26話 辻川の話 西所の松岡
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私ども松岡家の初代の先祖として知られている勘四郎の妻は、前記の伊藤という家から来たことがはっきりしている。その伊藤の家へ、もと松岡から出て、その跡取りが暫く松岡へ食客に戻って来ていたので、松岡の方では何か分家を見るような気持でいたが、先方は三文もわけてもらったわけではないから、そうは思わず、繰屋をあくまで一族の本家と考え、福渡と名乗って辻川へ戻り、それがまた伊藤姓に還って現在にいたっている。
私どもの松岡という家は、代々一人っ子が続いて、家系がつづくかどうか大変危かったが、私ども兄弟になって五人も生残ったのみか、みな子孫が増えているのは、家の歴史からみれば大きなことであった。兄たちは昔を考えて播州を恋しがっていたが、どちらも医者であったから、そう頻々とは郷里へ行けなかった。その子供たちになるとなおさらで、たまに一ぺん行けば、もうそれで義理を果したような気持でいる。思えば家というものにも、精神的には生物と同じく、寿命があるのではないかと思う。その寿命を無理に引きのばそうとするようなことはしない方がいいのではないか。私らのように漫然たる故郷というものにしてしまう方が本当ではないかと思う。
兄弟全部辻川とは離れてしまったが、祖先の身体は郷里の土になってどこかに残っている。私の考えもあったが、辻川の山の裏の妙徳山悟真院というお寺の中に、少しばかり地面を譲ってもらって、そこに全部まとめておまつりしてある。私どもの方の血筋はもう誰もいないので、今では三木家でまつってもらっている。
北条の母が出た実家、尾芝家の墓は、菊ヶ谷の一隅にあり、これは尾芝の縁続きの者が親切に世話してくれている。
私の家の古い言い伝えでは、江戸時代のはじめごろ、開祖が兄弟連れで播州の西部から辻川に来たと伝え、したがって多分赤松一族だろうということになっている。二軒に分れ、一軒はかなり良い生活をし、もう一軒、つまりこの家が私の方の本家の最初らしいが、開墾者として、自分で労働をしなければならない家であった。
私の家は西所にあった。一族の中心の家を大西と親類仲間でいっていたが、その本家の藪のあったすぐ隣に、本家にいちばん近い松岡があって、これは、なかなか面白い家であった。松岡一郎といって、今は東京にいるが、この人や、辻川の家を継いだその弟など、いちばん私の相談相手になってくれた。この家は開祖の松岡兄弟と叔父甥といった関係の古い分家だったらしく、よく調べてみたいような家柄であった。
辻川はあまり広くない村で、その大部分を松岡一族で耕作し、分家を遠慮もなくふやしていったらしい。三木家の方は古くはあっても、分家が大東と中三木との二軒しかなかった。私の家は父が姫路で学者生活をし、都会人になって帰って来たので、もう耕作に関係せずに専ら医者で立ってしまったが、それ以後、辻川でもそういう家がだんだんふえて、村の変化を促進したのであった。