28話 深夜の婦人客
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お話変って、旗本屋敷の地下室に、この恐ろしい地獄の光景が展開されていた、丁度その時、我々の素人探偵明智小五郎は、近頃借り受けた、お茶の水の「開化アパート」の新しい住居で、物思いに耽っていた。
明るい快活な明智小五郎ではあったが、彼とても、探偵事件がうまく運ばぬ様な時には、憂欝に沈み込むこともあるのだ。
借り受けているのは、表に面した二階の三室で、客間、書斎、寝室と分れているのだが、彼は今その書斎の、大きな安楽椅子に、グッタリと身を沈めて、彼の好きな『フィガロ』という珍らしい紙巻煙草を、しきりと灰にしていた。
作者は七年程前に、「D坂の殺人事件」という物語で、書生時代の明智を読者に紹介したことがある。当時彼は煙草屋か何かの二階借りをしていて、その四畳半の狭い部屋に、書物の山を築き、書物に埋って寝起きしていたのだが、彼の書物好きは今でも変らず、「開化アパート」の書斎にも、外遊の間、友人に預けて置いた蔵書を取寄せ、四方の壁を隙間もなく棚にして、内外雑多の書籍を、ビッシリ並べている。いや、棚ばかりではない。例の調子で、デスクの上にも、安楽椅子の肘掛けにも、電気スタンドの台の上にも敷きつめた絨毯の床の上にさえ、ふせたのや、開いたのや、様々の書物を、まるで引越しの様に散らかしているのだ。
それは兎も角、デスクの置時計は、もう十一時を示しているのに、寝ようともせず、彼は一体何を思い耽っているのであろう。外でもない玉村宝石王一家を襲う、魔術師の様な怪賊のことだ。
大森海岸の一軒家で、妙子を取戻してからもう一ヶ月にもなる。その間、決して探偵の手をゆるめた訳ではないのだが、不思議な賊は杳として消息を断ったまま、どの方面にも影さえささぬのだ。
海岸の一軒家を始め、例の魔術の興行された芝居小屋、海岸一帯の汽船など、心当りは漏れなく調べて見たけれど、用意周到な怪賊は、髪の毛一筋の手掛りさえ残して置かなかった。相手には、四十年の長い間、練りに練った用意があるのだ。どんな小さな行動でも、一つ一つ、ちゃんと練り上げたプログラムに従ってやっているのだ。こうすればどうなると、あらゆる場合が考慮されているのだ。いくら明智が名探偵であっても、こんな相手にかかっては、そう易々と勝利は得られぬ。
魔術師の事を考えていると、いつの間にか頭に浮んで来る二人の女性があった。玉村妙子と賊の娘の文代である。
妙子とはS湖畔のホテルで仲好しになり、今度の事件も、半分は妙子の為に手を染める様になったのだが、彼女との交際では、どちらかと云えば妙子の方から近づいて来た。甘い眼遣い、甘い言葉が、明智を虜にしてしまったのだ。管々しいので一々は書かなかったけれど、事件が起ってからも、彼は度々妙子と二人切りで話をする機会があった。だが、妙なことに、二人の交際が深くなればなる程、明智の胸から恋らしい心持が薄れて行くのが感じられた。彼は妙子と友達以上の関係へ進んでいないのを、寧ろ喜びさえした。
それは、非常に幽かではあったが、妙子の性質に、何かしらしっくりしないものがあったせいもある。だが、もっと大きな原因は、賊の娘の文代の出現であった。悪人の父とは似てもつかぬ美しい顔、美しい心、燃える様な純情。いつかの夜、玉村二郎に述懐したのでも分る様に、明智は賊の娘を恋し始めていた。文代の方でも明智を慕っている気持は、品川沖の怪汽艇での出来事以来、分り過ぎる程分っている。
何と云う不思議な因縁であろう。名探偵は敵と狙う賊の娘を恋している。娘の方では、真実の父親を裏切ってまで、明智に好意を示そうと、いたましくも悶えている。
「フフフ……、貴様は何という馬鹿者だろう。相手は殺人鬼の娘だ。出来ない相談だ。そんな妄想は綺麗さっぱり、西の海へ吹飛してしまえ」
明智はフィガロの紫色の煙の中で、苦々しげに呟いた。
と、丁度その時、何かの暗合の様に、隣の客間のドアに、ホトホトとノックの音が聞えた。
十一時過ぎの来客だ。少しも当てがない。誰だろうと思いながら、物憂く立って行って、ドアを開いた。
廊下にションボリ佇んでいたのは、外套の毛皮の襟で顔を隠した、洋装の女であった。
「お間違いではありませんか。僕は明智というものですが」
明智は予期せぬ来客に面喰って尋ねた。
「イイエ」
女は毛皮の下から幽かに答える。
「では僕をお訪ねになったのですか。あなたはどなたです」
女はやや暫くためらっていたが、やがて決心した様に、
「どうか、お部屋へ入れて下さいまし。誰かに見つかるといけません」
と、さも惶しく云うのだ。
商売柄、明智はさして驚きもせぬ。何か犯罪に関係があるなと思ったので、云うがままに室内に招じ入れて、ドアを閉め、スチームの暖房装置に近い椅子を勧めた。
「夜中失礼だと思いましたけれど、大変なことが起ったものですから」
女は詫言をして、やっと外套を脱いだ。
「ア、君は、文代さんじゃないか」
女の顔を一目見ると、明智がびっくりして叫んだ。今も今とてその人のことを考えていた、賊の娘の文代に相違ないのだ。
「エエ、あたしここまで抜け出してくるのが、やっとの思いでした。サア、早く外出の御用意をなすって下さいまし。玉村さん御一家の方々の命にかかわる大事です。父を捕えて下さいまし。あの悪者の父をこらしめて下さいまし」
文代は泣かんばかりに云うのだ。娘が父を捕えてくれとは、よくよくのことである。
聞いて見ると、文代は隅田川の川口に碇泊している、例の怪汽艇の一室にとじこめられていたのだが、次の室で賊の部下達が話しているのを聞いて、小石川の旗本屋敷の陰謀を知り(彼女は前章に記した賊の悪企みを、手短かに語った)非常な苦心をして汽艇を抜け出し、タクシーを飛ばして明智の住いへかけつけたというのだ。明智が「開化アパート」に移ったことは、とっくに賊の方に知れていて、自然文代の耳にもは入ったのだ。
又、先日来の大捜索に、この怪汽艇がどうして其筋の目をのがれたかと云えば、外部をすっかり塗り変えて、真面目な貨物船と見せかけていた上、多くは港外の海上をあちこちして、同じ場所に半日とは碇泊しなかったからである。
「あたし、それを聞きましたのは、夕方の五時頃でしたが、父の部下の一人をだまして、戸をあけさせるのに、つい今しがたまでかかったのです。それは苦労を致しましたわ。で、もうこんなにおそくては、あとの祭りかと思いましたけれど、一番恐ろしいことは、まだ済んでいないかも知れぬと、それを頼みに先生のお力を拝借に伺ったのです。なんぼ父親のすることでも、四人もの命が奪われるのを、黙って見ている訳には行きません」
「一番恐ろしいことと云うのは?」
明智が尋ねると、文代は物云う暇も惜し相に、早口に答えた。
「その穴蔵を抜け出すには、骸骨の置いてあった、煉瓦の破れた所から、土を掘って地上へ出る外はありません。四人の方はきっとその方法をお選びなさるに違いありません。ところが、それは父の思う壺なのです。ちゃんとそのことを見越して、恐ろしい仕掛けが出来ているのです。そこの土を上の方へ掘って行きますと、深い水溜りの底へ出ます。その水溜りへは、庭の大きな池から水が通う様になっていて、一度土がくずれると、池の水が悉く地下の穴蔵へ流れ込み、中にいた人は溺死しなければならぬのです。アア、こういう内にも、四人の方は、もうその水責めにあっていらっしゃるかも知れません。サア早くいらしって下さいまし」
それを聞くと、明智は少しもためらわず、書斎にかけ込んで、卓上電話に向い、警視庁の波越警部の自宅を呼出した。
犯罪捜査を生命とする波越警部は、枕下に官服と電話器とを置いて眠る習慣だったので、取次を待つ面倒もなく、直様聞慣れた相手の声が出た。
明智は手短かに仔細を語り、小石川の旗本屋敷の所在を教えて、先方で落ち合う約束をして電話を切った。警部の方では、電話で小石川警察に手配を依頼した上、自分も数名の警官を伴い、直ぐ現場に自動車を飛ばす筈であった。
明智は電話を継ぎ直して、近所のタクシーを呼ぶと、元の客間へ引返した。
「お聞きの通りです。何だったら、あなたは、ここに待っていてはどうです」
「イイエ、構いません。あたし、その家の様子をよく知っていますから、ご案内致しますわ」
文代は眉を上げて、固い決心を示した。実の父親の捕物に、案内役を勤めないではいられぬ、悲しい娘の心。何という因果なめぐり合わせであろう。
その深夜、お茶の水と、丸の内を出発した二台の自動車が、一台には明智と文代、一台には波越警部と四名の部下をのせて、小石川の高台へと走った。
「間に合いますかしら。あたし、何だか胸がドキドキして……」
文代が気をもんでいたと同じく、別の車では波越警部が、
「今度こそは、兇賊を捕えないで置くものか」と汗ばむ拳を握っていた。