泡鳴五部作 03 放浪

13話 十三

6,045字 約12分 2016年11月26日 公開

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 北海實業雜誌社の隣りの娘お鈴はよく氷峰を目あてに社の茶の間へ遊びに來る。氷峰も必らず一度はそこへ顏を出すが、雜誌原稿の校正やら、順序取りやらにいそがしいので、お君が話し相手になつてゐる。

 社のお君もまた屡々隣りへ遊びに行く。

 義雄は、退屈まぎらしに、よくこの二人の娘にからかつて見たりする。お鳥がやつて來れば、いづれも、同じやうな年頃の友達だと思ふからである。然し渠等は義雄を叔父さん扱ひにして、氷峰に對する樣なみづ/\しい態度を取つて呉れない。

 素人娘(しろうとむすめ)などは、とても、この場合、自分を慰藉(ゐしや)して呉れるものではないのだらうと、義雄は考へてしまつた。

 實は、お鳥の手紙を受け取る前に、渠は東京の友人なる或婦人に云つてやつたことがある。誰れか一人自分の愛婦に出來る婦人を見つけて呉れ。樺太へ一緒に行つて貰ひたいのだ。自分は、もとの愛婦に棄てられてから、實は寂寥で(たま)らない。若し自分の經歴と性質とをあなたの見た通りに、ありの儘に説明して、多少でもそれが分るものであつたら、成るべく年の若い美人の方がいいが、どんな家業の女でもいい。

「あの老紳士の妾になつてゐて、それと手を切りたいと云つてゐた青森の女はどうしました?」かう云ふことを思ひ出して、その人でもいいからと書き、自分は今の場合どんな女にでも、向うが愛してくれさへすれば、降服してゐるだらう。決して尊敬を缺く樣なことはない。

「それに、妻子があつても、御存知の通り、自分はそれに全く愛情を持つことが出來ない。」表面は有婦の夫だが、精神的には、今囘見つかつたものが本當の妻になれるのだ。

 かういふ意味の義雄の照會に對して、そのをんな友達から返事が來た。然しそれはやはらかな冷罵を帶びた斷わりの返事だ。

「今度初めて田村さんのよわ()を伺ひました」などいふことがあつて、如何に精神的にはさうでないとも、女として自分が人の妾同前なものを世話することは出來ない。それに、あの青森生れの婦人はどこへ行つたか分らない。お望みの種類の女なら、そちらにも澤山ころがつてゐようではないか? あなたの平生の手腕を振ふところはこの場合だ、といふ樣なことがある。

 こんな斷わり手紙でも、優しい手で書かれたのだと思ふと、義雄には、實に嬉しい、有りがたい樣に感じられた。

「まさか、外國の戰場へ出かけてゐるのではあるまいし」と、渠は思ひ直して見たが、それでも女の言葉が無暗(むやみ)になつかしい。

 かう云ふ時に、お鳥の手紙(樺太からまはつて來たの)が來たのであつた。それに對する返事の返事には、

「早く歸つて來て下さい。それでなければ、そちらへ行きます」とあつた。然し義雄は、また、今少し方針のつくまで待つて呉れろと云つてやつたのだ。

 義雄はお鳥を戀しいのは戀しいが、もとの樣にかの女に忠義立てをするほど誠實ではなくなつてゐる。もし他に愛する女が出來れば、お鳥などは呼ぶ必要がないとも思ふことがある。

 然しそれを見つける道がないのだ。渠は聯想は屡々そば屋、だるま屋までに及ぶこともある。然しそんなところへ行くにも餘り無一文である。

 渠は殆ど全く氷峰の食客になつてしまつた。

 氷峰の急がしさうなのを見かねて、義雄は校正の手傳ひなどをしてやり、それに飽くと、有馬の家へ行くが、勇夫婦とは氣が合はないので、多くは市中を散歩する。そして、散歩の途中で行き違ふ艶ツぽい婦人は、すべて渠に餘り澄まし込んでゐる樣に見え、八百屋の百姓馬子と露店の燒きもろこしや林檎などが渠に最も親しみを感じさせるのである。

 義雄は人間を離れて自然も天然もないと云ふ樣な考へを持つてゐながら、何となく人間がいやになつた樣な氣がする。渠は自己の存在を發見するところには必らず苦痛と悲哀とが伴ふことを承知してゐる。それが自己を逸して天然を親しみたくなるのは、明かに自己の自殺であるとは考へてゐるが、どうせ燒け死にをしてもかまはないのだと云ふ氣になると、表面的な天然の誘惑にも平氣で動かされるのが、却つて、自己最後の努力ではないかと云ふ思ひ切りにもなつて來る。

「ああ、人間界を離れて、何の苦もなく天然界に放浪して見たい!」かう考へると、樺太西海岸の巡遊は、餘り深い自己の戀愛や事業やの失敗觀がつき添つてゐたので、無念無想的な快味が少しもなかつた。無論、そんな緩みがなかつたのだ。

 それに、八月二十三日附けのハガキが弟から來たが、とても、話にならない。義雄からの電報並びに手紙は確かに受け取つたが、今暫く金を送ることは待つて呉れろ。テイヤ、ホロドマリ、兩製造場に於いて、まだ仕事を初めない。本年は風波の日が多く、昆布採集の方がまだ終らないが、もう、蟹があがる日も近いだらうから、とあるだけだ。

「ええツ、駄目だ、駄目だ! 渠等はその間何をしてゐるんだ」と、渠は大きく獨語したが、何もしないで、渠等はただ喰つてばかりゐる間拔けさ加減を思ひ浮べた。

 ここにゐて、遠いあちらのことを思ふと、飛んで行つて、殘餘の仕事を切りあげさせたくなる。然し切りあげさせるにも、多少の準備をこちらからして行かなければ、向うに借金があるので、無事に歸つて來ることは出來ないにきまつてゐる。

 成り行きにまかせるほか仕かたがない。

 自分は寧ろこの重り重つた心の荷を全くおろしてしまつて、一つ、北海道中をまはつて見たい。さうすれば、氷峰や勇の家を煩はせることもなく、そしてそのうちには樺太の方も何とか方針がきまつてしまふだらうと思ふ。

 かう思ふと、かの北海新聞記者が、歡迎會の席で語つたことをそのままにして、何の挨拶もなく、渠ばかりが本願寺法主と共に巡囘してゐるのが羨ましい。然しまた考へて見ると、自分は、坊主などを取り込んで、自分の慾を滿たすほどまだ墮落はしてゐない。

 北海メール社を動かすに限ると思つて、義雄は或夜巖本天聲の宅を音づれた。子分らしい青年記者が二人も來てゐて、自分等も文學者になりたいが、どうしたらいいだらうと云ふ樣な質問である。

 義雄は渠等に忠告して、文學者などにはわけもなく成るものではない。文學者につき添ふ貧乏はなか/\辛抱し切れない、途中で商賣換へをする位なら、初めから他に向ふ方がいい。同時代の友人が立派になつてゐる方向へ、――どの方向にも、友人はあるものだが、――中途から向つて行くのは、われながら間の拔けたものだといふ、自分の現在の經驗談をして聽かせた。

 そして、一人の青年の如きは、あたまが惡いので、文學でもやつたらと決心したのだと云つたので、義雄は非常に怒つて、「あたまの惡いものが緻密(ちみつ)な文學などはなほ更ら出來る筈はない――巡査か郵便配達を志願しろ」と警告した。そして、隣りの庭を隔てた家から、長唄と三味線の聲が聽えるのに心を奪はれ、

「いつも聽いて痛快なのは、三味線の人間らしい聲だ、ねえ」と、渠は天聲に語る。そして旅行の問題に移つた時、天聲は、「パスもあることだから、何とか相談して見よう」と答へた。

 八月二十九日の夕かた、小樽の森本が義雄を訪問して來た。義雄はその時生憎(あいにく)留守であつたから、會ふことが出來ずにすんでしまつた。

 然し、函館から歸つたのに相違ないから、その翌日、義雄は樣子を見に小樽へ出かけた。

 小樽は北海道中最も商業的な都會で、金融機關が最もよく備はり、人間も亦最も多く活動してゐる。函館の繁華は昔の夢であつて、今は、その繁榮を小樽に奪はれてしまつた。札幌を純粹な官吏町とすれば、小樽は敏活な活動地である。

 巡歴畫家などが行つて、得意げに包一(はういつ)がどうだの、應擧がどうだの、雅邦がどうだのと説明しても、そこの主人は感服して聽いてゐると思つたら間違ひ――話の途中をもかまはず、思ひ出した樣に番頭に聲をかけ、

「おい、店の方へ米五俵とどけたか」と云ふ樣なことを云ひ出す。などとは、義雄が氷峰から聽かせられてゐた。

 松田の家は花園町にあり、四角に室をめぐらした二階建てで、中庭――冬になれば、雪が軒までも埋めてしまふ――に向つた廊下のがらす戸は、如何にも巖丈(がんぢやう)で、うつたうしい日のつづく冬籠りの状態を思はせる。

 主人は、函館から歸つた翌日、直ぐまた樺太の大泊(おほどまり)へ渡つたさうだ。同所に、九月一日から三日間、樺太建網(たてあみ)漁業家の大會が長官によつて招集されたからである。建網漁場入札税金の引き下げ、漁網の間隔擴張、漁期の延長、雜漁者の刺し網制限等、諸問題の爲めに建網家等が隨分強硬になつてゐるのを、長官はこの大會で相談的に融和折衷しようとするのだ。

 森本も亦けふにも、あすにも、電報の來次第、應援に出かけることになつてゐるさうだ。渠は、無論、主人の命令通り動かなければならないからと義雄に語つた。

 玄關のがらす唐戸を這入つた十疊敷きの室の横にある帳場の格子前で、義雄は渠と對坐して對談した。

 第一に、漁業雜誌の方は人々が不賛成ではないが、維持金を出すだけの熱心がないので、駄目だといふことが分つた。次ぎに、義雄がその前から頼んで手紙で聽いて貰つて置いた事件――(すなは)ち、樺太西海岸の某漁場にたツた一個ある引き上げ蒸氣機械(所有主は今北海道の福島に歸つてゐる)を、本年の十一月から來年の漁業期前まで、木挽機械に使ふのを許して呉れないかと云ふ件――は、使用者さへ確かな責任あるものなら、貸してもいいと云ふ返事が來たことが分つた。

 然しこの件は義雄が副業として材木屋もしくは鑵箱鱒箱製造を始める時の必要であるが、その先決問題であるべき鑵詰製造協同の件はまだ曖昧であるのだ。森本の主人が向うから歸つて來なければ、分らないと云ふのだ。

「もう、どうでもいい。」などと、心では當てにしないが、結局を聽くまでは、相談しかけたことだからと思ひ、義雄は詳しい豫算書きを森本の手帳に控へさせた。

 固定準備品――二百圓、ゆで釜並びに附屬品一切。八十五圓、チンプレス。七十五圓、切斷器。三十圓、切り搾り。十八圓、三本ロール。三十二圓、底締め。十一圓、胴附け。二十五圓、鍛冶屋道具。五圓、臺ばかり。計、四百八十一圓也。これは先づ三四年間は大丈夫つづく物だ。

 消費品(百箱、四千八百鑵に附き)――二百四十圓、蟹二千四百疋。百九十二圓、空鑵並びにハンダ。五十七圓六十錢、硫酸紙、ニス。(こて)、並びに炭代。四十八圓、箱代並びに荷造り費。その他に、工場費――九十六圓、男五人、女十人の出面賃(でめんちん)。運賃(小樽まで)――三十圓。計、六百六十三圓六十餞也。

 それに對して、百箱の收入千圓也とした。そして原料を多く買ひ込み、出面の人數をふやしさへすれば、仕あがりの箱數が多くなるから、それだけ利益も亦多くなること。蟹一疋に附き、マオカで二十錢から二十五錢もしたのに、少し不便なオタトモでは始終八錢の値段を保つてゐたが、それも雜漁者數名を抱へて置けば、ずツと安い割合になること。ここ三四年で蟹は取り盡されてしまふかも知れないから、やるものは充分機敏に早くやらなければならないこと。などを附言した。

 森本はそれに向つて頻りに考へをめぐらし、一年、二年、三年と、金利などをも見込んだ上、「年四割も利益のある仕事は餘りない、ね――まア、よく相談して見るから」と、その話はそれでおしまひになつた。

 巖谷一六の筆で、「疎而不漏(そにしてもらさず)」と書いた大きな額がかかつてゐるのに氣が附いた。魚がどんな惡いことをしたのか知らないが、天網(てんまう)恢々(くわい/\)を漁網の嚴密なのに持つて行つて、漁業家の主人を世俗的に喜ばせた筆者の氣轉が思ひやられる。

「小樽の街でも歩いて見ようか」と、森本が云ひ出したのについて、

「行つてもいい、ね」と、義雄は答へる。

「では、ちよツと待つて呉れ給へ――けふ、二萬五千圓の鰊糟を取引きすることになつてゐるのが、晝を過ぎても音沙汰がないから」と、森本は電話口へ行つて、その本人を呼び出し、いつ頃來て呉れるかと云ふことを尋ねた。そして、「けふは日が惡いから、あすにすると、さ」と云つて、出て來た。

 それから、二人して小樽のでこぼこした有名な石ころ道を歩み、街をまはつてから、山の公園地にのぼつた。後ろの方に、氷峰にうち込んでゐる女の住むと聽いた新遊廓が見える。前をのぞむと、洋々たる海だ、大規模の築港も、半ば完成してゐる。

「小樽には、天然セメントの出る山があるので、築港にも非常な便利です」と、(さる)十五日にここを汽車でとほつた時、同行者の一人が聽かせて呉れたことを、義雄は今思ひ出した。

 森本と共に、海に向つた山上の茶屋に休み、林檎をむきながら、よも山のことを物語る――多くは樺太に關する話だ。

 その話を聽き、また海上を浮ぶ汽船のうちには樺太へ往來するのもあると思へば、義雄の現事業地もたツた一晝夜の隣り――ただ海一つが隔てだ。然しその海が、渠自身の心中の缺陷と同樣、今では最も越え難い。

 海の悲風が慘憺として自分の胸に吹き入る樣な氣がして、義雄は自分の足で自分を踏んでゐる絶體絶命の位置を深く感ぜざるを得ない。

(いや)しくもこのまま死んでしまはない以上、どうしても、この悲痛を實現する一大事業をしたい。」かう、心で叫びながら、自分も一つセメントの山でも發見したい。さう云ふ有形的な仕事が出來ないなら、無形的でもいい――たとへば、死といふ無内容物を轉じて、自己その物と同じ現實的存在物にして見たい。

 かういふ空想に耽りつつ、義雄は一方に森本の(ごく)皮相的な、一般世俗的な事業觀や處世觀を聽くと、自分の自慢ではないまでも、大音樂の前で蚊が(うな)つてゐる樣に見える。二萬圓が三萬圓、百萬圓が千萬圓でも、音樂としては、蚊ほどの聲しか立てることは出來なからうと、義雄は思ふ。

「僕だツて、あんな僻地にいつまでも束縛されてゐる氣はないから」と云つて、森本が獨身の間はどこへでも飛び歩けるが、結婚でもすれば、東京か北海道で定住する樣な仕事を見つけるつもりだとうち明けたのに答へて、義雄は、

「僕も樺太は樺太として、北海道で一つ何かしたいと思つてゐる」と、自分は北海道を知らなかつたから、あちらへ先づ手を出したが、知つてゐたら、直ちにこちらへ來たのだらうと云ふことを語つた。そして、

「それにしても、あちらの方がうまく行かなければ困るから、よろしく頼むよ」と云つて、山を下つた。

 森本の誘ふままに玉突屋へ這入つた。義雄は久し振りのこの遊びで心も活溌になるだらうと思つたが、さうではなかつた。そして渠は森本にさん/″\負けを喰つた。

 それから、松田の家にちよツと歸つてから、晩餐の爲めに、森本はその裏の料理屋へ義雄を案内した。先づ、前者は中央公論を開らき、

「先刻話したのはこれだよ」と、後者に見せる。見ると、九月號豫告のところに「田村義雄氏の人生觀並びに藝術觀を論ず」(百五十枚)とある。

「これが出たら、そしてもう二三日で出るのだが、また答辯する必要があるだらう」と、義雄は云ふ。

 藝者が來て、酒がまはつてから、義雄の重苦しい心も漸く多少の愉快を感じた。

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