故郷七十年

25話 辻川の話 先祖になる

1,258字 約3分 2018年7月31日 公開

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 伊藤一族のことは、いつか『先祖の話』という本の中で書いたことがある。商人として辻川に来て、村を一変させた一族である。『先祖の話』という本は、散歩の途中、話をした年寄りが、自分は御先祖になるのだといった言葉に大変興味をもち、外国に移住する人にもその覚悟が必要で、先祖というものに対する考え方を変えなければならないという積極的な気持になって、この本を書いたわけであった。

 戦争がひどくなって遠くに行けなくなり、住居の近所ばかり散歩していたところ、原町田という所のバスの停留所で、法被を着た私と同年輩の爺さんと、三十分ぐらい話をしたことがある。ゴムの長靴をはいた変った風采の人であった。陸川(りくかわ)という人で、生れは越後の高田在で、信州で育ち、兵役少し前に東京へ出て、請負師をして非常に成功した。家作も大分あり、楽に暮しているという。子供は六人とかあって、皆それぞれ一人前になって家を持ったから、新たな六軒の一族の「あたしは先祖になる」というのであった。その話をきいて、私は播州の伊藤一族を思い出した。私の家から分れたに違いないのに、私の家の分家でもなく、一族でもない。つまり分れた人が御先祖になったのである。当主の曾祖父を福渡藤兵衛といい、明治の初めに苗字を「松岡」とつけず「福渡(ふくわたり)」とつけた。辻川から二里位川上に、福ノ泉という部落があり、そこの伊藤家というわけであった。

 その家は私の先祖でもある。私の六代前に勘四郎という人があって、その夫婦の孫に当るお類というのが福渡へ嫁に行き、何か訳があって、男の子一人をつれて松岡に帰って来た。母親はそのまま里方で亡くなったが、息子は母方の医者にならず、町の商家に奉公してよく働き、資産を作って、辻川で商売をはじめたのである。この人が伊藤一族の初代に当る福渡藤兵衛であった。私が生れたころはもう二代目の爺さんの代になっていたが、初代の藤兵衛は、一代のうちに三軒も四軒も分家を作ったえらい人で、わざとと思うほど自分の家を本家本家といわせて、伯父の松岡家を本家と呼ばせなかったのである。その後だんだん分家がふえ、各家とも金持で団結力が強かった。

 時世の変り目、新しい職業がいくらでも生れるような時代には、こういう独力で御先祖になり得た人があったのである。本家を「繰屋(くりや)」と呼んでいた。綿を繰る家というのであったかと思う。辻川では昔は屋号がみな二言で、何々屋というのはなく、何屋、すなわち升屋とか角屋、鶴屋などという家ばかりであった。血筋の問題、遺伝の問題から考えて、この一族は興味のある家である。神戸や西宮にまで発展をし、ただ商売だけでなく、学問をする人もあった。医学博士になった者もある。一族の中の伊藤源次郎という人はなかなかの好人物で、堰溝(ゆみぞ)の傍に、私の祖母小鶴の信仰していた地蔵堂が傾いたのを再建したのも、この人が中心であった。

 先日この家の系図をよく見たところ、私どもの家の初代の勘四郎が、この福渡の伊藤家から出て、松岡の姓に戻ったことがはっきりしたのは、私としても嬉しいことであった。

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