中(ねえさん)素気(そっけ)なさ。寒さは寒し、なるほど、火を引いたような、家中寂寞(ひっそり)とはしていたが、まだ十一時前である……酒だけなりと、頼むと、おあいにく。酒はないのか、ござりません。――じゃ、麦酒(ビイル)でも。それもお気の毒様だと言う。(ねえ)さん……、境は少々居直って、どこか近所から取り寄せてもらえまいか。へいもう遅うござりますで、飲食店は寝ましたでな……飲食店だと言やあがる。はてな、停車場(ステエション)から、震えながら(くるま)でくる途中、ついこの近まわりに、冷たい音して、川が流れて、橋がかかって、両側に遊廓(ゆうかく)らしい家が並んで、茶めしの赤い行燈(あんどん)もふわりと目の前にちらつくのに――ああ、こうと知ったら軽井沢で買った二合(びん)を、次郎どのの(いぬ)ではないが、皆なめてしまうのではなかったものを。大歎息(おおためいき)とともに()(ばら)をぐうと鳴らして可哀(あわれ)な声で、姐さん、そうすると、酒もなし、麦酒もなし、(さかな)もなし……お(まんま)は。いえさ、今晩の旅籠(はたご)の飯は。へい、それが間に合いませんので……火を引いたあとなもんでなあ――何の(うら)みか知らないが、こうなると冷遇を通り越して奇怪(きっかい)である。なまじ紹介状があるだけに、喧嘩面(けんかづら)で、宿を替えるとも言われない。前世(ぜんせ)(ごう)断念(あきら)めて、せめて近所で、蕎麦(そば)饂飩(うどん)の御都合はなるまいか、と恐る恐る申し出ると、饂飩なら聞いてみましょう。ああ、それを二ぜん頼みます。女中は()(ごし)のもったて(じり)で、敷居へ半分だけ突き込んでいた(ひざ)を、ぬいと引っこ抜いて不精(ぶしょう)に出て行く。

 待つことしばらくして、盆で突き出したやつを見ると、(どんぶり)がたった一つ。腹の()いた悲しさに、姐さん二ぜんと頼んだのだが。と(なじ)るように言うと、へい、二ぜん分、()り込んでございますで。いや、相わかりました。どうぞおかまいなく、お引き取りを、と言うまでもなし……ついと尻を見せて、すたすたと廊下を行くのを、継児(ままっこ)のような目つきで見ながら、抱き込むばかりに(ふた)を取ると、なるほど、二ぜんもり込みだけに(したじ)がぽっちり、饂飩は白く乾いていた。

 この旅館が、秋葉山(あきばさん)三尺坊が、飯綱(いいづな)権現へ、客を、たちものにしたところへ打撞(ぶつか)ったのであろう、泣くより笑いだ。

 その……饂飩二ぜんの昨夜(ゆうべ)を、むかし弥次郎、喜多八が、夕旅籠(ゆうはたご)の蕎麦二ぜんに思い(くら)べた。いささか仰山だが、不思議の縁というのはこれで――急に奈良井へ泊まってみたくなったのである。

 日あしも木曾の山の()に傾いた。宿(しゅく)には一時雨(ひとしぐれ)さっとかかった。

 雨ぐらいの用意はしている。駅前の俥は便(たよ)らないで、洋傘(かさ)で寂しく(しの)いで、鴨居(かもい)の暗い(のき)づたいに、石ころ(みち)辿(たど)りながら、度胸は()えたぞ。――持って来い、蕎麦二(ぜん)。で、昨夜の饂飩は暗討(やみう)ちだ――今宵(こよい)の蕎麦は望むところだ。――旅のあわれを味わおうと、硝子(ガラス)張りの旅館一二軒を、わざと避けて、軒に山駕籠(やまかご)干菜(ひば)()るし、土間の(かまど)で、割木(わりぎ)の火を()く、(わび)しそうな旅籠屋を(からす)のように(のぞ)き込み、黒き外套(がいとう)で、御免と、入ると、頬冠(ほおかぶ)りをした親父(おやじ)がその竈の下を焚いている。(かまち)がだだ広く、炉が大きく、(すす)けた天井に八間行燈(はちけん)の掛かったのは、山駕籠と(つい)註文(ちゅうもん)通り。階子下(はしごした)の暗い帳場に、坊主頭の番頭は面白い。

「いらっせえ。」

 蕎麦二膳、蕎麦二膳と、境が覚悟の目の前へ、身軽にひょいと出て、慇懃(いんぎん)会釈(えしゃく)をされたのは、焼麸(やきふ)だと思う(しっぽく)の加料(かやく)蒲鉾(かまぼこ)だったような気がした。

「お客様だよ――(つる)の三番。」

 女中も、服装(みなり)木綿(もめん)だが、前垂(まえだれ)がけのさっぱりした、年紀(とし)(わか)い色白なのが、窓、欄干を覗く、松の中を、()じ上るように三階へ案内した。――十畳敷。……柱も天井も丈夫造りで、床の間の(あつら)えにもいささかの厭味(いやみ)がない、玄関つきとは似もつかない、しっかりした屋台である。

 敷蒲団(しきぶとん)の綿も暖かに、(くま)の皮の見事なのが敷いてあるは。ははあ、膝栗毛時代に、峠路(とうげじ)で売っていた、(さる)の腹ごもり、大蛇(おろち)の肝、獣の皮というのはこれだ、と滑稽(おどけ)た殿様になって(くだん)の熊の皮に着座に及ぶと、すぐに台十能(だいじゅう)へ火を入れて女中(ねえ)さんが上がって来て、惜し気もなく(あか)大火鉢(おおひばち)()ちまけたが、またおびただしい。青い火さきが、堅炭を(から)んで、真赤に《おこ》って、窓に()み入る山颪(やまおろし)はさっと()える。三階にこの火の勢いは、大地震のあとでは、ちと申すのも(はばか)りあるばかりである。

 湯にも入った。

 さて膳だが、――蝶脚(ちょうあし)の上を見ると、蕎麦扱いにしたは気恥ずかしい。わらさの照焼はとにかくとして、ふっと煙の立つ厚焼の玉子に、(わん)が真白な半ぺんの(くず)かけ。(さら)についたのは、このあたりで佳品(かひん)と聞く、(つぐみ)を、何と、(かしら)猪口(ちょく)に、(また)をふっくり、胸を開いて、五羽、ほとんど丸焼にして(かんば)しくつけてあった。

「ありがたい、……実にありがたい。」

 境は、その女中に()れない手つきの、それも(うれ)しい……(しゃく)をしてもらいながら、熊に乗って、仙人(せんにん)御馳走(ごちそう)になるように、慇懃(いんぎん)に礼を言った。

「これは大した御馳走ですな。……実にありがたい……全く礼を言いたいなあ。」

 心底(しんそこ)のことである。はぐらかすとは様子にも見えないから、若い女中もかけ引きなしに、

旦那(だんな)さん、お気に入りまして嬉しゅうございますわ。さあ、もうお一つ。」

頂戴(ちょうだい)しよう。なお重ねて頂戴しよう。――時に(ねえ)さん、この上のお願いだがね、……どうだろう、この(つぐみ)を別に(もら)って、ここへ(なべ)に掛けて、煮ながら食べるというわけには行くまいか。――鶫はまだいくらもあるかい。」

「ええ、(ざる)に三杯もございます。まだ台所の柱にも束にしてかかっております。」

「そいつは豪気(ごうぎ)だ。――少し余分に貰いたい、ここで煮るように……いいかい。」

「はい、そう申します。」

「ついでにお銚子(ちょうし)を。火がいいから(そば)へ置くだけでも冷めはしない。……通いが遠くって気の毒だ。三本ばかり一時(いちどき)に持っておいで。……どうだい。岩見重太郎が註文(ちゅうもん)をするようだろう。」

「おほほ。」

 今朝、松本で、顔を洗った水瓶(みずがめ)の水とともに、胸が氷に(とざ)されたから、何の考えもつかなかった。ここで暖かに心が解けると、……分かった、饂飩(うどん)で虐待した理由(わけ)というのが――紹介状をつけた画伯は、近頃でこそ一家をなしたが、若くて放浪した時代に信州路(しんしゅうじ)経歴(へめぐ)って、その旅館には五月(いつつき)あまりも閉じ()もった。(とどこお)旅籠代(はたごだい)の催促もせず、帰途(かえり)には草鞋銭(わらじせん)まで心着けた深切な(うち)だと言った。が、ああ、それだ。……おなじ人の紹介だから旅籠代を滞らして、草鞋銭を貰うのだと思ったに違いない。……

「ええ、これは、お客様、お麁末(そまつ)なことでして。」

 と紺の鯉口(こいぐち)に、おなじ幅広の前掛けした、()せた、色のやや青黒い、陰気だが律儀(りちぎ)らしい、まだ三十六七ぐらいな、五分刈りの男が丁寧に襖際(ふすまぎわ)(かしこ)まった。

「どういたして、……まことに御馳走様。……番頭さんですか。」

「いえ、当家の料理人にございますが、至って不束(ふつつか)でございまして。……それに、かような山家辺鄙(やまがへんぴ)で、一向お口に合いますものもございませんで。」

「とんでもないこと。」

「つきまして、……ただいま、女どもまでおっしゃりつけでございましたが、鶫を、貴方様(あなたさま)、何か鍋でめしあがりたいというお(ことば)で、いかようにいたして差し上げましょうやら、右、女どももやっぱり田舎(いなか)もののことでございますで、よくお言がのみ込めかねます。ゆえに失礼ではございますが、ちょいとお伺いに出ましてございますが。」

 境は少なからず面くらった。

「そいつはどうも恐縮です。――遠方のところを。」

 とうっかり言った。……

串戯(じょうだん)のようですが、全く三階まで。」

「どう(つかまつ)りまして。」

「まあ、こちらへ――お忙しいんですか。」

「いえ、お(ぜん)は、もう差し上げました。それが、お客様も、貴方様のほか、お二組ぐらいよりございません。」

「では、まあこちらへ。――さあ、ずっと。」

「はッ、どうも。」

「失礼をするかも知れないが、まあ、一杯(ひとつ)。ああ、――ちょうどお銚子が来た。女中(ねえ)さん、お酌をしてあげて下さい。」

「は、いえ、手前不調法で。」

「まあまあ一杯(ひとつ)。――弱ったな、どうも、(つぐみ)を鍋でと言って、……その何ですよ。」

「旦那様、帳場でも、あの、そう申しておりますの。鶫は焼いてめしあがるのが一番おいしいんでございますって。」

「お膳にもつけて差し上げましたが、これを頭から、その脳味噌(のうみそ)をするりとな、ひと(かじ)りにめしあがりますのが、おいしいんでございまして、ええとんだ田舎流儀ではございますがな。」

「お料理番さん……私は決して、料理をとやこう言うたのではないのですよ。……弱ったな、どうも。実はね、あるその宴会の席で、その席に居た芸妓(げいしゃ)が、木曾の鶫の話をしたんです――大分酒が乱れて来て、何とか節というのが、あっちこっちではじまると、木曾節というのがこの時(あら)われて、――きいても可懐(なつか)しい土地だから、うろ覚えに覚えているが、(木曾へ木曾へと積み出す米は)何とかっていうのでね……」

「さようで。」

 と真四角に猪口(ちょく)をおくと、二つ()げの煙草(たばこ)入れから、吸いかけた煙管(きせる)を、(かね)火鉢(ひばち)だ、遠慮なくコッツンと(たた)いて、

「……(伊那(いな)高遠(たかと)の余り米)……と言うでございます、米、この女中の名でございます、お(よね)。」

「あら、何だよ、伊作(いさく)さん。」

 と女中が横にらみに笑って(にら)んで、

「旦那さん、――この人は、(うち)が伊那だもんでございますから。」

「はあ、勝頼(かつより)様と同国ですな。」

「まあ、勝頼様は、こんな男ぶりじゃありませんが。」

「当り前よ。」

 とむッつりした料理番は、苦笑いもせず、またコッツンと煙管を(はた)く。

「それだもんですから、伊那の贔屓(ひいき)をしますの――木曾で(うた)うのは違いますが。――(伊那や高遠へ積み出す米は、みんな木曾路(きそじ)の余り米)――と言いますの。」

「さあ……それはどっちにしろ……その木曾へ、木曾へのきっかけに出た話なんですから、私たちも酔ってはいるし、それがあとの贄川(にえがわ)だか、峠を越した先の藪原(やぶはら)、福島、上松(あげまつ)のあたりだか、よくは()かなかったけれども、その芸妓(げいしゃ)が、客と一所に、鶫あみを掛けに木曾へ行ったという話をしたんです。……まだ()の暗いうちに山道をずんずん上って、案内者の指揮(さしず)の場所で、かすみを張って(おとり)を揚げると、夜明け前、霧のしらじらに、向うの尾上(おのえ)を、ぱっとこちらの山の()へ渡る鶫の群れが、むらむらと来て、羽ばたきをして、かすみに掛かる。じわじわととって占めて、すぐに焚火(たきび)で附け焼きにして、(あぶら)の熱いところを、ちゅッと吸って食べるんだが、そのおいしいこと、……と言って、話をしてね……」

「はあ、まったくで。」

「……ぶるぶる寒いから、煮燗(にえかん)で、一杯のみながら、息もつかずに、幾口か鶫を(かじ)って、ああ、おいしいと一息して、焚火にしがみついたのが、すっと立つと、案内についた土地の猟師が二人、きゃッと言った――その何なんですよ、芸妓の口が血だらけになっていたんだとさ。生々(なまなま)とした半熟の小鳥の血です。……とこの話をしながら、うっかりしたようにその芸妓は手巾(ハンケチ)で口を(おさ)えたんですがね……たらたらと赤いやつが()みそうで、私は顔を見ましたよ。(さわ)ると(しな)いそうな()せぎすな、すらりとした、若い女で。……聞いてもうまそうだが、これは(すご)かったろう、その時、東京で想像しても、(けわ)しいとも、高いとも、深いとも、峰谷の重なり合った木曾山中のしらしらあけです……暗い(すそ)に焚火を(から)めて、すっくりと立ち上がったという、自然、目の下の峰よりも高い(ところ)で、霧の中から綺麗(きれい)な首が。」

「いや、旦那(だんな)さん。」

「話は(まず)くっても、何となく不気味だね。その口が血だらけなんだ。」

「いや、いかにも。」

「ああ、よく無事だったな、と私が言うと、どうして? と訊くから、そういうのが、(あわ)てる銃猟家だの、魔のさした猟師に、峰越しの笹原(ささはら)から(ねら)い撃ちに二つ弾丸(だま)を食らうんです。……場所と言い……時刻と言い……昔から、夜待ち、あけ方の鳥あみには、魔がさして、怪しいことがあると言うが、まったくそれは魔がさしたんだ。だって、覿面(てきめん)に綺麗な鬼になったじゃあないか。……どうせそうよ、……私は鬼よ。――でも人に食われる方の……なぞと言いながら、でも可恐(こわ)いわね、ぞっとする。と、また口を手巾で圧えていたのさ。」

「ふーん。」と料理番は、我を忘れて沈んだ声して、

「ええ。旦那、へい、どうも、いや、全く。――実際、危のうございますな。――そういう場合には、きっと怪我(けが)があるんでして……よく、その(ねえ)さんは御無事でした。この贄川の川上、御嶽口(おんたけぐち)美濃(みの)寄りの(かい)は、よけいに取れますが、その(かた)の場所はどこでございますか存じません――芸妓衆(げいしゃしゅう)は東京のどちらの(かた)で。」

「なに、下町の方ですがね。」

「柳橋……」

 と言って、(のぞ)くように、じっと見た。

「……あるいはその新橋とか申します……」

「いや、その真中ほどです……日本橋の方だけれど、宴会の席ばかりでの話ですよ。」

「お処が分かって差支(さしつか)えがございませんければ、参考のために、その場所を伺っておきたいくらいでございまして。……この、深山幽谷のことは、人間の智慧(ちえ)には及びません――」

 女中も俯向(うつむ)いて暗い顔した。

 境は、この場合(だれ)もしよう、乗り出しながら、

「何か、この辺に変わったことでも。」

「……別にその、と云ってございません。しかし、流れに瀬がございますように、山にも(ふち)がございますで、気をつけなければなりません。――ただいまさしあげました(つぐみ)は、これは、つい一両日続きまして、珍しく上の峠口(とうげぐち)で猟があったのでございます。」

「さあ、それなんですよ。」

 境はあらためて猪口(ちょく)をうけつつ、

「料理番さん。きみのお手際(てぎわ)(ぜん)につけておくんなすったのが、見てもうまそうに、(かんば)しく、(あぶら)の垂れそうなので、ふと思い出したのは、今の芸妓(げいしゃ)の口が血の一件でね。しかし私は坊さんでも、精進でも、何でもありません。望んでも結構なんだけれど、見たまえ。――窓の外は雨と、もみじで、霧が山を織っている。峰の中には、雪を頂いて、雲を貫いて(そび)えたのが見えるんです。――どんな拍子かで、ひょいと立ちでもした時口が血になって首が上へ出ると……野郎でこの(つら)だから、その芸妓のような、(すご)く美しく、山の神の化身(けしん)のようには見えまいがね。落ち残った(かき)だと思って、窓の外から(からす)が突つかないとも限らない、……ふと変な気がしたものだから。」

「お米さん――電燈(でんき)がなぜか、遅いでないか。」

 料理番が沈んだ声で言った。

 時雨(しぐれ)は晴れつつ、木曾の山々に暮が迫った。奈良井川(ならいがわ)の瀬が響く。

      二

「何だい、どうしたんです。」

「ああ、旦那。」と暗夜(やみよ)の庭の雪の中で。

(さぎ)が来て、(うお)(ねら)うんでございます。」

 すぐ窓の外、間近だが、池の水を渡るような料理番――その伊作の声がする。

人間(ひと)が落ちたか、(かわうそ)でも()(まわ)るのかと思った、えらい音で驚いたよ。」

 これは、その翌日の晩、おなじ旅店(はたごや)の、(した)座敷でのことであった。……

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