歴史年代に噴火した實例を有つてゐながら、現在噴火を休止してゐるものと、活動中のものとあるが、前者を休火山と名づけて活火山と區別してゐる人もあるけれども、本篇に於ては全部これを活火山と名づけて必要のあつた場合に休活の區別をなすことにする。唯こゝに斷りを要することは噴火といふ言葉の使ひ方である。文字からいへば火を噴くとなるけれども、これは燃える火を指すのではない。勿論極めて稀な場合には噴出せられた瓦斯が燃えることがないでもないが、一般に火と思はれてゐるのは赤熱した鎔岩である。但しこれが赤熱してゐなくとも噴火たることに變りはない。例へば粉末となつた鎔岩、即ち火山灰のみを噴き出す時でもさうである。然しながら單に蒸氣、瓦斯又は硫氣を噴出するだけでは噴火とはいはないで、蒸氣孔又は硫氣孔の状態にありといつてゐる。箱根山は形からいへば複式火山、經歴からいへば死火山、外輪山は金時、明神、明星、鞍掛、三國の諸山、中央火口丘は冠岳、駒ヶ岳、二子山、神山等、さうして最後の活動場所が大涌谷であつて、こゝには今なほ蒸氣孔、硫氣孔が殘つてゐる。
日本に於ける活火山の兩大關、東の方を淺間山とすれば、西は阿蘇山である。中にも阿蘇はその外輪山の雄大なことに於て世界第一といはれてゐる。即ちその直徑は東西四里南北五里に及び、こゝに阿蘇一郡四萬の人が住まつてゐる。但し噴火はこの火口全體から起つたのではなく、周圍の土地の陷沒によつて斯く擴がつたものだといふ。この廣き外輪山の中に幾つかの中央火口丘があるが、それが所謂阿蘇の五岳である。これ等は重に東西線と南北線とに竝列してゐるが、中央の交叉點に當る場所に現在の活火口たる中岳(高さ千六百四十米)がある。この中岳の火口は前に記した通り、南北に連續した數箇の池から成立ち、重なものとして、北中南の三つを區別する。阿蘇はこの百年ぐらゐの間、平均十一年目に活動を繰返してゐるが、それはその三つの池のいづれかゞ活氣を呈するに因るものである。然しながら、稀には外の場所から噴き出すこともある。火口の池が休息の状態にある時は、大抵濁水を湛へてゐるが、これが硫黄を含むために乳白色ともなれば、熱湯となることもある。活動に先んじて池水涸渇するのが通常であるけれども、突然爆發して池水を氾濫せしめたこともある。このために阿蘇郡の南半たる南郷谷の水を集めて流れる白川が文字通り乳白色となり、魚介を死滅せしめることがある。北方阿蘇谷の水は黒川に集り、兩方相會する所で外輪山を破り外方に流れ出る。即ちこの外輪山の破れ目が火口瀬である。箱根山でこれに相當する場所は湯本の早川と須雲川の相會する所である。阿蘇の活動は右の外、一般に火山灰を飛ばし、これが酸性を帶びてゐるので、農作物を害し、これを食する牛馬をも傷めることがある。阿蘇の火山灰はこの地方で『よな』と稱へられてゐるが、被害は單に阿蘇のみに止まらずして、大分縣にまでも及ぶことがある。これは空氣の上層には通常西風があるので、下層の風向きの如何に拘らず、細かな火山灰は大抵大氣中の上層に入り、東方に運ばれるに因るからである。
阿蘇火口の平面圖
阿蘇は日本の活火山中、最も登り易い山であらう。國有鐵道宮地線の坊中驛又は宮地驛から緩勾配の斜面を登ること一里半ぐらゐで山頂へ達することが出來る。頂上近くに茶店、宿屋數軒あり、冬季でも登攀不可能でない。但しある意味に於ける世界第一のこの火山に於て一の觀測所をも有しないことは、外國の學者に對しても恥かしく思つてゐたが、今は京都帝國大學の觀測所がこゝに設立されてゐる。
つぎは東の大關たる淺間山(高さ二千五百四十二米、單式火山)を覗いて見ることにする。この山も阿蘇同樣に噴火の記録も古く、回數も頗る多いが、阿蘇の噴火のだら/\として女性的なるに對し、これは男性的であるといつても然るべきである。休息の間隔は比較的に遠いが、一度活動を始めるとなか/\激しいことをやる。現に明治四十一年頃から始まつた活動に於ては鎔岩を西方數十町の距離にまで吹き飛ばし、小諸からの登山口、七合目にある火山觀測所にまで達したこともある。特に天明三年(西暦千七百八十三年)の噴火は激烈であつて、現在鬼押出しと名づけてゐる鎔岩流を出したのみならず、熱泥流を火口壁の最も低い場所から一時に多量に溢れさせ、北方上野の國吾妻川に沿うて百數十村を埋め、千二百人の死者を生ぜしめた。最初の活動に於ては火口内の鎔岩が、火口壁の縁まで進み、一時流出を氣遣れたけれども、つひにそのことなくして、鎔岩の水準が再び低下してしまつたのである。
淺間の噴火(菜花煙)
このついでに記して置きたいのは、飛騨信濃の國境にある硫黄嶽、一名燒岳(高さ二千四百五十八米)である。この山は近時淺間山と交代に活動する傾きを有つてゐるが、降灰のために時々災害を桑園に及ぼし、養蠶上の損害を被らしめるので、土地の人に迷惑がられてゐる。
近頃の噴火で最もよく記憶せられてゐるのは櫻島(高さ一千六十米)であらう。その大正十二年の噴火に於ては、山の東側と西側とに東西に走る二條の裂目を生じ、各線上五六の點から鎔岩を流出した。この状態はエトナ式と稱すべきである。但し櫻島はかういふ大噴火を百年或は二三百年の間隔を以て繰返すので、隨つて鎔岩の流出量も多く、前回の場合は一・六立方粁と計算せられてゐるが、エトナは西暦千八百九年乃至千九百十一年の十回に於て合計〇・六一立方粁しか出してゐない。かくて櫻島は毎回多量の鎔岩を出すので島の大きさも次第に増して行くが、今回は東側に出た鎔岩が遂に瀬戸海峽を埋め、櫻島をして大隅の一半島たらしめるに至つた。かうして鎔岩に荒された損害も大きいが、それよりも火山灰のために荒廢した土地の損害、地盤沈下によつて失はれた附近の水田或は鹽田の損害はそれ以上であつて、鹿兒島縣下に於ける全被害千六百萬圓と計上せられた。
櫻島噴火は著しい前徴を備へてゐた。數日前から地震が頻々に起ることは慣例であるが、今回も一日半前から始まつた。又七八十年前から土地が次第に隆起しつゝあつたが、噴火後は元どほりに沈下したのである。その外温泉、冷泉がその温度を高め、或は湧出量を増し、或は新たに湧出し始めたようなこともあつた。
霧島火山群は東西五里に亙り二つの活火口と多くの死火山とを有してゐる。その二つの活火口とは矛の峯(高さ千七百米)の西腹にある御鉢と、その一里ほど西にある新燃鉢とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動してゐた。但し享保元年(西暦千七百十六年)に於ける新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上に於て最も激しく、隨つて最高の損害記録を與へたものであつた。
磐梯山(高さ千八百十九米)の明治二十一年六月十五日に於ける大爆發は、當時天下の耳目を聳動せしめたものであつたが、クラカトアには比較すべくもない。この時に磐梯山の大部分は蒸氣の膨脹力によつて吹き飛ばされ、堆積物が溪水を塞いで二三の湖水を作つたが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百餘の村民をも埋めてしまつたのである。
磐梯山の爆發(平面竝に斷面圖)
肥前の温泉岳(高さ千三百六十米)は時々小規模の噴火をなし、少量の鎔岩をも流出することがあるが、寛政四年四月一日(西暦千七百九十二年五月二十一日)噴火の場所から一里程も離れてゐる眉山の崩壞を、右の磐梯山の爆發と同じ現象のように誤解してゐる人がある。この崩壞の結果、有明灣に大津浪を起し、沿岸地方に於て合計一萬五千人ほどの死者を生じた大事件もあつたので、原因を輕々しく斷定することは愼まねばならぬ。磐梯山破裂の跡には大きな蒸氣孔を殘し、火山作用は今もなほ盛んであるが、眉山の場合には毫も右樣の痕跡を止めなかつたのである。
磐梯山に近く吾妻山又の名一切經山(高さ千九百四十九米)がある。この山が活火山であることは明治二十六年に至るまで知られなかつたが、この年突然噴火を始めたゝめ死火山でなかつたことが證據立てられた。この際調査に向つた農商務技師三浦宗次郎氏と同技手西山省吾氏が噴火の犧牲になつた。少年讀者は東京上野の博物館に收めてある血染めの帽子と上着とを忘れないようにされたいものである。
東北地方の活火山に鳥海山(高さ二千二百三十米)、岩手山(高さ二千四十一米)、岩木山(高さ千六百二十五米)等がある。いづれも富士形の單式火山であつて、歴史年代に於て餘り活溌でない噴火を數回乃至十數回繰返した。享和年間の鳥海噴火と享保年間の岩手噴火とに於ては、鎔岩を流出せしめたけれども、それも極めて少量であつて、山の中腹までも達しないくらゐであつた。
大島といふ名前の火山島か伊豆と渡島とにある。伊豆の大島の有する火山は三原山(高さ七百五十五米)と名づけられ、噴火の古い歴史を有してゐる。爆發の力頗る輕微であつて、活動中に於ても、中央火口丘へ近づくことが容易である。渡島の大島も歴史年代に數回の噴火を繰返したが、兩者共に火山毛を産することは注意すべきことである。但しいづれも暗黒針状のものである。
北海道には本島だけでも駒ヶ岳(高さ千百四十米)、十勝岳(高さ二千七十七米)、有珠山(高さ七百二十五米)、樽前山(高さ一千二十三米)の活火山があつて、いづれも特色ある噴火をなすのである。その中樽前は明治四十二年の噴火に於て、火口からプレー式の鎔岩丘を押し出し、それが今なほ存在して時々その彼方此方を吹き飛ばす程の小爆發をつゞけてゐる。また有珠山の明治四十三年の噴火は數日前から地震を先發せしめたので、時の室蘭警察署長飯田警視が爆發を未然に察し、機宜に適する保安上の手段を取つたことは特筆すべき事柄である。十勝岳も近頃まで死火山と考へられてゐた火山の一つであるが、大正十五年突然の噴火をなし、雪融けのため氾濫を起し、山麓の村落生靈を流亡せしめたことは、人々の記憶になほ新たなものがあるであらう。
樽前岳の鎔岩丘