5話 四つの都 五 矢野名曲堂。
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古い名曲レコードの売買や交換をしているこぢんまりした店である。ベートーヴェンのデス・マスクの他に船のウキが壁に掛っているのが印象的である。
客が音楽をきいているので、新吉は口を利くのを憚って、黙ってこそ/\と奥へはいる。ビッコの気味。
鶴三も、黙って「お帰り」は眼で言っている。
音楽(第五交響楽)がやんだので、鶴三は、はじめて声を掛ける。
鶴三「新坊、怪我したんじゃねえか」
新吉(振り向いて)「うゝん、せえせん」
そして、こそこそ奥へはいる。
鶴三「それならいゝが。明日は名古屋の工場へ行くんだ。どこも痛い所のないようにして行かなくっちゃ働けねえぞ」
客は始めて口を利く。客というのは蜂谷十吉だ。
十吉「葉子ちゃん、今日はなぜ雨が降ってるか、知ってるかい」
葉子「誰かゞ来てるさかいやわ」
十吉「誰かって、誰だい?」
葉子(指して)「あんた」
十吉(平気な顔をして)「文久三年に品川沖でアンタという名の鯨がとれた事がある、こんな髭を生やしとった」(と鼻の下を指す)
葉子「嘘ばっかし」
奥へ去る。
鶴三「鯨といえば、わたしが欧洲航路の船乗りをしていた時に印度洋で……」
十吉「あんたは、船の話しかしないんだね、昔の夢だよ」
鶴三(レコードを外してブラシを掛けながら奥へ声をかける)「新坊、銭湯へ行って来な」