眉かくしの霊

2話 眉かくしの霊(2)

7,049字 約14分 2001年6月7日 公開

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 境は奈良井宿に逗留(とうりゅう)した。ここに積もった雪が、朝から降り出したためではない。別にこのあたりを見物するためでもなかった。……昨夜は、あれから――鶫を(なべ)でと(あつら)えたのは、しゃも、かしわをするように、(ぜん)のわきで火鉢(ひばち)へ掛けて煮るだけのこと、と言ったのを、料理番が心得て、そのぶつ切りを、皿に山もり。目笊(めざる)に一杯、(ねぎ)のざくざくを添えて、醤油(しょうゆ)も砂糖も、むきだしに(かつ)ぎあげた。お米が烈々と炭を継ぐ。

 (こし)の方だが、境の故郷いまわりでは、季節になると、この鶫を珍重すること一通りでない。料理屋が鶫御料理(おんりょうり)、じぶ、おこのみなどという立看板を軒に掲げる。鶫うどん、鶫蕎麦(そば)と蕎麦屋までが貼紙(びら)を張る。ただし安価(やす)くない。何の(わん)、どの(はち)に使っても、おん(あつもの)、おん小蓋(こぶた)の見識で。ぽっちり三臠(みきれ)五臠(いつきれ)よりは附けないのに、葱と一所(ひとつ)()()けて、鍋からもりこぼれるような湯気を、天井へ立てたは(うれ)しい。

 あまっさえ熱燗(あつかん)で、(くま)の皮に胡坐(あぐら)で居た。

 芸妓(げいしゃ)の化けものが、山賊にかわったのである。

 寝る時には、厚衾(あつぶすま)に、この(くま)の皮が上へ(かぶ)さって、(そで)を包み、(おお)い、(すそ)を包んだのも面白い。あくる日、雪になろうとてか、夜嵐(よあらし)の、じんと身に()むのも、木曾川の瀬の(すご)いのも、ものの数ともせず、酒の血と、獣の皮とで、ほかほかして三階にぐっすり寝込んだ。

 次第であるから、朝は朝飯から、ふっふっと吹いて(すす)るような豆腐の(しる)も気に入った。

 一昨日(いっさくじつ)の旅館の朝はどうだろう。……(どぶ)の上澄みのような冷たい汁に、おん羮ほどに(しじみ)が泳いで、生煮えの臭さといったらなかった。……

 山も、空も氷を(とお)すごとく澄みきって、松の葉、枯木の(きらめ)くばかり、晃々(きらきら)()がさしつつ、それで、ちらちらと白いものが飛んで、奥山に、熊が人立(じんりつ)して、針を()くような雪であった。

 朝飯(あさ)が済んでしばらくすると、境はしくしくと腹が(いた)みだした。――しばらくして、二三度はばかりへ通った。

 あの、饂飩(うどん)(たた)りである。鶫を過食したためでは断じてない。二ぜん分を()みにした生がえりのうどん粉の中毒(あた)らない法はない。お(なか)(おさ)えて、饂飩を思うと、思う下からチクチクと筋が動いて痛み出す。――もっとも、戸外(そと)は日当りに針が飛んでいようが、少々腹が痛もうが、我慢して、汽車に乗れないという容体(ようだい)ではなかったので。……ただ、誰も知らない。この宿の居心のいいのにつけて、どこかへのつらあてにと、逗留(とうりゅう)する気になったのである。

 ところで座敷だが――その二度めだったか、(かわや)のかえりに、わが座敷へ入ろうとして、三階の欄干(てすり)から、ふと二階を(のぞ)くと、階子段(はしごだん)の下に、開けた障子に、(ほうき)とはたきを立て掛けた、中の小座敷に炬燵(こたつ)があって、床の間が見通される。……床に行李(こうり)と二つばかり重ねた、あせた萌葱(もえぎ)風呂敷(ふろしき)づつみの、真田紐(さなだひも)で中結わえをしたのがあって、旅商人(たびあきんど)と見える中年の男が、ずッぷり床を背負(しよ)って当たっていると、向い合いに、一人の、中年増(ちゅうどしま)の女中がちょいと浮腰で、(ひざ)をついて、手さきだけ炬燵に入れて、少し仰向くようにして、旅商人と話をしている。

 なつかしい浮世の(さま)を、山の(がけ)から掘り出して、旅宿(やど)()めたように見えた。

 座敷は熊の皮である。境は、ふと奥山へ()てられたように、里心が着いた。

 一昨日(おととい)松本で城を見て、天守に上って、その五層(いつつ)めの朝霜の高層に立って、ぞっとしたような、雲に連なる、山々のひしと再び窓に来て、身に迫るのを覚えもした。バスケットに、等閑(なおざり)(から)めたままの、城あとの(くず)(ぼり)(こけ)むす石垣(いしがき)()って枯れ残った小さな(つた)(くれない)の、(つぐみ)の血のしたたるごときのを見るにつけても。……急に寂しい。――「お米さん、下階(した)に座敷はあるまいか。――炬燵に入ってぐっすりと寝たいんだ。」

 二階の部屋々々は、時ならず商人衆(あきんどしゅう)出入(ではい)りがあるからと、望むところの下座敷、おも屋から、土間を長々と板を渡って離れ座敷のような十畳へ導かれたのであった。

 肱掛窓(ひじかけまど)の外が、すぐ庭で、池がある。

 白雪の飛ぶ中に、緋鯉(ひごい)の背、真鯉の(ひれ)の紫は美しい。梅も松もあしらったが、大方は樫槻(かしけやき)の大木である。(ほお)()の二(かか)えばかりなのさえすっくと立つ。が、いずれも葉を振るって、素裸(すはだか)山神(さんじん)のごとき装いだったことは言うまでもない。

 午後三時ごろであったろう。枝に(こずえ)に、雪の咲くのを、炬燵で斜違(はすか)いに、くの字になって――いい(おんな)だとお目に掛けたい。

 肱掛窓を(のぞ)くと、池の向うの椿(つばき)の下に料理番が立って、つくねんと腕組して、じっと水を(みまも)るのが見えた。例の紺の筒袖(つつッぽ)に、(しり)からすぽんと巻いた前垂(まえだれ)で、雪の(しの)ぎに鳥打帽を(かぶ)ったのは、いやしくも料理番が水中の鯉を覗くとは見えない。大きな(ばん)が沼の(どじょう)(ねら)っている形である。山も峰も、雲深くその空を取り囲む。

 境は山間の旅情を解した。「料理番さん、晩の御馳走(ごちそう)に、その鯉を切るのかね。」「へへ。」と薄暗い顔を上げてニヤリと笑いながら、鳥打帽を取ってお時儀をして、また被り直すと、そのままごそごそと()(くぐ)って(ひさし)に隠れる。

 帳場は遠し、あとは雪がやや(しげ)くなった。

 同時に、さらさらさらさらと水の音が響いて聞こえる。「――また誰か洗面所の口金を開け放したな。」これがまた二度めで。……今朝三階の座敷を、ここへ取り替えない前に、ちと遠いが、手水(ちょうず)を取るのに清潔(きれい)だからと女中が案内をするから、この離座敷(はなれ)に近い洗面所に来ると、三カ所、水道口(みずぐち)があるのにそのどれを(ひね)っても水が出ない。さほどの寒さとは思えないが()てたのかと思って、(こだま)のように高く手を鳴らして女中に言うと、「あれ、()()みます。」と()け出して行くと、やがて、スッと水が出た。――座敷を取り替えたあとで、はばかりに行くと、ほかに手水鉢(ちょうずばち)がないから、洗面所の一つを(ひね)ったが、その時はほんのたらたらと(したた)って、(かろ)うじて用が足りた。

 しばらくすると、しきりに洗面所の方で水音がする。炬燵(こたつ)から(もぐ)り出て、土間へ下りて橋がかりからそこを(のぞ)くと、三ツの水道口(みずぐち)、残らず三条(みすじ)の水が一齊(いちどき)にざっと(そそ)いで、(いたず)らに流れていた。たしない水らしいのに、と一つ一つ、丁寧にしめて座敷へ戻った。が、その時も料理番が池のへりの、同じ(ところ)につくねんと(たたず)んでいたのである。くどいようだが、料理番の池に立ったのは、これで二度めだ。……朝のは十時ごろであったろう。トその時料理番が引っ込むと、やがて洗面所の水が、再び高く響いた。

 またしても三条の水道が、残らず開け放しに流れている。おなじこと、たしない水である。あとで手を洗おうとする時は、きっと()れるのだからと、またしても口金をしめておいたが。――

 いま、午後の三時ごろ、この時も、さらにその水の音が聞こえ出したのである。庭の外には小川も流れる。奈良井川の瀬も響く。木曾へ来て、水の音を気にするのは、船に乗って波を見まいとするようなものである。望みこそすれ、(きら)いも避けもしないのだけれど、不思議に洗面所の開け放しばかり気になった。

 境はまた廊下へ出た。果して、三条とも(そろ)って――しょろしょろと流れている。「旦那(だんな)さん、お風呂(ふろ)ですか。」手拭(てぬぐい)を持っていたのを見て、ここへ火を直しに、台十能(じゅうのう)を持って来かかった、お米が声を掛けた。「いや――しかし、もう入れるかい。」「じきでございます。……今日はこの新館のが()きますから。」なるほど、雪の降りしきるなかに、ほんのりと湯の香が通う。洗面所の(わき)西洋扉(せいようど)が湯殿らしい。この窓からも見える。新しく建て増した柱立てのまま、(むしろ)がこいにしたのもあり、足場を組んだ(ところ)があり、材木を積んだ納屋(なや)もある。が、荒れた(うまや)のようになって、落葉に()もれた、一帯、脇本陣(わきほんじん)とでも言いそうな旧家が、いつか世が成金とか言った時代の景気につれて、(くわ)(かいこ)も当たったであろう、このあたりも火の燃えるような勢いに乗じて、贄川(にえがわ)はその昔は、煮え川にして、温泉(いでゆ)の湧いた処だなぞと、ここが温泉にでもなりそうな意気込みで、新館建増しにかかったのを、この一座敷と、湯殿ばかりで、そのまま沙汰(さた)やみになったことなど、あとで()かった。「女中(ねえ)さんかい、その水を流すのは。」閉めたばかりの水道の(せん)を、女中が立ちながら一つずつ開けるのを()て、たまらず(なじ)るように言ったが、ついでにこの仔細(しさい)も分かった。……池は、()の根に(とい)を伏せて裏の川から引くのだが、一年に一二度ずつ水涸(みずが)れがあって、池の水が()ようとする。(こい)(ふな)も、一処(ひとところ)へ固まって、(あわ)を立てて弱るので、台所の大桶(おおおけ)()み込んだ井戸の水を、はるばるとこの洗面所へ送って、橋がかりの下を(くぐ)らして、池へ流し込むのだそうであった。

 木曾道中の新版を二三種ばかり、(まくら)もとに散らした炬燵へ、ずぶずぶと(もぐ)って、「お米さん、……折り入って、お前さんに頼みがある。」と言いかけて、初々(ういうい)しくちょっと俯向(うつむ)くのを見ると、猛然として、喜多八を思い起こして、わが境は一人で笑った。「ははは、心配なことではないよ。――おかげで腹あんばいも至ってよくなったし、……午飯(ひる)を抜いたから、晩には入り合せにかつ食い、大いに飲むとするんだが、いまね、伊作さんが渋苦い顔をして池を(にら)んで行きました。どうも、鯉のふとり工合(ぐあい)鑑定(めきき)したものらしい……きっと今晩の御馳走(ごちそう)だと思うんだ。――昨夜(ゆうべ)(つぐみ)じゃないけれど、どうも縁あって池の前に越して来て、鯉と隣附き合いになってみると、目の前から引き上げられて、(まないた)で輪切りは(ひど)い。……板前の都合もあろうし、またわがままを言うのではない。……

 (いき)づくりはお断わりだが、実は鯉汁(こいこく)大歓迎なんだ。しかし、魚屋か、何か、都合して、ほかの鯉を使ってもらうわけには行くまいか。――差し出たことだが、一(ぴき)か二(ひき)で足りるものなら、お客は幾人だか、今夜の入用(いりよう)だけは私がその原料を買ってもいいから。」女中の返事が、「いえ、この池のは、いつもお料理にはつかいませんのでございます。うちの旦那も、おかみさんも、お志の仏の日には、鮒だの、鯉だの、……この池へ放しなさるんでございます。料理番さんもやっぱり。……そして料理番(あのひと)は、この池のを大事にして、可愛(かわい)がって、そのせいですか、(ひま)さえあれば、黙ってああやって庭へ出て、池を覗いていますんです。」「それはお(あつら)えだ。ありがたい。」境は礼を言ったくらいであった。

 雪の頂から星が一つ下がったように、入相(いりあい)の座敷に電燈の()いた時、女中が風呂を知らせに来た。

「すぐに(ぜん)を。」と声を掛けておいて、待ち構えた湯どのへ、一散――例の洗面所の向うの()を開けると、上がり場らしいが、ハテ真暗である。いやいや、提灯(ちょうちん)が一燈ぼうと薄白く点いている。そこにもう一枚(ひらき)があって閉まっていた。その(なか)が湯どのらしい。

半作事(はんさくじ)だと言うから、まだ電燈(でんき)が点かないのだろう。おお、(ふた)(どもえ)の紋だな。大星だか由良之助(ゆらのすけ)だかで、鼻を()く、鬱陶(うっとう)しい巴の紋も、ここへ来ると、木曾殿の寵愛(ちょうあい)を思い出させるから奥床しい。」

 と帯を解きかけると、ちゃぶり――という――人が居て湯を使う気勢(けはい)がする。この時、洗面所の水の音がハタとやんだ。

 境はためらった。

 が、いつでもかまわぬ。……(ひと)が済んで、湯のあいた時を知らせてもらいたいと言っておいたのである。誰も入ってはいまい。とにかくと、解きかけた帯を(はさ)んで、ずッと寄って、その提灯の上から、()にひったりと(ほお)をつけて伺うと、(そで)のあたりに、すうーと暗くなる、蝋燭(ろうそく)が、またぽうと(あか)くなる。影が(あざ)になって、巴が一つ片頬(かたほ)に映るように陰気に()み込む、と思うと、ばちゃり……内端(うちわ)に湯が動いた。何の隙間(すきま)からか、ぷんと梅の香を、ぬくもりで溶かしたような白粉(おしろい)の香がする。

婦人(おんな)だ」

 何しろ、この明りでは、男客にしろ、一所に入ると、暗くて肩も手も(また)ぎかねまい。乳に打着(ぶつ)かりかねまい。で、ばたばたと草履(ぞうり)を突っ掛けたまま引き返した。

「もう、お上がりになりまして?」と言う。

 通いが遠い。ここで(かん)をするつもりで、お米がさきへ銚子(ちょうし)だけ持って来ていたのである。

「いや、あとにする。」

「まあ、そんなにお(なか)がすいたんですの。」

「腹もすいたが、誰かお客が入っているから。」

「へい、……こっちの湯どのは、久しく使わなかったのですが、あの、そう言っては悪うございますけど、しばらくぶりで、お掃除(そうじ)かたがた旦那様(だんなさま)に立てましたのでございますから、……あとで頂きますまでも、……あの、まだどなたも。」

「かまやしない。私はゆっくりでいいんだが、婦人の客のようだったぜ。」

「へい。」

 と、おかしなベソをかいた顔をすると、手に持つ銚子が湯沸しにカチカチカチと震えたっけ、あとじさりに、ふいと立って、廊下に出た。一度ひっそり跫音(あしおと)を消すや否や、けたたましい音を、すたんと立てて、土間の板をはたはたと鳴らして()け出した。

 境はきょとんとして、

「何だい、あれは……」

 やがて(ぜん)を持って(あら)われたのが……お米でない、年増(としま)のに替わっていた。

「やあ、中二階のおかみさん。」

 行商人と、炬燵(こたつ)(むつ)まじかったのはこれである。

御亭主(ごていしゅ)はどうしたい。」

「知りませんよ。」

「ぜひ、承りたいんだがね。」

 半ば串戯(じょうだん)に、ぐッと声を低くして、

「出るのかい……何か……あの、湯殿へ……まったく?」

「それがね、旦那、大笑いなんでございますよ。……どなたもいらっしゃらないと思って、申し上げましたのに、御婦人の方が入っておいでだって、旦那がおっしゃったと言うので、米ちゃん、大変な臆病(おくびょう)なんですから。……久しくつかいません湯殿ですから、内のお上さんが、念のために、――」

「ああそうか、……私はまた、ちょっと出るのかと思ったよ。」

「大丈夫、湯どのへは出ませんけれど、そのかわりお座敷へはこんなのが、ね、貴方(あなた)。」

「いや、結構。」

 お(しゃく)はこの方が、けっく飲める。

 夜は長い、雪はしんしんと降り出した。床を取ってから、酒をもう一度、その勢いでぐっすり寝よう。晩飯(ばん)はいい加減で膳を下げた。

 跫音が入り乱れる。ばたばたと廊下へ続くと、洗面所の方へ落ち合ったらしい。ちょろちょろと水の音がまた響き出した。男の声も交じって聞こえる。それが()むと、お米が(ふすま)から(まる)い顔を出して、

「どうぞ、お風呂へ。」

「大丈夫か。」

「ほほほほ。」

 とちとてれたように笑うと、身を廊下へ引くのに、押し続いて境は手拭(てぬぐい)()げて出た。

 橋がかりの下り口に、昨夜帳場に居た坊主頭の番頭と、女中(がしら)か、それとも女房かと思う老けた(おんな)と、もう一人の女中とが、といった形に顔を並べて、一団(ひとかたまり)になってこなたを見た。そこへお米の姿が、足袋(たび)まで見えてちょこちょこと橋がかりを越えて渡ると、三人の(ふところ)へ飛び込むように一団(ひとかたまり)

「御苦労様。」

 わがために、見とどけ役のこの人数で、風呂を(しら)べたのだと思うから声を掛けると、一度に(そろ)ってお時儀をして、屋根が(かや)ぶきの長土間に敷いた、そのあゆみ板を渡って行く。土間のなかばで、そのおじやのかたまりのような四人の形が暗くなったのは、トタンに、一つ二つ電燈がスッと息を引くように赤くなって、橋がかりのも洗面所のも一齊(いっせい)にパッと消えたのである。

 と胸を()くと、さらさらさらさらと三筋に……こう順に流れて、洗面所を打つ水の下に、さっきの提灯(ちょうちん)朦朧(もうろう)と、半ば暗く、(ともえ)を一つ照らして、墨でかいた炎か、(なまず)()ねたか、と思う形に(とも)れていた。

 いまにも電燈が()くだろう。湯殿口へ、これを持って入る気で、境がこごみざまに手を掛けようとすると、提灯がフッと消えて見えなくなった。

 消えたのではない。やっぱりこれが以前のごとく、湯殿の戸口に点いていた。これはおのずから(しずく)して、下の板敷の()れたのに、目の加減で、向うから影が()したものであろう。はじめから、提灯がここにあった次第(わけ)ではない。境は、斜めに影の宿った水中の月を手に取ろうとしたと同じである。

 (つま)さぐりに、例の上がり場へ……で、念のために戸口に寄ると、息が絶えそうに寂寞(ひっそり)しながら、ばちゃんと音がした。ぞッと寒い。湯気が天井から雫になって点滴(したた)るのではなしに、屋根の雪が溶けて落ちるような気勢(けはい)である。

 ばちゃん、……ちゃぶりと(かす)かに湯が動く。とまた得ならず(えん)な、しかし冷たい、そして、におやかな、霧に白粉(おしろい)を包んだような、人膚(ひとはだ)の気がすッと肩に(まつ)わって、(うなじ)()でた。

 脱ぐはずの衣紋(えもん)をかつしめて、

「お米さんか。」

「いいえ。」

 と一呼吸(ひといき)()を置いて、湯どのの(なか)から聞こえたのは、もちろんわが心がわが耳に響いたのであろう。――お米でないのは言うまでもなかったのである。

 洗面所の水の音がぴったりやんだ。

 思わず立ち(すく)んで四辺(あたり)を見た。思い切って、

「入りますよ、御免。」

「いけません。」

 と澄みつつ、湯気に()()れとした声が、はっきり聞こえた。

「勝手にしろ!」

 我を忘れて言った時は、もう座敷へ引き返していた。

 電燈は明るかった。巴の提灯はこの光に消された。が、水は三筋、さらにさらさらと走っていた。

「馬鹿にしやがる。」

 不気味より、(すご)いより、なぶられたような、反感が起こって、炬燵(こたつ)へ仰向けにひっくり返った。

 しばらくして、境が、飛び上がるように起き直ったのは、すぐ窓の外に、ざぶり、ばちゃばちゃばちゃ、ばちゃ、ちゃッと、けたたましく池の水の()(みだ)さるる音を聞いたからであった。

「何だろう。」

 ばちゃばちゃばちゃ、ちゃッ。

 そこへ、ごそごそと池を廻って響いて来た。人の来るのは、なぜか料理番だろうと思ったのは、この池の(うお)を愛惜すると、聞いて知ったためである。……

「何だい、どうしたんです。」

 雨戸を開けて、一面の雪の色のやや薄い(ところ)に声を掛けた。その池も白いまで水は少ないのであった。

      三

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