27話 辻川の話 田の字型の家
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前にもちょっとのべたが、故郷の辻川の私の家は、今大門に近い「カケアガリ」に移されて、家の型といい、構えといい、昔の面影はすっかりなくなって、まったく変ってしまっているが、子供のころの家をおもい出してみると、何もかも、すべてが一種の縮小型であった。庭木の植え方までが、そうであった。間取りは田の字型の四間で、小さいながらそれに泉水のある内庭がついていた。
玄関を入った所が三畳、その奥に四畳半が二間並んでいて、一通りの形を整えていたことから、私は後年、日本家屋の構造を比較研究する場合に、何時もこのこじんまりした辻川の家を出発点とするようになった。
日向を旅して椎葉に行った時、そこの民家の構造が、非常に私の生家などと違っていたので、どういう訳だろうと思って、新渡戸博士と議論をしたことがある。四間通りの家が原則だというのが新渡戸説だったが、私はそのころは、二間造りの部屋にうしろのないのが本当で、あとになってだんだん奥の方へ建て増していったものではないかと思い込んでいた。
ところがそれは思い違いであった。日向の椎葉とか、あるいは大和の十津川とかいうような山の崖の下にある家では、そう奥行がとれないから、一間通りにする他なく、やっと前へ出すとか、縁側をつける程度ですましているのであることが判った。つまり山村の建築には、田の字型というのでない間取りが少なくない。どっちが旧いかというと、やはり四間通りの田の字型ではないかと、今では思っている。
近年になって、農家の建築が非常に発達し、田の字型がごく普通になったが、その前はやはり縦にいくつかの部屋が並んでいて、その間はただ便宜上衝立などでしきってあったのではないか。そして用のない時は、しきりをぐっと奥によせて、手前の方を広くしてあって、ただお産があったり、病人が寝たりすると、しきりをこちらまで持ち出すというふうに、動きのとれる家が普通だったのではないかと、いつでも旧い家を見るたびにそう考える。
前にのべた東北の鈴木家で、真澄などが泊ったのは真中の部屋であったという話である。表の客間は、もっと格式のある偉い人のために用い、真澄のような旅の歌詠みが来ても中の間に泊めたわけである。辻川の三木家などでも、郡長とか県の役人が来て泊るのは表の客間で、普段は空けてあった。そして私などはいつも中の間に泊めて貰っていた。
私の生家に本が少なかったことが、かえって私を本好きにし、そして家が小じんまりしていたことが、私に日本家屋の構造に興味をもたせるようになったのは、面白い経過であったと思っている。