6話 六
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彼れから金を借りた悲惨な貧乏人のうちで殊に悲惨な一家がありました。それはつい彼れの住んでゐる隣り町の鍛冶屋でした。鍛冶屋と云つても、その男は田舎の百姓の農具に用ひてゐる金物をつくる鍛冶屋の向ふ槌を振るより他に芸のない、殊に働きのない鍛冶屋でした。その代りに又、彼等夫婦は誰にも憎まれる事のない好人物なのでした。彼れ等の間には十一になる男の子と九つになる女の子の二人の子供がありました。鍛冶屋の細い働きは到底此の二人の子供と女房を安穏に養つて行く様にはゆかないのでした。其処で女房は一寸した洗濯物をしたり、彼方此方の使ひあるきをしたりして、暮しを助けてゐたのです。
此の一家の一番大切な役目をつとめてゐる女房が或る時突然大熱を患つてしまひました。鍛冶屋は心配して、因業な奴とは聞いて知つてゐたのですが、彦七から参円ばかりの金を借りて、女房の療治につとめました。そして、女房は漸々快方に向いて来ましたが、借りた金は、返すどころの沙汰ではなく、少々の利息もなか/\払へないやうになつて来ました。
約束の期限が切れると、カタのやうに彦七は矢の催促をはじめました。最初の間は尋常に手をついてあやまつてゐました鍛冶屋も、イロ/\彦七が惨忍な金貸の態度を見せはじめますと、もう我慢が出来なくなつて、三度に一度は彦七の云ひ分に楯をつくようになつたのです。
処が、或る夕方鍛冶屋は仕事がへりの往来で、バツタリ彦七に出会ひました。
『オイ、寅さん、お前さんは一体何時あの方の埓をあけてくれるつもりだい。もう期限が切れてから一と月あまりになるのに、利子も録々払つてくれないぢや、俺の方も商売だからな、困るよ。僅か三円かそこいらの金ぢやないか』
彦七はいきなり高声に催促をはじめたのでした。鍛冶屋はムツとしたのでせうがそれでも下手に出て、
『それや、云はれなくつてもわかつてるがね、何しろ其の日稼の事だから、お前さんはたつた三円と云ふけれど、此方にやなか/\大変さ、もう少しまあ待つてお呉んなさい。何んとか工夫するから。』
『工夫/\つて此の間からお前さんはさういつてゐるけれど、工夫ぢやおつつかないよう』
『まあさ彦七さん、此処は往来ぢやないか。私も今仕事のかへりでくたびれてる。云ふ事があるなら、あとでうちへ出掛けて来たらどんなもんだい、往来のまん中で、高声で借金の催促はあんまり見つともない。』
『へん、見つともなきやお前さん、他人から金なぞ借りないがいゝや。此方は貸した金を返して貰はなくちやならんのだ。往来中で催促してはならんといふ理屈はないしさ。貧乏のくせに贅沢な事いひなさんな。催促されるのがいやなら、借りないが第一だ。借りたらさつさと返すがいゝや。』
『まあ何を云はれても仕方がないけれど、さうしたもんぢやないよ。まあ何にしろ往来では催促は御免を蒙むるよ。』
鍛冶屋はムシヤクシヤするのをおさへてさう云ひ放したまゝ行きかけました。
『これ/\寅さん。さうお前さんの勝手にゆくものか。俺はさう閑人ぢやないから丁度此処で会つたが幸ひだから何んとか返事をして貰はう。何? 家へ来い? いけないよ。家へ来いとは何んだ。本来ならお前の方から出て来てこれこれだと断るのがあたりまへなんぢやないか。それを何だつて! 家へ来いだ? 此処で埓をあけて貰ふのだよ。僅か三円ばかりの金ぢやないか。逃げずと男らしく片をつけな。』
彦七は憎々しく云ひつのりました。これが平生それ程借金を苦にしない貧乏人ならそれ程でもありますまいが、生憎と鍛冶屋は、これまで貧乏はしてゐても、借金をした事のない男ですから、気にかゝつて仕方がない処を往来で恥かしめたのだから堪りません。をとなしいけれど一徹な鍛冶屋はすつかり逆上してしまひました。
『もう分つた! こん畜生! 貴様のような因業な奴は斯うしてやるんだ!』
彼れは夢中になつて、丁度持ち合はせてゐた大きなヤツトコでいきなり彼の頭をなぐりつけました。
彦七の横びんから夥だしい血が噴き出すのとその体が倒れるのと殆んど一緒でした。鍛冶屋は夢中になつてヤツトコを振り上げて倒れた彦七の上にのつかゝりました。が直ぐに傍の見物人に抱きとめられました。そして初めて我に返つた鍛冶屋は其処に倒れてゐる彦七の顔を流れてゐる血を見ると、呆然として大地に座り込んでしまつたのでした。
鍛冶屋はそのまゝ帰りませんでした。彼れは警察の拘留場から監獄に放りこまれてしまつたのです。
半月ばかりすると、まだ繃帯をしたまゝ凄い顔をした彦七が、近所の人達にいたはられながら漸く其の日々々を悲しみながら暮してゐる鍛冶屋の家にはいつて来ました。彼れは、女房の嘆願には耳もかさず、何日も眼ぼしい物のない家の中をかきまはした後で子供達二人が縮こまつて眠つてゐる蒲団をハギとつて子供達を畳の上にころがし、台所のかまどから釜を持つて出てゆきました。
此の無情の仕打に、泣きぢやくる二人の子供を抱いて女房は歯ぎしりをして恨み泣いたのでした。そうして近所の女房が見兼ねて貸してくれた蒲団に子供達を寝かすと女房は自分の二人の兄弟に子供の行末を頼む書置きをして家を出て行つたのでした。
其の夜中過ぎ、彦七の家は三方から火をかけられて燃え上りました。彼れが目をさました時には、火はすつかりまはつてしまつてゐました。それでも、彼れは枕頭の手文庫をかゝへて走り出しましたが、入口でしたゝか足を払はれて転んだ拍子に、飛び出して来た人間にその文庫は奪はれてしまつたのでした。
彼が気狂ひのやうになつて、その怪しい者の後を追はうとしました時には、文庫はもう火の中に投込まれてゐたのでした。鍛冶屋の女房は、とう/\彦七を素裸にしてしまつたのです。
火は彦七の家から三軒目でとまりました。彦七は何一つ残らぬ焼け跡に呆然と立つてその醜い顔を引きゆがめてゐました。
彼は火の為めに、彼が命をけづるやうにして築き上げた彼の今までの生涯を跡かたなく失くしてしまつたのです。彼れは激しい落胆の為めに、失神したやうになつて、二三日の間は、ただ焼けあとをうろ/\してゐたのです。
しかし、やがて、彼れの眼にあの盛んな何物をも一気に焼きつくしてしまふ火焔が不断にチラつくやうになりました。彼れは今までの金による復讐を、此度は魅力にとんだ火焔と取り換へました。そして、長い間、彼方此方を徘徊しながら、その呪ひを止めなかつたのです。
彼れが生れた村に帰つて来たのは、最後の思ひ出に、最初に彼れの呪ひ心を培つた土地に呪ひの火を這はす為めでした。
[『改造』第三巻第八号・一九二一年七月夏期臨時号]