23話 二十三
読み方を変える
義雄はその足で氷峰の下宿へ行つたが、留守だ。雜誌社の方へ行くと、氷峰が出しぬけに云ふ、
「ゆうべ君は持てた筈ぢやぞ。」
「そんなことがあるもんか」と答へたが、義雄は女の態度がこれまでに自分の經驗しなかつた親切な態度であると思ひ浮べてゐた。そして、あれは女その物が親切であるのでなく、あの店がさうさせて客を引くのだらうと云ふことを説明した。
「それもさうぢや。」氷峰は金魚の經驗を思ひ起したらしく、「もとから、あすこは丁寧なところぢや――實は、金を屆けないで、もツと君を心配さしてやらうかと思うてをつた。」
「そんなことをされて溜るかい?」
「まア、これを見給へ。」氷峰は自慢さうに一つの封書の開封してあるのを出す。見ると、渠が中島遊園で密會した若杉貞子の手紙だ。義雄は中を出して讀んだが、要するに、氷峰にはほかに女があるさうだから、自分如きものはと遠慮して、とてもお邪魔になるだらうといふことが書いてある。
「どう返事をしたのだ?」
「車屋に持たせて來たのぢやが、僕は無論ほかに女がある、貴孃にその中へ這入られては邪魔だ。僕から要求した金も、他で工面するから、入らないと書いてやつた。女といふ奴はいやなもんぢや、もう、燒いて來たのぢや。」
「そりやア當り前だらう、一度でも關係しちやア。」
「然し、僕の要求は少しも果さないで、そんな勝手なことが云へる筈ぢやない。」
「それもさうだらうが、君の思ひ切りがいいのにも感心すらア。」
「君に感心して貰つても、一向金は出來ぬ。」
「然し向うの身になつて見給へ、な。」
「あれだツて、娘ぢやと云うてをるけれど、何物ぢやか分るものか!」
「さう考へりやア一言もない、さ――女郎を君が胡魔化すのと同じだから。」
「それも、僕が本當に惚れたのなら、別、さ。」
こんな話をしたあとで、義雄は朝晝兼帶の食事の代りに、氷峰と共に、露西亞パンを噛じつた。辨當を取る金がなかつたのだ。
義雄が有馬の家へ歸ると、原稿料がかはせで一と口、友人からの電報で一と口、來てゐた。いよいよこれで歸京が出來る。
それを郵便局へ行つて受け取つた歸り途で、有馬の子供にやるみやげや、夕飯の馳走を買つた。
然しあす、あさつてに出發すると云ふのではない。と云ふのは、義雄が何か一つ握つて置きたいと云ふつもりで、先般、樺太廳の或人に照會したことがある。樺太の木材を樺太以外へ輸出する目的で切れば、特別な保護があるので、税も非常に安い。そして、木材の性質も、三井物産の探險隊が先年報告した樣な、そんな惡いものばかりではないらしい。渠等は實際の探險はせず、いい加減の報告材料を拵らへて、徒らに飮んでゐたのを聽いて知つてゐるから、あれは決して信用出來ない、と義雄は思つてゐる。それを切り出して、一つ北海道の木材と競爭する計畫を立てて見たいので、それに關する問ひ合せの返事を待つてゐるのだ。
その返事がここ二三日のうちに來る筈だ。
晩酌のほろ醉ひにまかせて、義雄は有馬の家から二三町さきの巖本天聲を音づれた。
一つには、歡迎會などのことで世話になつたので、さう冷淡にほうつて置けないからでもあるが、今一つには、出し拔けに歸京を報告して、もう、渠の樣に要領を得ないものの言を待たないといふ意をほのめかしたのだ。
すると、天聲はあわてた樣子をして、
「さうせツかちにしなくてもよからう」と云つて、パスのことを旭川へ度々云つてやつて貰ふのだが、旭川の支局長がなか/\ずぼらで、今囘に限らず、いつも滅多に返して來ないこと。事務の方に、義雄を相當に歡待するだけの費用を出させたいのだが、それも僅かに二十圓内外しか出さないこと。然しその金は既に預つてゐるから、今、中止されては、自分が事務の方に對して困ること。その代り、それだけでは何とも仕やうがないから、今一度パスを請求して見るといふこと。などを語つた。
「では、まだ多少の望みはある」と思つて、義雄はそこを出た。天聲は、中央公論に出た田村論の駁論を義雄が書いてゐるのを知つてゐるから、それを書きあげたか、どうかといふ樣なことを聽き、且、早く書き給へと親切らしく云つた。が、義雄にはこの時何だか他人の仕事の樣に思はれて、別に乘り氣になつた話はしなかつた。
歸つて見ると、まだ九時だ。有馬夫妻は爐ばたに坐つて話してゐる。義雄は何氣なくその仲間入りをすると、夫婦はいづれもしよげた樣な態度が見える。
「夫婦喧嘩でもしたあとか知らん」と思ふと、さうでもないらしい。
義雄はメール社の話がまだ見込みのないわけではなかつたことなどを語つて聽かせた。と云ふのは、こないだ中から、何の話も一つとしてまとまらない爲め、渠等の方に少からず不信用の樣子が見えて來たので、これでも一つ出來たら、渠等も多少自分の價値を認めるだらうと考へたからである。然し、義雄の心では、その實、それを――條件が餘り面白くなささうなので――決してさう結構な話とは思つてゐないのだ。
すると、お綱さんが突然、云ひにくさうな樣子で、
「今晩は島田さんの方へとまりにお行きなさらんので御座いますか」と云ふ。義雄は變な心持ちがした。勇も亦かの女に附いて、
「實は、今晩叔母が歸つて來るか知れないのだ――君も知つてる通り、人の留守番に行つてゐる」と云ふ。
「それが來ると、あなたの蒲團が御座いませんのですよ。」
「貧乏所帶はこれだから困るんだよ」と、勇がまた附け加へた。
お綱と勇とは顏を見合はせた。そして、それを見た義雄は苦笑ひして、では、なぜ先刻出る前に云つて呉れなかつたのだとは思つたが、
「それも尤もだから――僕ア行かう。然し島田にも別な蒲團があるわけぢやアないのだ。然し、まア、お休みなさい。」かう云つて、渠は再び有馬の家を出た。
夫婦が立ちよつて見送りながら、惡くは思はない樣にと頻りに辯解してゐたが、渠には、もう、それが立派な辯解には取れなかつた。
「體よく夜中に追ひ出されたも同樣だ。」かう考へて、渠は重い足を運ぶ。そして、かの八月十五日の午後二時頃、初めて札幌停車場の前に立つた時の寂しい感じを、今夜また、舊暦八日のつき夜に思ひ浮べた。
博物館構内へでも這入つて見ようと思つて、直ぐそばの入り口まで行つては見たが、高い繁木の數多い根もとを透かして、暗く牧草の生えてゐるのが、如何にも物凄い。そして、風にゆらぐ繁葉の間から、隱れた月の光がぽろり/\と夥多の蛇の目の樣にひかつてこぼれるのを見ると、どうしても、おぞ氣がついてそこへ這入る氣になれない。
然し渠は牧草と寢床、木の枝と家を聯想して、自分も兎や蛇の形になつてゐたら、こんな苦悶やまごつきはなからうにと考へる。
構外の路のなかに立つ例のアカダモの樹かげに行き、その根に腰かけて瞑想すると、自分と云ふ物の心熱までが自分の目前にあらはれて來て、生存と云ふ苦悶の闇を照らす樣だ。然しその照らしは却つて自分の苦悶を一層明暸に自覺させる鋭さであつた。
そこにもゐたたまらないので、また歩き出す。然し今から氷峰の下宿へ行つたとて、あれもゐないかも知れない。よしんばゐたとて、つづけざまに風邪の氣味があるので、早く寢てゐるに相違ない。その一つ寢床へ這入り込むのは氣の毒だ。それに、こないだ、一緒にその床のあとさきに枕した時の寒かつたことを思ひ出すと、再びさういふ目に會ひたくない。
「勇等の考へでは、金が來たから、宿屋へでも行けといふのか知らん」と、初めてかう氣が附いて見ると、なほ更らそんな氣にもなれない。
「矢ツ張り自分は自分だ」と考へると、知力も意志も共に感情と合體して、「薄野へ行け」と命令する樣だ。そして、どうせ行くなら、ゆうべの女のところへ行つてやらうと云ふ氣になる。
敷島といふ女が、どことなく、他のよりは可愛い樣なところがあつた。
井桁樓のおもてに達すると、入り口で、涼しいのに、見知りの番頭が睾丸火鉢をしてゐた。冷淡に構へて、然し顏を赤らめながら、義雄は女の名を云つて、その部屋が明いてゐるかを聽くと、
「へい。」渠は馴れ/\しく、「明いてをりますから、どうかおあがり下さい。」
確かにさうかと念を押したうへ、店を張つてゐるものらにわざと顏を見せない樣にして、つか/\あがつた。そのあとに、ばた/\といふ拍子木の音がした。
敷島の部屋に飛び込み、獨り、床の間の前の座蒲團の上で、火鉢に向つてあぐらをかき、そのまま壁にもたれて、川崎雜誌社長がさきに高砂樓でした樣に兩袖で顏を押へてゐると、ばた/\云ふおいらん草履の音が近づいて來て、障子が明く。
多分敷島に違ひないと思つたから、義雄は袖で固く顏を隱してゐると、
「へん、そんなことしたツて、駄目だ」と云ひながら、かの女は這入つて來て、火鉢を中に義雄と相對して坐わる。「入らツしやい。」
「はい、入らツしやい。」渠もわざと固苦しくあたまをさげたが、微笑してゐた。
「來て呉れればよいと思つてたところへ呼ばれたので」と、女もにこ/\しながら「誰れか知らと考へながら來たら、矢ツ張りあなたであつた。」
「おれも」と、義雄は火鉢に兩肱をかけながら、「ばツたり/\とお前の草履の音だらうと考へてゐたら、矢ツ張りお前であつた。」
「眞似師だ、ねえ」と、女は火鉢を越えて渠を打つ。
「然し」と、義雄はその態度のまま、「まア、結構だ。」
「何が、さ?」女は不思議さうに云ふ。
「いつ來ても、御商賣が繁盛しない樣だ。」
「人を!」あツけに取られた樣に體を正し、「馬鹿にしてる、ねえ」と、聲を引ツ張り、「お氣の毒だが、もう、晝間からかせいでしまひましたよ。」如何にも憎らしさうだ。
「ぢやア、おれは來てやらないでもよかつたのだ。」
「何ぼでも、お客が多い方がいいぢやないの?」
「然しさう多けりやア、また、おれとばかりしツぽりといふわけにやア行くまい?」
「だから、明けて置いたとお思ひよ。」
「親切だ、ねえ、この子は。」
「親切ですとも、あなたには。――今晩は、もう、店へ出ないの。」
「そんなことを云つて、矢ツ張り、敷島さん」と、番頭の大きな呼び聲を眞似る。女は不意を打たれて、
「びツくりするぢやないか」と、胸を撫でる。
「然しさう云つて呼びに來たら、矢ツ張りお客に出るぢやアないか?」
「いえ、出ません、わ、今晩に限り――病氣だと云うて。――實際、けふはいそがしかつたもの。」
女はあまえてゐる樣な調子だ。義雄は然しあまい奴と見られない樣に、見られない樣にと努めてゐる。そして、何氣ない風をして、女の耳たぶの下部のニキビのかたまりと云ふのをさはつて見る。番頭が臺の物を持ち運んで來たので、その番頭に、
「けふは、番頭さん、ゐ殘りぢやアないから、安心して呉れ給へ。」
「へい、恐れ入りました。」渠はあたまを下げて去る。
「また來たの?」左近が通りすがりに義雄の聲を聽きつけ、そとから聲をかけた。
「はア」と、ちよツと氣恥かしい樣な返事をしたが、思ひ直して、「また來ましたから、どうかよろしく願ひます。」
「こツちこそよろしくです、わ。――高見さんは?」
「けふは會はないから知らない。」
「ひどいの、ね、あなたばかり來て。」
「そりやア濟まなかつた。」向うへは平氣らしく云つたが、獨りで來たのがこちらの女に弱みを見せるわけだ、な、と思つて、少し自分で自分が面白くなかつた。
「まあ、お這入り」と、敷島がお上手をつかつたが、左近は障子にも手をかけない。
「仲よくお二人でお話しよ。敷島さんはあなたに惚れたのよ。」
「そりやア、まだ早過ぎるよ」と、義雄は障子の方を向いて答へる。
「馬鹿におしでないよ。左近さん。」敷島はゆるんでゐるが、然し圓味を帶びた口調で、「これでも場數を踏んで來たおいらんですから、ね。」
「左樣、左樣」と、そとのも冗談に答へて、「だが、ね、田村さん。」
「はい/\。」
「あなたのやうな呑氣な人のお話は面白いから、また聽かして頂戴よ。」
「はい、かしこまりました。」わざと斯うは答へたが、自分を呑氣な人間と女どもが本氣で思つてるかと思ふと、馬鹿々々しくもなつた。
ばた/\云ふ草履の音が廊下の奧の方へ響いて行つた。
左近の云つたことを敷島のゆうべ以來の言葉振りや樣子に照らして見ると、かの女の「初會惚れ」云々の唄もまんざら無意味に低唱したのではなからうかとも思はれる。
然し何の見どころあつてさうかと考へて見ると、それも女等の言葉に徴して、ただ「呑氣な人」「面白い人」と云ふにとどまるらしい。
自分は決してそんな男ではない。と、かう義雄は心で憤慨した。こんなところへ來るのが既にやぶれかぶれであるので、思ひ切つた馬鹿も云ひ、思ひ切つた踊りもするからこそ、渠等は不斷の不愉快と低氣壓とから救はれて、面白くもあらう。
渠等の不斷の生活が所謂苦界で、つらいことはつらからうが、そのつらさは子供に與へるおもちや同樣の物を與へれば濟む。たとへば、人形とか、風船玉とか、飛行機模型とか、そんな物で一時をまぎらしても濟むのだ。渠等自身が既におもちやだから、人をおもちやにするのも何とも思つてゐないのだ。自分はいくら失敗や墮落しても、決して渠等の慰みには使はれない。
「然し、まア、假面をかぶつてゐるのも一興だ」と覺悟して、義雄は女の調子を取つてゐる。
そして、互ひに酒をついだり、つがせたりしながら、義雄はきのふと同じ冗談を云はうと思つても、どうしてか、それが出ない。また云ひたいこと、問ひたいことが女の身の上や考へに就いて山々ある樣で、然し、それも相手がそんな種類の女だと思ふと、眞面目には出て來ない。
あり振れた題目よりほか話がないままに、膳も引けてしまつた。
義雄は左近――の方をいいと見たので――あれを敷島よりも好きだと公言する。すると、敷島は、あの人は若い樣だが、自分より三つも四つも年うへであり、また、おとなしいので、近々引かせて呉れるお客がついてゐるなど云ふことを語つた。そして、
「わたしも、誰れか引かして呉れるお客があれば、ね――」と、聲を引いて、遠慮がちに男にすがり附く。然し男が、
「ぢやア、おれが引かしてやらうか」と云つても、なか/\信ずる樣子はない。
「けふ日のお客さんは女郎よりも餘ツぽど商賣人だ」と云つて、女は男といふものの信じ難い例として、自分の一度打ち込んだ道廳の青年官吏の物語りをした。隨分つかはせたあげくだが、その友人と共に店の格子さきに立ち、百圓の金がなければ免職される破目になつたから、どうかして呉れないかとの相談を持ち込んだ。その翌日、自分がこの店へ住み換へをして、それを調達してやつたのは遣つたが、それが男の官金を費消した埋め合せになつたばかりだ。有罪にはならなかつたが、そのまま遠方へ轉任して、便りがなくなつた。
「それから、もう、二度と再び男になど惚れるものか」と決心したのださうだ。そして、女郎を本氣にさせるのは容易いことだ。二三度ぱツぱと使つて見せ、それから格子のさきに立つて、ちびりちびり無心を云ひかければ、初手の女なら、大抵それで釣られてしまふといふことを語つた。
然し、かの女が義雄の顏を、屏風のあちらになつてゐる電燈の光の薄暗い餘波に照らして、ぢツと見つめながら、
「うらの返しに來て呉れたの、ね」と云つた時は、渠も何となく女の寂しい心が思ひやられ、それを、あす、また、裏門の柳のかげから、冷然として、あとは見ず知らずの人の如く、立ち去らなければならない自分の心と對照して見た。